日本列島について、もう少し調べを続けたいと思います。
日本各地にある「新羅神社」を調べている本をみつけました。
「新羅神社」とは、かつて新羅から日本にやってきた人々が建てた、彼らの祖先や神を祀る社です。
その所在を辿ることから、古代日本史の深層を辿ることができる、というのが、著者が言いたいことだと思いました。
出羽弘明氏の「新羅の神々と古代日本・新羅神社の語る世界」から、少し紹介させていただきます。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
*****
(引用ここから)
「新羅神社」は新羅の人々がその居住地に祖先を祀ったほこら(祖神廟)であり、新羅人が居住した地域の氏神である。
したがって「新羅神社」を調べることは、古代に渡来した新羅の人々の居住地や痕跡を辿ることである。
「新羅神社」はほぼ全国にわたって存在している。
新羅という語が「古事記・日本書紀」に最初に登場するのは、
スサノオノミコトと新羅の「ソシモリ」の説話のくだりである。
~~~
(以下の部分 wikipedia「スサノオ」のまとめより)
『日本書紀』における八岐大蛇の記述がある一書第4では、
天から追放されたスサノヲは、新羅の曽尸茂梨(そしもり)に降りたが、「この地、吾居ること欲さず」(「乃興言曰 此地吾不欲居」)と言った。
そして、息子の五十猛神(イソタケル)と共に土船で東に渡り、出雲国・斐伊川上の鳥上の峰へ到った(「遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在 鳥上之峯」)。
その後、出雲で八岐大蛇を退治した。
そのとき五十猛神が天から持ち帰った木々の種を、韓(朝鮮)の地には植えず、大八洲(おおやしま、本州のこと)に植えたので、大八州は山の地になったと言う。
(引用ここまで)
~~~
日本の国家創世の時代は、新羅と特別な関係があったことが分かる。
縄文時代からこれらの朝鮮系の渡来はすでに何回もあり、彼らは日本で土着していた。
最初は銅の技術をもった人々がやってきて、先住の人々とともに文化を作り、その後、弥生時代に至り、朝鮮半島から同じく鉄の文化を持った出雲族(新羅系)や天孫族の渡来があった。
百済系の人々や、高麗系の人々の渡来もあり、時代の推移とともにこれらの人々の間で権力争いが起こっていく。
これらの人々は、海浜に居住した海住みの民=海人(あま)族と、山住みの民に分かれ、海人族は「わたつみ神」となり、山岳地帯の居住住民は「大山つみ神」と言われた。
いわゆる「国つ神」である。
日本の各地にはスサノオノミコトやその子孫がたくさん祀られている。
スサノオノミコトは「新羅神社」以外でも祀られている。
これは平安時代以降、朝鮮半島から渡来した人々の共通の神となっていくためである。
しかし、「新羅神社」について言えば、スサノオノミコトを祀っていたのは新羅系の人々である。
スサノオノミコトを祀った神社の数の多さは、渡来系の人々がいかに多かったかを物語っている。
スサノオは、仏教との習合で「牛頭天王」とも言われる。
(引用ここまで)
*****
筆者は「日本書紀」の記述から、スサノオは朝鮮半島の神であった、特に新羅の神であったと述べています。
また、スサノオの活躍は、日本における新羅の人々の活躍であり、スサノオが仏教と習合したものが「牛頭天王」という存在であるということです。
「牛の頭の天王」という存在は、大変魅力的で、どのような姿をしている、どのような存在なのか、ぜひ知りたいと思っています。
同書では、新羅が日本の文化・政治に与えた影響、という観点からの説明が続くのですが、平行して、少し違う観点から見たものとして、関裕二氏の「古代神道と天皇家の謎」という本も見てみました。
関裕二氏の「古代神道と天皇家の謎」という本では、「神道のルーツは海の外にあった」という項目で、以下のように述べられています。
