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関裕二氏の「謎の出雲・伽耶王朝」(1)・・任那というのは、伽耶(かや)で、日本と関係が深い

2017-07-08 | アジア



古代朝鮮と日本の関係について考えていて、関裕二氏の「謎の出雲と伽耶王朝」を読んでみました。

この説は、任那とは、正式に言えば伽耶である、そして、半島では日本と最も関わりが深い、という考えです。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

写真がまた横転して直せないのですが、なんとかして速やかに直しますので、お許しください。


           *****

         (引用ここから)

日本が飛鳥時代の全盛期を迎えようとする直前、「伽耶」は滅亡した。

西暦562年のことだ。

この時、自国の資料をすべて失った「伽耶」は、そのまま、〝幻の王国″となったのである。

唯一まとまった形で残った資料として、「日本書紀」がある。

これは、かなり日本側に都合よく脚色してあるため、あまりあてにならないと言われている。

しかし果たしてそうであろうか?


「日本書記」の中で、「伽耶」は微妙な立場にある。

国名を「任那」とされた上、実態をほぼ抹殺されているからだ。

実は、この日本側の行為こそ、「伽耶」を知る手がかりとなっているのだ。

「日本書紀」に残された「伽耶」に関する情報の中で、最も正確にわかること、それは正体を抹殺しなければ朝廷にとって都合の悪い秘密を、「伽耶」が握っていた、ということなのである。

そしてその理由は「出雲王朝」との関わりの中に隠されていることは、何度も触れたところである。

そこで「出雲王朝」の正体から明らかにする必要がある。


しかし、その前に、まず「伽耶」をめぐる半島情勢と、「伽耶」を形作っていた人々とは、一体何者であったのかを考えておきたい。

大陸と陸続きの国家群、朝鮮半島の歴史は、まさに大陸との格闘の歴史であり、壮絶な政争の繰り返しであった。

東海の果てのんびりと暮らしていた日本人とは、鍛えられ方が違ったのであり、政治風土の違いは、このあたりに原因があったとも言えよう。

高句麗に代表される北方騎馬民族は、半島の根っこに居座り、強大な軍事力を誇っていた。

彼らは温暖で、経済的基盤となりうる遼東郡や、朝鮮半島へ、常に領土的野心を抱いていた。

したがって高句麗以南の国々にとって、北方からの武力行使はまさに潜在的脅威であり続けた。


そして第2に、高句麗以南の三国、百済・新羅・伽耶にとって、高句麗の南下政策という脅威の前に、逃げるすべを持たなかったことである。

彼らの背後には海が横たわる以上、正面から高句麗の南下に備える必要があった。

この結果、この3国は、ある時は敵対し、ある時は同盟関係となり、ありとあらゆる手段を尽くして生き残るすべを学んでいったのである。


そして最後に、中国の半島政策だ。

この当時、東アジアで最も高い文明を築き上げた中国は、歴代王朝のほとんどが、朝鮮半島の支配に意欲的であった。

このような中国の東国経営の中で、最もじゃまになったのは、やはり騎馬民族であった。

帯方郡から遼東郡にかけての地域は、中継基地としてどうしても押さえておかなくてはならない重要な拠点であった。

ところが高句麗にとっても、地の利、生産力、気候、どれをとっても必要不可欠の土地であったために、この地域をめぐって中国との間に激しい争奪戦が展開されたのである。

そこで中国は騎馬民族対策に、騎馬民族同士を競わせるといった方法を常套手段として用いた。

そして朝鮮半島の諸国もこの政策の中に組み込まれ、高句麗と戦わされてゆくのである。

古代朝鮮を支配していた行動原理は、まさにパワーゲームであり、微妙なバランスを維持することによって初めて、どの国も生き残ることができるという、精妙な仕掛けがほどこされていたのである。



