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アジアの未来・・関裕二氏の「謎の出雲と伽耶王朝」(5・終)

2017-07-22 | アジア



関裕二氏の「謎の出雲と伽耶王朝」のご紹介を続けさせていただきます。最終回です。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

            *****

          (引用ここから)

はたして「神功皇后」と「卑弥呼」は同時代人であったのか?

すなわち、大和朝廷成立直前に活躍した人物であったのかどうかを知るためには、大きな視野をもたなければならない。

そこで注目されるのが「古事記」なのである。

「古事記」は、「上」、「中」、「下」の3巻から成り立つ。

これを簡単に区切れば、上巻が神々の物語、「中巻」が神武天皇から神功皇后の子・応神天皇までの物語。

そして最後の「下巻」が応神天皇の子・仁徳天皇から推古天皇までを描いている。

「下巻」が神々の支配から解放され、きわめて人間臭い物語で構成されているのに対し、中巻は、いまだ神話的で、宗教色の濃いものとなっている。

「古事記・中巻」の最後が、神功皇后と応神天皇の時代であるが、実際には歴史時代の人ではなく、大和朝廷成立直前の神話時代の人物であったことを、「古事記」は語っているのではあるまいか?

「カヤナルミ」の正体を追ってみると、彼女が下照姫、高照姫らと異名同体であったばかりか、「卑弥呼」の陰号として「神功皇后」と姿を重ねて見える。

そこで彼女らの母を改めて考えると、それは「伽耶」出身の宗像女神であった。

つまり「カヤナルミ」が「神功皇后」であったとすれば、「神功皇后」の母は宗像女神、宗像女神の孫は「神功皇后」の子=応神天皇という図式が成り立ち、宗像大社の伝承はきわめて整合性の高いものであったということになる。


「紀元節」が「韓神(カラカミ)祀り」であることの真意

「伽耶」は、異民族である。

出雲王朝に加担し、しかも出雲に裏切られた。

しかしヤマト王朝が成立してみると、彼らは政権に復帰していたのである。

その方策は「出雲の国譲り」と、それに続く「天孫降臨」の中に隠されている。


アメノヒボコ、ツヌガアラヒト。

一般的には両者は同一人物としてとらえられている。

その最大の理由は、アメノヒボコの名にある。

この名は朝鮮半島や中国大陸の感覚でつけたものではなく、きわめて日本的なところから、アメノヒボコはそもそも実在の人物ではなかった、というのだ。

つまりアメノヒボコとは、半島から渡来した、鉄生産の技術者集団を表象していたというわけだ。

そしてその中で「日本書紀」に登場した具体的な個人名が、ツヌガアラヒトだったことになる。



「伽耶」滅亡を語る上で、どうしても欠かすことができないのは、「任那日本府」の存在であり、「任那復興会議」の真相なのである。

そもそも「任那日本府」は、日本の「任那(伽耶)」支配の本拠地とされながら、他国の史料にまったく登場しないために、存在を疑われるものであった。

この統治機関が在ったのか、無かったのか、あるいはもっと別の形で存在したのか?

このような議論が延々と続いてきたのである。

この結論次第によって、日本が「任那」を支配していたかどうかが、分かると思われてきた。


「任那日本府」ほど奇怪なものはない。

というのも、この機関が「日本書紀」に言うところの「大和朝廷」の出先機関とはとても思えないからである。

欽明天皇の時代に「伽耶」は滅びるが、その直前、新羅に併合され、ほとんど実態を失いつつあった「伽耶諸国」を復興するための「会議」が、百済、日本、「任那」の代表を集めて行われたと、「日本書紀」は証言する。

そして、このとき、新羅と阿羅(「伽耶」諸国のひとつ)の国境に城を築き、百済と日本の兵で守り、敵地の農作業を妨害することなど、「任那」に兵を進めて新羅を駆逐するための3つの策が練られたと言われている。