・・・・・
(引用ここから)
朝鮮半島からの視点で言えば、卑弥呼や「日本書紀」に見られる神功皇后らの強烈なシャーマン性は、明らかに半島文化を引きずってきたということになろうし、
金達寿が克明に調べ上げたように、日本の各地には半島系の神々を祀る神社がいたるところに散在し、朝鮮半島的な祭祀と文化が今日も色濃く残るのである。
神道とは何か。日本人とは何なのか。
われわれは事ここに至り、あらためて自問せざるをえない。
日本人のアイデンティティをどこに求めればよいのか。
たとえば「日本書紀」の神話の一書の中で、
「スサノオは当初、朝鮮半島の新羅に舞い降り、そのあと出雲にやって来た」と記されていて、
このことから、「出雲は渡来人によって征服された」という推理が提出されている。
だが、神話の中でスサノオは
「新羅の地は私の住むべき所ではない」と延べ、樹木の種を日本にもたらし、日本列島を青山にした、という。
もともとスサノオは乱暴者で、泣いてばかりいて、そのために青山が枯れてしまったといい、その後、今度は樹を植えたというのである。
この神話、一体なにを言い表しているのかというと、金属冶金(やきん)と大いに関わりがあったと考えられる。
銅や鉄を得るためには、大量の燃料を必要とする。
金属冶金をするために、スサノオは青山を枯らしてしまったのだろう。
そして、燃料を確保するために、植林を治したということになる。
じつは弥生時代後半の朝鮮半島南部には、鉄の原料を求めて各地から人が集まってきていた、といくつかの文書に記録されている。
その中に、倭人が混じっていたともある。
スサノオの行動は、まさに鉄を求めた倭人のそれである。
したがって、スサノオが新羅に渡っていたからと言って、出雲が新羅に征服されていた証拠にはならない。
(引用ここまで)
・・・・・
関氏によれば、スサノオは出雲で金属をつくる仕事を手がけていた人物であり、原料としての鉄を、新羅に取りにいった、ということになります。
どちらもあり得る話のように思えます。
文字をもたない文化に比べれば、このようにたくさんの資料がある日本の文化の解明は、ごく手をつけやすいものであろうとは思いますが、それでもとても一筋縄では解決に至らないことなのだと思います。
語られているものの陰には、語られなかった、いくつもの事実があるのだと思います。
スサノオノミコトという日本人にとって大変有名なキャラクターでも、彼がどのように語られ、また語られなかったのかを見出すには、長い時間が必要なのではないかと思います。
wikipedia「スサノオ」より
『古事記』によれば、神産みにおいて伊弉諾尊 (伊邪那岐命・いざなぎ)が黄泉の国から帰還し、日向橘小門阿波岐原(ひむかのたちばなのをどのあはきはら)で禊を行った際、鼻を濯いだ時に産まれたとする。
『日本書紀』ではイザナギと伊弉冉尊 (伊邪那美・いざなみ)の間に産まれたとしている。
三貴子の末子に当たる。
その与えられた役割は、太陽を神格化した天照大神(あまてらす)、月を神格化した月夜見尊(月読命・つくよみ)とは少々異なっているため、議論の的となっている。
統治領域は文献によって異なり、三貴神のうち天照大神は高天原であるが、月夜見尊は滄海原(あおのうなばら)または夜を、スサノヲには夜の食国(よるのおすくに)または海原を治めるように言われたとあり、それぞれ異なる。
『古事記』によれば、スサノヲはそれを断り、母神イザナミのいる黄泉国に行きたいと願い、イザナギの怒りを買って追放されてしまう。
そこでスサノヲは根の国へ向う前に姉の天照大神に別れの挨拶をしようと高天原へ上るが、天照大神は彼が高天原に攻め入って来たのではと考えて武装して彼に応対し、彼は疑いを解くために誓約を行う。
誓約によって潔白であることが証明されたとしてスサノヲは高天原に滞在するが、そこで粗暴な行為をしたので、天照大神は天の岩屋に隠れてしまった。
