始まりに向かって

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神と仏を重ね合わせる・・中世・比叡山の天台宗と、神仏習合(4)

2014-06-10 | 日本の不思議(中世・近世)


引き続き、黒田龍二氏の「中世日吉社における神仏関係とその背景」という講演をご紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


           *****

         (引用ここから)


<「下殿」の形成>

最初に述べたように、「山王宮曼荼羅」を見ると、本地垂迹説の関係が極めて明瞭に示されている。

そして(しかし?)江戸時代には、本殿の床上内陣に神像が祀られ、床下の下殿には本地仏が祀られていた。


それでは下殿が床下に作られた理由は、本地垂迹説に基づいて仏像を祀ることだったのかというと、わたしはそうは考えていない。


本地垂迹説は仏を上位に置く考え方で、「山王宮曼荼羅」でも仏が上に描いてある。

またそのような単純な上下の関係以外にも、先に見たように下殿には下層民を中心とするいささか猥雑な世界が広がっていた。

したがってはじめから本地垂迹説に基づいて下殿を設け、本地仏を祀るということではなかっただろうと思う。


一般的な事例を見ても、本地仏は理念上のものである場合、あるいは神社の近辺に神宮寺や本地堂を作って祀る場合、または仏像を神体とする場合が多い。

本殿床下に本地仏を祀るという事例は「日吉社」以外には知られていないのである。




もう一つの考え方としては、「反本地垂迹説」がある。

これは神主仏従、神本・仏従と表現されるように、本地垂迹説を逆転させたものであるから、神が上で仏が下というのはちょうどよいことにはなる。

しかし本説の形成期は鎌倉時代後期から南北朝期で、大成されたのは室町時代とされる。

一方下殿は「平家物語」の説話的題材であるから、すでに「平家物語」の形成期以前に存在したこととなり、下殿ができたのは鎌倉時代前期以前、一説には平安時代、11世紀に遡るという見方もある。


したがって、下殿の形成に関しては次のように整理できる。

1・祭礼前の宮籠りのような祭祀上の用途があった。

2・「日吉社」が巨大化し、境内が下層民も含む民衆にまで開放的になった時代に、下層民のたまり場となり、また同時に民衆にとっては究極の祈願の場と認識された。

3・以上の時期に下殿がどれほど建築的に整備されていたかに関しては疑問があり、おそらく室町時代に下殿は整備されて本地仏が祀られるようになった。


このように整理すると、神仏習合の好例のように見える「日吉社」本殿の建築構造は、相当に複合的な契機で形成されたものであると言える。

神の内に霊威を見、仏の内に慈悲を見、しいて言えば、神と仏を重ねて見ていたであろうことが重要である。

特に下殿に集う人々の意識の中には、神と仏を区別しようという意図も、一緒にしようという意図もなかったのであろう。


中世の「日吉社」は基本的に延暦寺の一部である。

だから「日吉社」の最終的な責任者は天台坐主ということになる。

それはよいとしても、では日吉社自体の責任者は誰なのか?、

そして一体どこまでが日吉社なのか?、、このあたりが難しい問題である。


前近代においては、神事と仏事は微妙に入り混じっていることが多く、その区別は当時の人々の関心事ではない。

そのため、日吉社を神社と寺に分けるとか、日吉社で行われる行事を神事、仏事にわけることはそうとう困難であると同時に、どれほどの意味があるのかがわからなくなるのである。


               (引用ここまで)


                  *****

地下のいうものの持つ、秘密めいた妖しさを感じます。

天台宗と神道の関連は、なかなか奥が深いようです。


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