古代朝鮮と日本の関係を調べたく、関裕二氏の「謎の出雲・伽耶王朝」という本を読んでみました。続きです。 副題は「天皇家・朝鮮渡来の妄説を撃つ!」とあります。
伽耶は「任那」と同じ位置にある小国家で、この国を含む朝鮮半島のいろいろな国と、古代日本は長いこと関わりをもってきた、というのが、著者の考えです。
渡来人が日本を作った、という単純な考えでもなく、また、大和朝廷には渡来人の血は一切入っていない、という考えでもありません。
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(引用ここから)
万世一系の天皇家ということを言わんがために、「日本書紀」を編纂し、地方ごとに朝廷の歴史観を定着させるために記させた「風土記」が作られた。。
ところがその一方で、正史「日本書紀」とは相反する記述の、独自の歴史書も残されているのである。
それが物部氏の「先代旧事本記」、曽我氏の「元興寺縁起」であり、あるいは「古事記」もこの範疇に入れてもよく、また「風土記」でも多くのことが分かる。
このような貴重な証言が存在するにも関わらず、大和朝廷は「日本書紀」を絶対視するあまり、異伝をすべて偽書と決めつけてきた。
なぜ大和朝廷は、最古の倭王として国際的承認を得た「卑弥呼」を利用しなかったのだろうか?
8世紀初頭の朝廷の示した行動は、奇怪と言えよう。
その理由は、「神功皇后」の登用なのだ。
「神功皇后」は「日本書紀」の中で、あたかも邪馬台国の「卑弥呼」であるかのような扱いを受けている。
たとえば「日本書紀」の邪馬台国関連記事は、「神功皇后摂政紀」に記されていたのだから、「日本書紀」は「卑弥呼」と「神功皇后」が同時代人だ、と言っていることになる。
さらに「神功皇后」の在り方は、「卑弥呼」のそれとそっくりなのだ。
たとえば「日本書紀」の中で
「神功皇后」は「いつきの宮」にこもり、神主となり、側近の竹内宿祢に琴を弾かせ、皇后に降りた神託を聞き取らせた。
とあるが、これは「魏志倭人伝」に登場する「卑弥呼」の姿そのものである。
これらの事実は「日本書紀」の編者が明らかに、「卑弥呼」と「神功皇后」をだぶらせて記していることを証明している。
「卑弥呼」を神格化したものが「アマテラス」だとすれば、「歴史時代の卑弥呼」は「神功皇后」に比定できることになる。
ところが通説では、「卑弥呼」と「神功皇后」はイコールでは結ばれていない。
「神功皇后」は後世の女帝(持統・推古・皇極(斉明))をモデルにして創作されたものだ、というのである。
しかし本当にそうであろうか?
「神功皇后」の系譜から、読み取れるものはないだろうか?
