「熊野のヤタガラス」の続きです。
神武天皇を大和へと導いた熊野のヤタガラスは、その後、聖徳太子の時代に登場します。
聖徳太子のおいの蜂子皇子(はちこのみこ)は、崇峻(すしゅん)天皇の息子ですが、父天皇が曽我馬子による暗殺の危機にあると知り、聖徳太子のアドバイスに従って585年、京都から日本海を通って東北に脱出しました。
彼が到着したのは、山形県鶴岡市の海岸でした。
山形に上陸した彼の前に、三本足のヤタガラスが現れました。
ヤタガラスに導かれて、山の奥へと進んでいきました。
その山は“黒い羽”という名前の、羽黒山でした。
そして羽黒山の山中で修業をかさね、出羽(いでは)の神を拝して593年、蜂子皇子(はちこのみこ)は出羽三山を開山したとされています。
羽黒山、月山、湯殿山、この三つの山は以来、修験道の山となり、明治政府が廃仏棄却令で、仏教から神道への変更を強行するまで、神仏混淆の山岳仏教の一大修業場として大きな力を持ちました。
伝説によれば、役の行者もやってきたけれど、途中で戻されたという話もあるそうです。
それほど、強いエネルギー、あるいは独自の権力をもった場所だったと言いたいのだと思われます。
ヤタガラスに導かれた蜂子皇子(はちこのみこ)は、羽黒大権現という名の山の神に出会います。
“羽黒”とは、カラスを指しているように思われます。
彼が導かれたのはカラスの山であり、カラスの神であったということではないでしょうか。
羽黒山のおおみそかには、「からすとび」という行事が行われます。
これはヤタガラスを現していると言われています。
この行事の後には、うさぎの身なりをした人も登場します。
うさぎは月山からの使者であるとされています。
うさぎは、月のシンボルなのでしょう。
黒いカラスと白い兎が、まるで童話のようです。
内藤正敏著「日本異界発見」から引用します。
***
深夜11時、松例祭もいよいよクライマックスを迎える。
まず本殿で「烏とび」がはじまる。
12人の山伏が二つに分かれて右回りと左回りに進みながら、空中にカラスのように飛び上がり、その姿の美しさと高さを競いあう。
「烏とび」が終わると「うさぎの神事」となる。
白うさぎのぬいぐるみを着た山伏が、本殿正面で12人の山伏の真ん中に座り、山伏が一人づつ扇で机をたたくとうさぎが従うしぐさをする。
この時のカラスは羽黒権現の使者で“太陽”、うさぎは月山権現の使者で“月”とされ、カラスとうさぎで日月の運行を表す。
***
ヤタガラスは、羽黒山の世界においては、山そのものを黒い羽のカラスのイメージでおおい、そのイメージは開祖・蜂子皇子(能徐=のうじょ、ともいう)の人物像にも転移されているようです。
父天皇を暗殺され、都を追われた皇子は、奥まった山の中でいつのまにか不思議な鳥に変貌してしまったかのようです。
皇子は耳までさけた口、おそろしいこの世のものならぬ風貌をしていたとされていますが、都を追われ、山にこもって修行をした皇子は、カラスの山で、いつしか異能をもつ怪鳥に変化していったのではないでしょうか。
鳥のような、人のような山の生き物といえば、天狗でしょうか。
大和和夫著「天狗と天皇」によると、天狗は負けた者の神となるということです。
***
山の天狗は反権力で敗者につく。
なぜかというと、権力は里にあり、山は里・中心と対立する異世界・周辺とみなされていたからである。
日本中の修験の山の天狗が牛若を守っているのは、仏教が我が国に伝来する以前からの固有信仰である山岳信仰に、天狗信仰は根ざしているからである。
その固有の信仰を特に色濃く受け入れた密教は、空海の真言密教であった。
真言密教が民衆に受け入れられ、空海崇拝や伝説が民間に根強く広がっているのは、民衆が伝えてきた固有の信仰を空海の真言密教が取り入れ、民衆の信仰により近いものになっていたからである。
山の神としての天狗は、里の権力にとっては荒ぶる神、魔であり、反権力の“もののけ”であった。
***
また、天狗の鼻が高くなったのは新しいことで、元は鳥のくちばしだったということです。
***
天狗像は「今昔物語」に見られるように、室町時代まではトビの姿か、トビのくちばしをもった人として描かれている。
鼻高の天狗は主に近世からのもので、古く見ても室町時代末以降のものである。
同著より
***
カラスや天狗は、羽のある人間、鳥人間であり、東洋の天使と言えるのかもしれません。
東北のヤタガラスは、大和の地に現れたヤタガラスとは一味違う“すごみ”があるように思われます。