そのため、彼は高天原を追放されて葦原中国へ降った。
出雲の鳥髪山(現在の船通山)へ降ったスサノヲは、その地を荒らしていた八岐大蛇(八俣遠呂智)に食われることになっていた少女奇稲田姫(櫛名田比売・くしなだひめ)を見つける。
スサノヲはクシナダヒメの形を変えて、歯の多い櫛にして髪に挿し、八岐大蛇を退治する。
そして八岐大蛇の尾から出てきた天叢雲剣を天照大神に献上した。
その後、櫛から元に戻したクシナダヒメを妻として、出雲の須賀(すが)の地へ行きそこに留まった。
その地で大国主命などを産ませ、その後、葦原中国の隣にある根の国へ向かったと言う。
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スサノオ 4件
出雲 7件
朝鮮 14件
新羅 2件
日本書紀 11件
鉄 15件
百済 3件
古事記 10件
などあります。(重複しています)
日本各地にある「新羅神社」を調べている本をみつけました。
「新羅神社」とは、かつて新羅から日本にやってきた人々が建てた、彼らの祖先や神を祀る社です。
その所在を辿ることから、古代日本史の深層を辿ることができる、というのが、著者が言いたいことだと思いました。
出羽弘明氏の「新羅の神々と古代日本・新羅神社の語る世界」から、少し紹介させていただきます。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
*****
(引用ここから)
「新羅神社」は新羅の人々がその居住地に祖先を祀ったほこら(祖神廟)であり、新羅人が居住した地域の氏神である。
したがって「新羅神社」を調べることは、古代に渡来した新羅の人々の居住地や痕跡を辿ることである。
「新羅神社」はほぼ全国にわたって存在している。
新羅という語が「古事記・日本書紀」に最初に登場するのは、
スサノオノミコトと新羅の「ソシモリ」の説話のくだりである。
~~~
(以下の部分 wikipedia「スサノオ」のまとめより)
『日本書紀』における八岐大蛇の記述がある一書第4では、
天から追放されたスサノヲは、新羅の曽尸茂梨(そしもり)に降りたが、「この地、吾居ること欲さず」(「乃興言曰 此地吾不欲居」)と言った。
そして、息子の五十猛神(イソタケル)と共に土船で東に渡り、出雲国・斐伊川上の鳥上の峰へ到った(「遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在 鳥上之峯」)。
その後、出雲で八岐大蛇を退治した。
そのとき五十猛神が天から持ち帰った木々の種を、韓(朝鮮)の地には植えず、大八洲(おおやしま、本州のこと)に植えたので、大八州は山の地になったと言う。
(引用ここまで)
~~~
日本の国家創世の時代は、新羅と特別な関係があったことが分かる。
縄文時代からこれらの朝鮮系の渡来はすでに何回もあり、彼らは日本で土着していた。
最初は銅の技術をもった人々がやってきて、先住の人々とともに文化を作り、その後、弥生時代に至り、朝鮮半島から同じく鉄の文化を持った出雲族(新羅系)や天孫族の渡来があった。
百済系の人々や、高麗系の人々の渡来もあり、時代の推移とともにこれらの人々の間で権力争いが起こっていく。
これらの人々は、海浜に居住した海住みの民=海人(あま)族と、山住みの民に分かれ、海人族は「わたつみ神」となり、山岳地帯の居住住民は「大山つみ神」と言われた。
いわゆる「国つ神」である。
日本の各地にはスサノオノミコトやその子孫がたくさん祀られている。
スサノオノミコトは「新羅神社」以外でも祀られている。
これは平安時代以降、朝鮮半島から渡来した人々の共通の神となっていくためである。
しかし、「新羅神社」について言えば、スサノオノミコトを祀っていたのは新羅系の人々である。
スサノオノミコトを祀った神社の数の多さは、渡来系の人々がいかに多かったかを物語っている。
