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梅原猛・安田喜憲氏共著の「長江文明の探究」を読んでみました。
これは安田氏の書いておられる部分です。
*****
(引用ここから)
こうした平和な長江文明の暮らしが終わる時がやってくる。
4200-4000年前の気候の悪化と、それによる北方からの漢民族のルーツにつながる畑作牧畜民の南下が、長江文明を崩壊させる重要な要因の一つであったとみなされた。
とりわけ3000年前には著しい気候の寒冷化がおこり、畑作牧畜民の南下はより激しさを増す。
やがて中国は、春秋戦国時代の大動乱の時代へと突入していく。
そして長江流域に生活していた「苗族」などの稲作漁労民は、つぎつぎと南方の雲南省や伊州賞などの山岳地帯、さらにベトナムから東南アジアへと移動を開始した。
そしてその一部の人々がボートピープルとなって東シナ海に漕ぎ出し、その一部の人々が日本列島に漂着して新しい稲作文明を日本にもたらした。
したがって日本列島に漂着した稲作漁労民と雲南省の少数民族は、かつては共に長江流域で稲作漁労にいそしんでいた仲間だったことになる。
日本神話では、太陽神アマテラスの命を受けて、高天原からニニギノミコトが日本列島に最初に降り立つ場所が、鹿児島県西部の笠沙(かささ)の地である。
このことは、日本列島に最初に稲作文明をもたらした人々が、長江下流域からやってきたことを物語るのではないか。
ニニギノミコトの子孫に当たる神武天皇を熊野から大和へと道案内したのは、三本足のヤタガラスであった。
稲作と鳥と太陽信仰と山岳信仰が、日本神話の精神世界の根幹を形成している。
それは長江からやってきたものである。
日本神話は稲作漁労民の神話である。
(引用ここまで)
*****
同じ著者による「古代日本のルーツ・長江文明の謎」という本には、ニニギノミコト渡来説について、次のように書いてありました。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
*****
(引用ここから)
長江文明を築いた人々は、北からの民に追われ、ある一派は中国の雲南へ行き、ある一派は日本や台湾に渡った。
そうした視点から日本の神話を見直してみると、じつに興味深い解釈が成り立つ。
たとえば「日本書紀」にあるニニギノミコトのくだりである。
ニニギノミコトは高天原から日本にやってくるわけだが、まず降り立ったのは鹿児島県の笠沙(かささ)というところである。
この笠沙の周辺は、非常に意味のある場所だ。
笠沙町から車で東へ15分ほど行ったところにある坊津町秋目浦は、753年、唐に渡った鑑真が長江を下り、沖縄を経て漂着したところである。
中国から海を渡って日本列島にやってくるとき、この一帯は漂着のメインコースになっている。
実際、笠沙町の黒瀬海岸には「密航者にご注意」という看板が立っている。
ほかにも日本海では出雲、富山、越後といったところも中国からの漂着のポイントとなっているが、一つのメインコースが九州の南西端である笠沙周辺であることは間違いない。
鎌倉時代から室町時代にかけて、坊津は南方貿易の拠点にもなっていたことからも、このあたりが中国大陸との重要な接点となっていたことがわかる。
なぜニニギノミコトが笠沙の地についたことが神話として残ったか。
そのことを考えていくと、ニニギノミコトは幕末に現れたペリーのようなものではなかったかと考えることができる。
つまりニニギノミコトというのは、長江文明を担った人たちのことであり、彼らの高度な文明に、当時、日本列島にいた人たちは驚いたに違いない。
その衝撃が、「笠沙の地の神話」として残ったのである。
(引用ここまで)
*****
長江流域から渡来してきた人々が、九州に上陸し、稲作文化を広めながら、新しい文明を日本にもたらした、という説に、だんだん納得がいってきました。
倭(わ)という言葉が、当時の周辺諸国での日本の呼び名であったことから、中国における「倭族」という少数民族を日本人の起源とする研究もあるようです。
縄文人とは明らかに異なる「弥生人」=「渡来民」の大量の骨が出土したとされる遺跡として、wikipediaに以下のような遺跡が紹介されていました。