先史時代の朝鮮半島では、旧石器時代に続き、日本とほぼ同時期(紀元前数千年前)に新石器時代が始まる。

ちなみに日本ではこの時代を「縄文時代」と称している。

このころから日本と半島の交流はすでにあったようで、朝鮮の遺跡から、当地の櫛目文土器に混じって、縄文土器が発見されている。

日本はその後、紀元前3世紀~4世紀ごろ、稲作文化の渡来で弥生時代を迎えるが、半島では一足早く、紀元前7世紀ごろ、新たな文化が流入したらしい。

金属器(青銅器)もこの頃、そして鉄器が紀元前4世紀~3世紀ごろから使用されていたとされている。

半島情勢に劇的変化が訪れたのは、紀元前4世紀~3世紀頃。

燕国が漢の手で滅ぼされ、その亡命人が中国人や土着勢力をまとめ、半島西北に「衛氏朝鮮」を建国したことに端を発する。

それまで朝鮮半島は、未だ未開の地であった。

中国側に領土的野心はなかった。

ところが「衛氏朝鮮」が建国され、新たな技術が導入され、開発されたことによって、漢王朝が食指をのばす結果となった。

紀元前109年、漢の武帝は「衛氏朝鮮」を滅ぼし、ここに「楽浪郡」を設置、植民地支配に乗り出した。

一方、漢が本格的に半島に進出したことが刺激となり、南朝鮮に新たな動きが現れた。

この地域が超国家あるいは超国家連合へと発展し、やがて国家らしきものが芽生えてきたのである。

西暦40年代になると、これらの小国家連合体は、次々に「楽浪郡」へ朝貢するようになってゆく。

ところで後漢(西暦25年~220年)の時代になると、朝鮮半島を巡る環境も大きな変化がおきてくる。

軍縮政策を打ち出した後漢は、楽浪郡を拠点とした半島支配から事実上撤退した。

その西北の「遼東郡」に、本拠地を移した。

ところが2世紀に入ると、この「遼東郡」が東アジアの火薬庫となってゆくのだ。

東方支配の拠点を遼東郡に置く後漢、その一方で北方騎馬民族=扶余と高句麗も、この地に対し、強烈な領土的野心を抱くようになる。

こうして遼東郡を巡る高句麗と中国との対立の構図が成立した。

これより後、半島情勢はこの両雄の駆け引きによって回転するが、この決着がつくのは7世紀後半のことになる。



「魏志」の記述によれば、朝鮮は、南部は馬韓・弁韓・辰韓に分かれていたという。

それぞれの地域は、後に、百済、新羅、伽耶となってゆくが、元々彼らは同じ韓族であったとされている。

ところで「後漢書・東夷伝」「三国志・魏史・東夷伝」の記事を総合すると、この三韓は、元々、辰国として統一されていたもので、馬韓の王が治めていたものらしい。

朝鮮半島東南部の辰韓(後の新羅)は、後ろは山地がすぐ近くに迫り、農作物も少なく、人口も少なかった。

これに対し、馬韓のある西部はその逆で、豊かな土地だった。

この痩せた土地の辰韓は、後に新羅となり、半島を統一する国家へと成長する。

かたや馬韓の地は、百済となった後、滅び、新羅に飲み込まれてしまうのである。


3世紀後半から4世紀にかけて、日本でも小国家が次第にまとまり、一大王朝=ヤマト王朝が成立した。

ちょうど同じ頃、朝鮮半島南部でも先の三韓は国家としてまとまっていった。

なぜ、この地域で一斉に国家が誕生していったのであろうか?

その理由は、中国の急激な衰退であり、このことが民族意識に火をつけたかっこうとなったのである。

中国の凋落は、それまでの東方支配の方法に変化をもたらした。

後漢の光武帝は、中国人による各地の直接支配を改め、先住民の首長に管理を委託したのだ。

この結果、日本にもこの政策が適応された。

「漢倭奴国王」の称号と金印が授けられた。


2世紀半ばから末期にかけて、倭国は大乱となり、3世紀に卑弥呼が擁立され、邪馬台国が誕生し、「親魏倭王」の称号が与えられている。

通説では、この女王国が東に移り、天皇家の起源となったとされるが、大和朝廷成立に大陸情勢が密接に絡んでいたことは当然のことである。


さて、馬韓・弁韓・辰韓にも変化が現れた。

帯方郡と楽浪郡という中国の出先機関が、高句麗に滅ぼされたことであった。

313年のことだ。

このことで、三韓は、それぞれ、百済・新羅・伽耶として独立してゆく。

中でも最も劇的だったのは、西側に位置する馬韓であった。

高句麗と同族の北方騎馬民族=扶余の亡命貴族が馬韓に入り、王権を乗っ取ってしまったのである。

さて4世紀に誕生した百済は、馬韓同様、地の利を生かし、中国大陸と積極的に交流し、南朝鮮における先進国となってゆく。

しかし、高句麗と国境を接することとなったこの事態は、百済にとって最大の脅威となった。

新羅はどうか?

百済や伽耶、倭との間に、何世紀にもわたって因縁の関係を作ってゆくこの王朝は、どちらかというと、王権の支配力が強くなく、周囲への脅威に対して共同体の団結がなされた。

長いものに巻かれる方法で、ある時は高句麗の文化・政治形態を導入し、またある時は中国のそれを受け入れた。

民族主義的でありながら、生き残るために選んだ大国への恭順こそが、新羅の生き残りの方法だったのである。

「伽耶」は、三韓の一つ、弁韓が発展したものだった。

「伽耶」だけは、小国家連合体の道を選び、統一国家を目指さなかった。


          (引用ここまで)

           *****


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