スサノオは、仏教との習合で「牛頭天王」とも言われる。
(引用ここまで)
*****
筆者は「日本書紀」の記述から、スサノオは朝鮮半島の神であった、特に新羅の神であったと述べています。
また、スサノオの活躍は、日本における新羅の人々の活躍であり、スサノオが仏教と習合したものが「牛頭天王」という存在であるということです。
「牛の頭の天王」という存在は、大変魅力的で、どのような姿をしている、どのような存在なのか、ぜひ知りたいと思っています。
同書では、新羅が日本の文化・政治に与えた影響、という観点からの説明が続くのですが、平行して、少し違う観点から見たものとして、関裕二氏の「古代神道と天皇家の謎」という本も見てみました。
関裕二氏の「古代神道と天皇家の謎」という本では、「神道のルーツは海の外にあった」という項目で、以下のように述べられています。
・・・・・
(引用ここから)
朝鮮半島からの視点で言えば、卑弥呼や「日本書紀」に見られる神功皇后らの強烈なシャーマン性は、明らかに半島文化を引きずってきたということになろうし、
金達寿が克明に調べ上げたように、日本の各地には半島系の神々を祀る神社がいたるところに散在し、朝鮮半島的な祭祀と文化が今日も色濃く残るのである。
神道とは何か。日本人とは何なのか。
われわれは事ここに至り、あらためて自問せざるをえない。
日本人のアイデンティティをどこに求めればよいのか。
たとえば「日本書紀」の神話の一書の中で、
「スサノオは当初、朝鮮半島の新羅に舞い降り、そのあと出雲にやって来た」と記されていて、
このことから、「出雲は渡来人によって征服された」という推理が提出されている。
だが、神話の中でスサノオは
「新羅の地は私の住むべき所ではない」と延べ、樹木の種を日本にもたらし、日本列島を青山にした、という。
もともとスサノオは乱暴者で、泣いてばかりいて、そのために青山が枯れてしまったといい、その後、今度は樹を植えたというのである。
この神話、一体なにを言い表しているのかというと、金属冶金(やきん)と大いに関わりがあったと考えられる。
銅や鉄を得るためには、大量の燃料を必要とする。
金属冶金をするために、スサノオは青山を枯らしてしまったのだろう。
そして、燃料を確保するために、植林を治したということになる。
じつは弥生時代後半の朝鮮半島南部には、鉄の原料を求めて各地から人が集まってきていた、といくつかの文書に記録されている。
その中に、倭人が混じっていたともある。
スサノオの行動は、まさに鉄を求めた倭人のそれである。
したがって、スサノオが新羅に渡っていたからと言って、出雲が新羅に征服されていた証拠にはならない。
(引用ここまで)
・・・・・
関氏によれば、スサノオは出雲で金属をつくる仕事を手がけていた人物であり、原料としての鉄を、新羅に取りにいった、ということになります。
どちらもあり得る話のように思えます。
文字をもたない文化に比べれば、このようにたくさんの資料がある日本の文化の解明は、ごく手をつけやすいものであろうとは思いますが、それでもとても一筋縄では解決に至らないことなのだと思います。
語られているものの陰には、語られなかった、いくつもの事実があるのだと思います。
スサノオノミコトという日本人にとって大変有名なキャラクターでも、彼がどのように語られ、また語られなかったのかを見出すには、長い時間が必要なのではないかと思います。
wikipedia「スサノオ」より
『古事記』によれば、神産みにおいて伊弉諾尊 (伊邪那岐命・いざなぎ)が黄泉の国から帰還し、日向橘小門阿波岐原(ひむかのたちばなのをどのあはきはら)で禊を行った際、鼻を濯いだ時に産まれたとする。
『日本書紀』ではイザナギと伊弉冉尊 (伊邪那美・いざなみ)の間に産まれたとしている。
三貴子の末子に当たる。