「神宮皇后」は、開化天皇の五世の孫で、母方はアメノヒボコの6世の孫とされている。
アメノヒボコとは、垂神天皇3年に来日した新羅王子のことである。
しかし、5世の孫では、天皇家の血縁として、最低レベルである。
さらに、母方に新羅の血が入っていたことは、むしろ「神功皇后」の評価を落とす可能性がある。
なぜなら新羅はつねに朝廷にとって天敵であり、「日本書紀」は終始一貫してこの「新羅」を悪しざまに書いている。
それにも関わらず、「日本書紀」は、「卑弥呼」の名を秘匿するだけではなく、新羅人の血が入り、天皇家としての血の薄い「神功皇后」を、「卑弥呼」であるかのようにふるまった。
そして「神功皇后」は、「日本書紀」によって天皇家の祖・「卑弥呼」に比定されながら、なぜか「伽耶」や「出雲」と強いつながりを持っている。
このことは出雲の神でありながら、「伽耶」の名を冠した「カヤナルミ」と、どこか通じるものがある。
そしてまた、「神功皇后」と「出雲」を結びつけるのは、「神功皇后」の新羅征伐に大活躍した、住吉三神と宗像三神である。
大阪市住吉区の住吉大社には、住吉三神と並んで、「神功皇后」が祀られている。
福岡県宗像郡の宗像大社の伝承も、興味深い。
「宗像大社の祭り神は三柱の女神で、この三女神は、スサノオとアマテラスの〝うけい″によって生まれた海神であった」、と「日本書紀」は証言する。
これを信じるならば、この神々は「スサノオ=出雲王朝」と「卑弥呼=アマテラス=九州王朝」の橋渡し役となったことになる。
ところが、不思議なことに、この神社の伝承の中で、アマテラスはなぜか無視され、スサノオや出雲系の神々が重視されている。
スサノオの所持品であった「つるぎ」に関わる伝承には、「つるぎ」と宗像三女神が同体であること、そして、この三女神が「つるぎ」であった時は、朝敵の蛇征伐(スサノオのヤマタノオロチ退治)に活躍し、「神体」の時は、「神功皇后」の新羅征伐に活躍したという。
さらに「「宗像神」は、最初から九州に居たのではなく、出雲の「ひの河」から帰ってきた」という。
「ひの河」と言えば、スサノオが出雲に建てた宮の一つで、全国に点在する出雲系の「氷川神社」の「氷川」は、この「ひの河」からきた名前である。
皇祖・アマテラス、朝敵・スサノオ。
双方の血を半分ずつ受けているはずの宗像三神が、これだけ出雲にこだわるのは、宗像神が実際には天皇家よりも、出雲系に密接な関係にあったから、としか考えられない。
そして、その宗像に支えられていた「神功皇后」も、天皇家の人間でありながら、出雲系と強い関係を持っていたところに、両者の符合と謎の深さがある。
「神功皇后」は、アメノヒボコの6世の孫であった。
アメノヒボコは新羅出身とされてきたが、近年、この人物が、伽耶王子・ツヌガアラシトと同一人物と見る説が主流になりつつある。
新羅系のはずのアメノヒボコの末裔・「神功皇后」は、新羅を敵視し、北陸の地で伽耶王子・ツヌガアラシトと密接に結びついている。
「日本書紀・垂神天皇記」の条に、
「伽耶国の王子・ツヌガアラシトが越の国・けひの浦にやってきた」。
と記されている。
ちなみに、「けひが浦」周辺を「敦賀(つるが)」と呼ぶようになったのは、この〝ツヌガ″アラシトの名をとったからであり、この地に「気比神社」が建てられた。
「この地に「神宮皇后」がしばらく留まり、息子・応神天皇は、この国に行き、敦賀の気比の大神と名前を交換した」、というのである。
天皇が〝「伽耶」の地と密接にかかわった敦賀の地で、伽耶王子らを祀る神社の祭神と、名前を交換した″ということは、実に興味深いことである。
大分県宇佐市の「宇佐神宮」の祭神は、応神天皇、ひめの大神、「神功皇后」で、全国の八幡神社の本宮として有名だ。
ここの伝承には、次のように記されている。
「から国の城に 初めて八流の幡を天降して われは 日本の神となれり」
ここに現れる「から国」は加羅=「伽耶」であろう。
八本の旗をその地に天振りしたのは、八幡伸イコール応神天皇だ。
つまり、これは、八幡神の化身としての応神天皇の出生譚ということになる。
それにしても、応神天皇が、あたかも「伽耶」から渡来したかのように記すことは興味深い。
「日本書紀」によって卑弥呼と同時代人であり同一人物かもしれないとされた「神功皇后」は、なぜか出雲・「伽耶」と密接な関係があった。
ここに、「神功皇后」をたんなる架空の人物として放置しておけない理由があるのである。
輝ける皇祖であるにも関わらず、大和朝廷の手で歴史時代から追いやられた「卑弥呼」。
その身代わりになった「神功皇后」は、背後に出雲と「伽耶」の影をちらつかせる。
これはどういうことなのだろうか?