wikipedia「土井が浜遺跡」より
土井ヶ浜遺跡は、山口県下関市豊北町土井ヶ浜にある、弥生時代前期から中期の墓地遺跡である。
現在では遺跡のほぼ全域が「土井が浜弥生パーク」として整備され、「土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム」が造られている。
土井ヶ浜遺跡は、響灘の海岸から300メートルほど入ったところにある。
海岸沿いに砂丘があり、それに直交するようにもう一つの砂丘がある。
この海岸と直角にある砂丘を利用して墓地がある。
東西約120メートル、南北約40メートルほどの広さである。
これまでに延べ19回の学術調査が行われ、300体を超える弥生人の骨が見つかっている。
砂の中に混じっている貝殻の石灰分が骨のカルシウム分の保存に適し、人骨の保存状態が良好である。
出土した人骨の形質が縄文人のそれと異なることから、土井ヶ浜遺跡は稲作文化とともに中国大陸側からやってきた渡来人の墓地として注目されてきた。
埋葬の様子は、砂地を掘り、その中に遺体を安置し、砂で覆う簡単なものが大半である。
他に箱式石棺や石囲い、四隅や頭辺・足元などに配石するなどである。
簡単な墓標を設けているものなどが見られる。
弥生の被葬者は、頭を東に向け、両手を胸で合わせ、足をやや折り曲げて足首を縛った仰臥の姿勢をしている。
本遺跡の被葬者も共通している。
抜歯も多く見られ、体を切断された遺体もある。
関連記事![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ichigo.gif)
「ブログ内検索」で
長江 4件
稲作 14件
弥生 15件
渡来民 4件
ニニギ 5件
などあります。(重複しています)
これは安田氏の書いておられる部分です。
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(引用ここから)
こうした平和な長江文明の暮らしが終わる時がやってくる。
4200-4000年前の気候の悪化と、それによる北方からの漢民族のルーツにつながる畑作牧畜民の南下が、長江文明を崩壊させる重要な要因の一つであったとみなされた。
とりわけ3000年前には著しい気候の寒冷化がおこり、畑作牧畜民の南下はより激しさを増す。
やがて中国は、春秋戦国時代の大動乱の時代へと突入していく。
そして長江流域に生活していた「苗族」などの稲作漁労民は、つぎつぎと南方の雲南省や伊州賞などの山岳地帯、さらにベトナムから東南アジアへと移動を開始した。
そしてその一部の人々がボートピープルとなって東シナ海に漕ぎ出し、その一部の人々が日本列島に漂着して新しい稲作文明を日本にもたらした。
したがって日本列島に漂着した稲作漁労民と雲南省の少数民族は、かつては共に長江流域で稲作漁労にいそしんでいた仲間だったことになる。
日本神話では、太陽神アマテラスの命を受けて、高天原からニニギノミコトが日本列島に最初に降り立つ場所が、鹿児島県西部の笠沙(かささ)の地である。
このことは、日本列島に最初に稲作文明をもたらした人々が、長江下流域からやってきたことを物語るのではないか。
ニニギノミコトの子孫に当たる神武天皇を熊野から大和へと道案内したのは、三本足のヤタガラスであった。
稲作と鳥と太陽信仰と山岳信仰が、日本神話の精神世界の根幹を形成している。
それは長江からやってきたものである。
日本神話は稲作漁労民の神話である。
(引用ここまで)
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同じ著者による「古代日本のルーツ・長江文明の謎」という本には、ニニギノミコト渡来説について、次のように書いてありました。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
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(引用ここから)
長江文明を築いた人々は、北からの民に追われ、ある一派は中国の雲南へ行き、ある一派は日本や台湾に渡った。
そうした視点から日本の神話を見直してみると、じつに興味深い解釈が成り立つ。
たとえば「日本書紀」にあるニニギノミコトのくだりである。