その与えられた役割は、太陽を神格化した天照大神(あまてらす)、月を神格化した月夜見尊(月読命・つくよみ)とは少々異なっているため、議論の的となっている。
統治領域は文献によって異なり、三貴神のうち天照大神は高天原であるが、月夜見尊は滄海原(あおのうなばら)または夜を、スサノヲには夜の食国(よるのおすくに)または海原を治めるように言われたとあり、それぞれ異なる。
『古事記』によれば、スサノヲはそれを断り、母神イザナミのいる黄泉国に行きたいと願い、イザナギの怒りを買って追放されてしまう。
そこでスサノヲは根の国へ向う前に姉の天照大神に別れの挨拶をしようと高天原へ上るが、天照大神は彼が高天原に攻め入って来たのではと考えて武装して彼に応対し、彼は疑いを解くために誓約を行う。
誓約によって潔白であることが証明されたとしてスサノヲは高天原に滞在するが、そこで粗暴な行為をしたので、天照大神は天の岩屋に隠れてしまった。
そのため、彼は高天原を追放されて葦原中国へ降った。
出雲の鳥髪山(現在の船通山)へ降ったスサノヲは、その地を荒らしていた八岐大蛇(八俣遠呂智)に食われることになっていた少女奇稲田姫(櫛名田比売・くしなだひめ)を見つける。
スサノヲはクシナダヒメの形を変えて、歯の多い櫛にして髪に挿し、八岐大蛇を退治する。
そして八岐大蛇の尾から出てきた天叢雲剣を天照大神に献上した。
その後、櫛から元に戻したクシナダヒメを妻として、出雲の須賀(すが)の地へ行きそこに留まった。
その地で大国主命などを産ませ、その後、葦原中国の隣にある根の国へ向かったと言う。
関連記事
「ブログ内検索」で
スサノオ 4件
出雲 7件
朝鮮 14件
新羅 2件
日本書紀 11件
鉄 15件
百済 3件
古事記 10件
などあります。(重複しています)
ほざくわりに、半島にかつて
日本人が建てた神社は再建せず、
しかも向こうから来て本土の寺社を
汚すからたまらない。起源ほざくんなら
新羅神社・百済神社・高麗神社の
神霊を勧請して祀ったらどうだって思う。
コメント、ありがとうございます。
この問題は、日本の根幹にかかわる大事だと思うのですが、よくわからないですよね。
私は、お互い様で、仲良くやっていければいいな、と考える楽観主義です。
「新撰姓氏録」によると神武天皇の兄である稲氷命が新羅の祖(朴氏の始祖で初代王の赫居世居西干)
「三国史記」によると新羅の建国時に諸王に仕えた重臣である瓠公は日本人(倭人)
「三国遺事」によると「朴」は辰韓の語で瓠を意味する(朴氏の始祖である赫居世居西干と瓠公は同族とする説がある)
「古事記」「日本書紀」によると赫居世居西干の次男アメノヒボコが日本の但馬国に移住
「三国史記」によると昔氏の始祖で第4代王の脱解尼師今は日本人(多婆那国の出身。多婆那国の場所は日本の但馬あたりという見方がある)
「三国史記」によると新羅三王家の一つ金氏の始祖である金閼智を発掘したのは瓠公(朴氏昔氏瓠公も全て日本人なので金氏も…)
日中韓の正史や石碑や古墳から総合的に判断して
半島南部は日本であったと言っても差し支えありません。
因みに高句麗は女真族(現在の満州族)の国なので
中国は「高句麗は中国の地方政権」と主張しています。
元々は日本の地方政権なのでスサノオを祀るのは至極当然なのです
当時、倭と新羅は仲が悪かったので
日本書記の中でスサノオが新羅をディスるように書いたのでしょう。
コメントどうもありがとうございました。
日本列島と朝鮮半島とが陸続きでなかったことから、ロマンが生まれているのではないでしょうか?
陸続きであったなら、おそらくもっと混同してとらえられていたのではないでしょうか?
歯切れの悪い言い方になってしまうのですが、日本の源をさぐる試みは、わたしは、あいまいさを残しておきたいです。
そのあいまいさこそが、日本文化の独自性だということは、よく言われていることですが、そのあいまいさはどこから来たものなのか?と考えると、また、わからなくなるのです。