「神と仏のいる風景・社寺絵図を読み解く」という本を読んでみました。
これは国立歴史民俗博物館が主催したフォーラムをまとめたものです。
その中から黒田龍二氏の「中世日吉社における神仏関係とその背景」という講演をご紹介させていただきます。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
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(引用ここから)
「神仏習合」というのは単純にいえば神と仏がいっしょになる、すなわち違うものが一緒になるという捉え方だが、それは明治の「神仏分離」を経た現在の我々の感じ方が多分に反映された見方であると言える。
それに対して、ここでは中世における実態、内容を検討することによって当時の考え方、感じ方に迫ってみたい。
中世の「日吉社(ひえしゃ)」・・延暦寺と日吉社
平安時代から中世にかけて、「日吉社(ひえしゃ)」は日本最大の神社であったといってよい。
「日吉社」は、今は「日吉大社」といい、滋賀県大津市の坂本にある。
比叡山延暦寺の琵琶湖側である。
平安時代の終わりに権勢をふるった白河院が、自分の意のままにならないものとして「鴨川の水、すごろくの賽子、山法師」の3つを挙げた。
自分の言うことを聞かない山法師、つまり延暦寺を憎んでいる。
延暦寺は全国的に荘園を持ち、多数の僧兵を擁し、日本の政治を左右する権力を持った巨大権門寺院で、院や朝廷の命令に従わない。
荘園の領地争いなどで延暦寺側に不利な裁定が下ったりすると、比叡山の僧侶が大挙して「日吉社」の神輿をかついで京都に入ってきて、延暦寺側の要求を、鎮守である「日吉の神」の神意として誇示する。
それは要求が通らないと神罰が下るという脅しを含む強引な要求なので「強訴」という。
このことも比叡山延暦寺と「日吉社(ひえしゃ)」は一体であることを示している。
この二者を中心に据えて話してみたい。
「日吉社」における神仏関係の第一点は、延暦寺の鎮守であったことである。
「山王祭」は「日吉社」の最大の祭りであるが、現在の「山王祭」でも天台坐主すなわち延暦寺の最高責任者であり、日本天台宗の最高位の僧侶が「日吉の神」に奉幣をおこなうという次第がある。
次に、中世では神仏を「本地垂迹説」の関係で捉えるのが一般的な考え方であった。
「日吉社」における「本地垂迹説」の関係を明晰に示したものが、奈良国立博物館の「山王宮曼荼羅」である。
本地垂迹説とは次のようなことである。
仏教の教えは大変に深淵で日本の民衆には理解しづらいものである。
そこで仏は日本の神の形を借りて現れ、仏教の教えを日本人に親しみやすく分かりやすく説いている。
そのとき、仏のことを「本地」あるいは「本地仏」といい、日本の神となって現れることを「垂迹」という。
この「山王宮曼荼羅」は、大きく描かれた日吉社の景観の上に神と仏がずらりと並んでいて、それぞれの社にまつられる神々の説明になっている。
日吉社にはたくさんの神がおられるが、その中心は山王二十一社である。
下段中央の神は「日吉社」の中心である「大宮」で、その姿は僧形で描かれている。
その上に釈迦の絵があるので、大宮の本地は釈迦如来であることがわかる。
第二位である神「二宮」も僧形で、本地は薬師如来である。
第三位の神である「聖真子」も僧形で、本地は阿弥陀如来である。
神々の姿は多様で、和装の女性、童子、顔が猿の神、動物姿の牛もいる。
上位三柱の神を山王三聖というが、それが出家した僧侶の姿で描かれていることに注意したい。
日本の神はすでに出家しているわけで、明治の神仏分離以後形成された神の概念とは大きく隔たっているといわなければならない。
(引用ここまで)
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