現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

堀江敏幸「いつか王子駅で」

2024-05-07 16:11:06 | 参考文献

 2001年に「熊の敷石」で第124回芥川賞を受賞した作者の、初の長編作品です(それまでは短編集しか出していませんでした)。
 といっても、この作品も、一章から七章までは「書斎の競馬」という雑誌に掲載された連作短編で、八章から十一章までを追加したものなので、連作短編集的な味わいもあります。
 専門のフランス文学だけでなく日本文学にも造詣が深い作者は、昔ながらの「文士」的な雰囲気があり、若い(この作品を書いた時は三十代半ば)のに老成した印象を受けます。
 文章も擬古的で滋味があって、伝統的な文学ファンには魅力があることでしょう。
 出てくる人物は魅力がありますがすべて善人ばかりで、「なずな」の記事にも書きましたがユートピア小説の趣があります。
 作者の古風な(あるいはそれを装った)作品群は、時には鼻につくこともあるのですが、この作品には初めて読んだ時から児童文学に通ずるものを感じて、作者の中では一番好きな作品です。
 それは、主人公が家庭教師をしている中学生の女の子(その親が彼の住んでいる部屋の大家でもあるのですが)が非常によく書けていて、日本のどの児童文学作品に登場する女の子たちよりも生き生きと魅力的に描かれている点にあります。
 彼女は、主に後半の書き足された部分に出てくるので、この作品を長編として成立させているのは彼女を創造できたおかげだったかもしれません。
 この作品には、彼女の外に、主に前半活躍する主人公いきつけの小料理屋の女将も魅力的に描かれていて、主人公にとって対照的な二人のミューズになっています。
 この作品を好ましく思っているのには、個人的な理由もあります。
 まず、舞台になっている北区の「王子」は、私の育った足立区の「千住」と非常に近く、自転車でよく遊びにいっていました。
 また、曾祖母が住んでいたり、祖父が晩年に入院した病院があったりと、個人的になじみ深い場所でもあります。
 作品に頻出する都電荒川線も、学生時代に時々大学に通うのに使ったりしていて懐かしい路線です。
 もう一つの理由は競馬です。
 この作品が競馬関連の雑誌に連載されていたこともあり、タカエノカオリ(1974年の桜花賞馬で、前述した小料理屋「かおり」の名前の由来)を初めとして、ニットウチドリ(1973年の桜花賞馬)、テスコガビー(1975年の桜花賞(大差勝ち)とオークス(八馬身差勝ち)の二冠馬。当時は秋華賞はおろかエリザベス女王杯もない時代なので牝馬としてはパーフェクトな成績で、戦前のクリフジや最近のウォッカやアーモンドアイなどと並び称されるような最強の牝馬)、キタノカチドキ(1974年の皐月賞と菊花賞の二冠馬)、そして今では懐かしいフレーズになった「三強」(この三頭が一着から三着を占めた1977年の有馬記念は、史上最高のレースと言われています)のテンポイント(1977年春の天皇賞と有馬記念の勝ち馬)、トウショウボーイ(1976年の皐月賞と有馬記念、1977年の宝塚記念の勝ち馬)、グリーングラス(1976年の菊花賞と1978年春の天皇賞と1979年の有馬記念の勝ち馬)などの懐かしい馬名が頻出します。
 作者は私より十歳も若いのに、1970年代の競馬に精通しているので、私に限らず古い競馬ファンにはたまらない作品になっています。
 私が競馬に熱中していたのは、タニノムーティエ(1970年の皐月賞とダービーの二冠馬)のダービーからテンポイントの死(1978年1月22日の日経新春杯で小雪舞う中66.5キロという今では信じられないような過酷な負担重量(その後JRAではどんなハンデ戦でもこのような馬鹿げた負担重量にはしないようになりました)のために骨折し、JRAの総力を挙げての治療と子どもたちも含めた全国のファンの願いもむなしく3月5日に亡くなりました)までなので、この作品で取り上げられている名馬たちはまさにジャストフィットしています。
 それにしても、優駿(JRAの機関誌で今のように通俗化していませんでした)1978年2月号の表紙(毎年2月号の表紙は前年の年度代表馬の全身をとらえた写真でした)のテンポイントは、信じられないほど美しく、まさに神が舞い降りたようでした。

いつか王子駅で (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社

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