奈良県高市郡明日香村大字飛鳥字神奈備という住所をもつ、飛鳥坐(あすかいます)神社。
この神社の縁起は、「カヤナルミ」について次のように記している。
「大国主神は、わが事代主神を数多くの神々の先頭に立たせ、皇祖に仕えさせたならば、皇祖の国作りに逆らう神は無いであろうと、皇室の近き守護神として、事代主神とその妹神、飛鳥神奈備三日女神(みひめのかみ)(カヤナルミのかみ)の神霊を奉斎なされたのが、当神社の創建であって、実に神世から続いている大社であります」とある。
つまり、飛鳥坐神社が「カヤナルミ」を、事代主神の妹として祀ってきたことがわかる。
飛鳥地方の神社の伝承集は、「カヤナルミ」について、次のように説明している。
「カヤ」は「高屋」にて、「ナル」は「います」、「ミ」は「ひめ」なり。
父は大国主神。
母は宗像女神。
兄は事代主神。
またの御名を、「高姫」とも、「わか国玉姫」とも称し、下照姫や高照光姫と異名同体なること。
謎の女神「カヤナルミ」は、「出雲の国の造の神賀詞」によれば、大物主の子であり、事代神やアジスキタカヒコネと兄弟であったことにある。
しかし「日本書記」、「古事記」の中に「カヤナルミ」の名は出てこない。
その代わりとして、大国主神と宗像三女神の間にできた異母姉妹たちが、本来カヤナルミと同一人物だったのではないだろうか?
その理由は、彼女らの母親である宗像三女神は、実際には一体であったものを、「日本書紀」によって三体に分離させられ、正体を抹殺されたのだ。
このように「宗像神」を分解することで、「カヤナルミ」の存在は闇に葬られた。
「カヤナルミ」が宗像神の娘であったのではないか、という推理は、宗像の出身地を究明することで、憶測ではなくなる。
「日本書紀」の記事に従えば、宗像三女神はスサノオとアマテラスの間に生まれたことになるが、実際には、出雲と深いきずなで結ばれていた。
しかしカヤナルミはむしろ、〝純粋な伽耶系″であった可能性が高い。
宗像女神の秘密を解く鍵は、応神天皇・「神功皇后」・ひめの大神を祀る「宇佐八幡宮」にほど近い、大分県国東郡姫島村の「ヒメコソ神社」の祭神=「伽耶」出身の「ヒメコソ」にある。
「日本書紀・垂神記条」には、この女人にまつわる奇妙な伝承が記される。
それはこの女人が「伽耶」からやって来たこと。
そしてその原因は、伽耶王子・ツヌガアラシトから逃れるためだった、というのである。
ツヌガアラシトから逃れた乙女は、難波・大阪あるいは、豊国・大分県のどちらにたどり着き、そこで祀られる。
辿り着いたとされる二つの地は、どちらも宗像神と密接な関わりがある。
難波を代表する神社、住吉大社。
この神社の祭神は、「海の神」と言えよう。
そして、宗像三神も「海の神」であった。
さらに両者とも、「神功皇后」の新羅征伐に活躍したこと、そして、宗像大社の伝承によれば、住吉神は、宗像三神の子供だったというのである。
いっぽう豊国も、宗像と深いかかわりがある。
「日本書紀」には、
宗像三女神が、北九州に降臨したことが述べられている。
これは、女神を祀る神社・宗像大社が、北九州に存在していたことからも当然のことである。
すなわち「カヤナルミ」の母・宗像が「伽耶」からやって来て、出雲系の大物主と結ばれた。
だからこそ、「カヤナルミ」は出雲系の神であるとともに、「伽耶」の名を冠しているのだ。
そして「日本書紀」は宗像女神、「カヤナルミ」を巡る本来の系譜を抹殺しようとした。
(引用ここまで)
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カヤナルミという女神の名前はかわいらしい響きがあります。伽耶から姫が来た、、ヨーロッパなどではよくある話ではないでしょうか?
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