ニニギノミコトは高天原から日本にやってくるわけだが、まず降り立ったのは鹿児島県の笠沙(かささ)というところである。
この笠沙の周辺は、非常に意味のある場所だ。
笠沙町から車で東へ15分ほど行ったところにある坊津町秋目浦は、753年、唐に渡った鑑真が長江を下り、沖縄を経て漂着したところである。
中国から海を渡って日本列島にやってくるとき、この一帯は漂着のメインコースになっている。
実際、笠沙町の黒瀬海岸には「密航者にご注意」という看板が立っている。
ほかにも日本海では出雲、富山、越後といったところも中国からの漂着のポイントとなっているが、一つのメインコースが九州の南西端である笠沙周辺であることは間違いない。
鎌倉時代から室町時代にかけて、坊津は南方貿易の拠点にもなっていたことからも、このあたりが中国大陸との重要な接点となっていたことがわかる。
なぜニニギノミコトが笠沙の地についたことが神話として残ったか。
そのことを考えていくと、ニニギノミコトは幕末に現れたペリーのようなものではなかったかと考えることができる。
つまりニニギノミコトというのは、長江文明を担った人たちのことであり、彼らの高度な文明に、当時、日本列島にいた人たちは驚いたに違いない。
その衝撃が、「笠沙の地の神話」として残ったのである。
(引用ここまで)
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長江流域から渡来してきた人々が、九州に上陸し、稲作文化を広めながら、新しい文明を日本にもたらした、という説に、だんだん納得がいってきました。
倭(わ)という言葉が、当時の周辺諸国での日本の呼び名であったことから、中国における「倭族」という少数民族を日本人の起源とする研究もあるようです。
縄文人とは明らかに異なる「弥生人」=「渡来民」の大量の骨が出土したとされる遺跡として、wikipediaに以下のような遺跡が紹介されていました。
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土井ヶ浜遺跡は、山口県下関市豊北町土井ヶ浜にある、弥生時代前期から中期の墓地遺跡である。
現在では遺跡のほぼ全域が「土井が浜弥生パーク」として整備され、「土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム」が造られている。
土井ヶ浜遺跡は、響灘の海岸から300メートルほど入ったところにある。
海岸沿いに砂丘があり、それに直交するようにもう一つの砂丘がある。
この海岸と直角にある砂丘を利用して墓地がある。
東西約120メートル、南北約40メートルほどの広さである。
これまでに延べ19回の学術調査が行われ、300体を超える弥生人の骨が見つかっている。
砂の中に混じっている貝殻の石灰分が骨のカルシウム分の保存に適し、人骨の保存状態が良好である。
出土した人骨の形質が縄文人のそれと異なることから、土井ヶ浜遺跡は稲作文化とともに中国大陸側からやってきた渡来人の墓地として注目されてきた。
埋葬の様子は、砂地を掘り、その中に遺体を安置し、砂で覆う簡単なものが大半である。
他に箱式石棺や石囲い、四隅や頭辺・足元などに配石するなどである。
簡単な墓標を設けているものなどが見られる。
弥生の被葬者は、頭を東に向け、両手を胸で合わせ、足をやや折り曲げて足首を縛った仰臥の姿勢をしている。
本遺跡の被葬者も共通している。
抜歯も多く見られ、体を切断された遺体もある。
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「ブログ内検索」で
長江 4件
稲作 14件
弥生 15件
渡来民 4件
ニニギ 5件
などあります。(重複しています)
タオ様
コメント、どうもありがとうございました。
長江文明のことを考えると、ワクワクしますね。
世界四大文明の世界とは違う、別のタイプの人類の在り方が示されているようですね。
戦わない、征服しない、支配しない。
そして、分かち合う、話し合う、力の弱い者にも発言権がある。
長江文明のような、アジア的な文明の在り方が、現代の行き詰っている文明社会に、風穴をあけてくれることを期待したいですね。