羽黒山の奥の院である湯殿山は日本のミイラ仏のメッカでもあります。
ここのミイラはエジプトの王様のように死後人々によって処理がほどこされて作られたものではなく、本人の力で、自力でミイラになった方々です。
これは世界的にも貴重なもので、そこに込められた精神の力を思うと、日本という土地の精神風土がかなり違った色合いで感じられるように思います。
天狗とミイラのこと、また改めて続けたいと思います。
出羽三山神社公式HP
写真は
上・蜂子皇子(能除)
下・羽黒山の“からすとび” 内藤正敏著「日本異界発見」より
wikpedia「i羽黒山」より
出羽三山は、約1,400年前、崇峻天皇の御子、蜂子皇子(能除太子)が開山したと伝えられる。
崇峻天皇が蘇我氏に害された時、蜂子皇子は難を逃れて出羽国に入った。
そこで、三本足の霊烏の導きによって羽黒山に登り、苦行の末に羽黒権現の示現を拝し、さらに月山・湯殿山も開いて三山の神を祀ったことに始まると伝える。
月山神社は延喜式神名帳に記載があり、名神大社とされている。
出羽神社も、神名帳に記載のある「伊氐波神社」(いてはじんじゃ)のことであるとされる。
古来より修験道(羽黒修験)の道場として崇敬された。
三山は神仏習合、八宗兼学の山とされた。
江戸時代には、三山にそれぞれ別当寺が建てられ、それぞれが仏教の寺院と一体のものとなった。
羽黒山全山は、江戸期には山のいたるところに寺院や宿坊が存在した。
wikipedia「烏天狗」より
烏天狗または、鴉天狗(からすてんぐ)は、大天狗と同じく山伏装束で、烏のような嘴をした顔、黒い羽毛に覆われた体を持ち、自在に飛翔することが可能だとされる伝説上の生物。小天狗とも呼ばれる。
神武天皇を大和へと導いた熊野のヤタガラスは、その後、聖徳太子の時代に登場します。
聖徳太子のおいの蜂子皇子(はちこのみこ)は、崇峻(すしゅん)天皇の息子ですが、父天皇が曽我馬子による暗殺の危機にあると知り、聖徳太子のアドバイスに従って585年、京都から日本海を通って東北に脱出しました。
彼が到着したのは、山形県鶴岡市の海岸でした。
山形に上陸した彼の前に、三本足のヤタガラスが現れました。
ヤタガラスに導かれて、山の奥へと進んでいきました。
その山は“黒い羽”という名前の、羽黒山でした。
そして羽黒山の山中で修業をかさね、出羽(いでは)の神を拝して593年、蜂子皇子(はちこのみこ)は出羽三山を開山したとされています。
羽黒山、月山、湯殿山、この三つの山は以来、修験道の山となり、明治政府が廃仏棄却令で、仏教から神道への変更を強行するまで、神仏混淆の山岳仏教の一大修業場として大きな力を持ちました。
伝説によれば、役の行者もやってきたけれど、途中で戻されたという話もあるそうです。
それほど、強いエネルギー、あるいは独自の権力をもった場所だったと言いたいのだと思われます。
ヤタガラスに導かれた蜂子皇子(はちこのみこ)は、羽黒大権現という名の山の神に出会います。
“羽黒”とは、カラスを指しているように思われます。
彼が導かれたのはカラスの山であり、カラスの神であったということではないでしょうか。
羽黒山のおおみそかには、「からすとび」という行事が行われます。
これはヤタガラスを現していると言われています。
この行事の後には、うさぎの身なりをした人も登場します。
うさぎは月山からの使者であるとされています。
うさぎは、月のシンボルなのでしょう。
黒いカラスと白い兎が、まるで童話のようです。
内藤正敏著「日本異界発見」から引用します。
***
深夜11時、松例祭もいよいよクライマックスを迎える。
まず本殿で「烏とび」がはじまる。
12人の山伏が二つに分かれて右回りと左回りに進みながら、空中にカラスのように飛び上がり、その姿の美しさと高さを競いあう。
「烏とび」が終わると「うさぎの神事」となる。
白うさぎのぬいぐるみを着た山伏が、本殿正面で12人の山伏の真ん中に座り、山伏が一人づつ扇で机をたたくとうさぎが従うしぐさをする。
この時のカラスは羽黒権現の使者で“太陽”、うさぎは月山権現の使者で“月”とされ、カラスとうさぎで日月の運行を表す。
***
ヤタガラスは、羽黒山の世界においては、山そのものを黒い羽のカラスのイメージでおおい、そのイメージは開祖・蜂子皇子(能徐=のうじょ、ともいう)の人物像にも転移されているようです。
父天皇を暗殺され、都を追われた皇子は、奥まった山の中でいつのまにか不思議な鳥に変貌してしまったかのようです。
皇子は耳までさけた口、おそろしいこの世のものならぬ風貌をしていたとされていますが、都を追われ、山にこもって修行をした皇子は、カラスの山で、いつしか異能をもつ怪鳥に変化していったのではないでしょうか。
鳥のような、人のような山の生き物といえば、天狗でしょうか。
大和和夫著「天狗と天皇」によると、天狗は負けた者の神となるということです。
***
山の天狗は反権力で敗者につく。
なぜかというと、権力は里にあり、山は里・中心と対立する異世界・周辺とみなされていたからである。
日本中の修験の山の天狗が牛若を守っているのは、仏教が我が国に伝来する以前からの固有信仰である山岳信仰に、天狗信仰は根ざしているからである。
その固有の信仰を特に色濃く受け入れた密教は、空海の真言密教であった。
真言密教が民衆に受け入れられ、空海崇拝や伝説が民間に根強く広がっているのは、民衆が伝えてきた固有の信仰を空海の真言密教が取り入れ、民衆の信仰により近いものになっていたからである。
山の神としての天狗は、里の権力にとっては荒ぶる神、魔であり、反権力の“もののけ”であった。
***
また、天狗の鼻が高くなったのは新しいことで、元は鳥のくちばしだったということです。
***
天狗像は「今昔物語」に見られるように、室町時代まではトビの姿か、トビのくちばしをもった人として描かれている。
鼻高の天狗は主に近世からのもので、古く見ても室町時代末以降のものである。
同著より
***
カラスや天狗は、羽のある人間、鳥人間であり、東洋の天使と言えるのかもしれません。
東北のヤタガラスは、大和の地に現れたヤタガラスとは一味違う“すごみ”があるように思われます。
羽黒山の奥の院である湯殿山は日本のミイラ仏のメッカでもあります。
ここのミイラはエジプトの王様のように死後人々によって処理がほどこされて作られたものではなく、本人の力で、自力でミイラになった方々です。
これは世界的にも貴重なもので、そこに込められた精神の力を思うと、日本という土地の精神風土がかなり違った色合いで感じられるように思います。
天狗とミイラのこと、また改めて続けたいと思います。
出羽三山神社公式HP
写真は
上・蜂子皇子(能除)
下・羽黒山の“からすとび” 内藤正敏著「日本異界発見」より
wikpedia「i羽黒山」より
出羽三山は、約1,400年前、崇峻天皇の御子、蜂子皇子(能除太子)が開山したと伝えられる。
崇峻天皇が蘇我氏に害された時、蜂子皇子は難を逃れて出羽国に入った。
そこで、三本足の霊烏の導きによって羽黒山に登り、苦行の末に羽黒権現の示現を拝し、さらに月山・湯殿山も開いて三山の神を祀ったことに始まると伝える。
月山神社は延喜式神名帳に記載があり、名神大社とされている。
出羽神社も、神名帳に記載のある「伊氐波神社」(いてはじんじゃ)のことであるとされる。
古来より修験道(羽黒修験)の道場として崇敬された。
三山は神仏習合、八宗兼学の山とされた。
江戸時代には、三山にそれぞれ別当寺が建てられ、それぞれが仏教の寺院と一体のものとなった。
羽黒山全山は、江戸期には山のいたるところに寺院や宿坊が存在した。
wikipedia「烏天狗」より
烏天狗または、鴉天狗(からすてんぐ)は、大天狗と同じく山伏装束で、烏のような嘴をした顔、黒い羽毛に覆われた体を持ち、自在に飛翔することが可能だとされる伝説上の生物。小天狗とも呼ばれる。
ブログ内の検索は、画面右上の小さなスペースでできます(範囲を直してください)。
ご利用いただければ幸いです。
記事中のリンクがうまくできていない、過去の記事があります。
漸次なおしていく予定ですが、リンクできていないものについてはお手数ですが、コピーアンドペーストで検索していただけますよう、お願い申し上げます。
今後ともどうぞよろしくお願いします。
羽黒山は カラスなんですね
今度 羽黒山の即身仏見に行こう
私が 即身仏ならるかな
これからも 楽しいお話 お知らせください
コメントをどうもありがとうございました。
お返事が大変遅くなり申し訳ありません。
出羽三山に旅行をなさったのですね?
うらやましいです。
わたしもぜひ行ってみたいです。
日本にも、面白い場所がたくさんあるように思います。
これからも、いろいろと一生懸命調べてゆきたいと思いますので、どうぞ引き続きお読みいただければ幸いです。