ところが不思議なことに、日本の、あるいは天皇の出先機関であるはずの「任那日本府」は、この会議の決定に従っていなのである。

「任那復興会議」は欽明天皇3年に行われたが、欽明天皇9年には高句麗の百済侵攻に対し、「任那日本府」と阿羅が救援に向かわなかったので、これを不審に思い、百済の捕虜となっていた高句麗の兵に問いただしたという。

すると「実は、「任那日本府」と阿羅が、百済侵攻を高句麗にそそのかした、と証言した」とする記事がある。

これを聞いた天皇は、

「「任那日本府」と阿羅と、隣の災いを救わざること、また我が痛むところなり。
また高麗に密に使いやりつることは 信じるべからず」と語ったという。

すなわち「任那日本府」と阿羅が高句麗に密使を送り、百済を攻めさせたことは信じてはならんが、隣国の災難を傍観してしまったことは、私の心の痛むところだというのである。

「日本書紀」はあくまで「任那日本府」が高句麗と手を組んで百済をおとしめようとした、としているが、果たしてそうであろうか?

「任那復興会議」の後、「任那日本府」が「任那」復興のために、百済と組もうとはしていないことがひっかかるのである。

これは「任那日本府」が、「復興会議」の決定を無視していたとしか思えないのである。

そしてこの造反は、なにもこの時に始まったわけではないのである。


「日本書記・欽明天皇記」には、「任那日本府」が新羅と図ったので、百済が使者を送って、首謀者と思われる河内直を攻めたという記事が載る。

百済と「任那日本府」の反目はさらに続く。

「任那日本府」に「任那復興会議」への参加を呼びかけるが、「日本府」は3度断り続けた、というのである。

「日本書紀」はあくまで、「日本府」と百済の確執が原因であったかのように記すが、この当時、「任那日本府」の百済に対する造反はそのまま天皇家に対する謀反に等しい。

また天皇の意思は百済を経て「任那日本府」に伝えられたと「日本書紀」は証言するが、自国の天皇家と「任那日本府」の対立を浮き彫りにしているのである。

天皇家の命令を無視していた天皇家の出先機関とは、一体何なのか?

そしてこの事実をなぜ今まで問題にしてこなかったのか?

「任那日本府」とは、「出雲―新羅ライン」と、これにつながる「伽耶勢力」の存在を、「日本書紀」の編者が抹殺するためのかくれみのにすぎなかったのである。

また「任那復興会議」の実態も、「九州―百済ライン」の戦略会議にすぎず、この決定を「任那日本府」が聞き入れる道理がなかった。


出雲―新羅、九州―百済、二つのラインが成立した段階で、「伽耶」はパニックにおちいったはずだ。

それは、大和朝廷成立に大きく関わった。

南北二つの「伽耶」の枠組みの中で、どちらに着くべきか、という問題をすでに超越していた。

しかも目の上には、隣国・百済と新羅の、まるで火事場泥棒のような領土欲という脅威があった。

これに追い打ちをかけるかのように、「天皇家は百済に対し、「伽耶諸国」のいくつかの国を譲り渡した」と「日本書紀」は証言する。

これは「伽耶」の意思を無視するものであり、天皇家と百済の間に交わされた密約と見て間違いない。

天皇家は「伽耶」の領土を百済が奪い合うことを黙認することで、百済との結びつきの強化を図ったのである。

この結果、「伽耶」が日本を恨んだと「日本書紀」は記している。


ことここに至り、「伽耶」は天皇家の態度を裏切りと感じたであろう。

そして「日本」という後ろ盾を失った時点で、この小国家連合体は空中分解していく。

その多くの国々は、敵対していた新羅に併合されていったのである。

「伽耶」は滅亡した。


〈おわりに〉

朝鮮半島をめぐる歴史は、まさに闘争と恨みの積み重ねであった。

中華思想からいえば、中国からより遠い日本は、野蛮国であった。

それからすれば、本来中国の力に依存し、優位に立つべき半島人が野蛮国・日本に頭を下げることは、大きな屈辱であった。

ここに成立した図式が、やがて中世から近代に続く日本と半島の屈折した関係を生む下地になってゆくのである。

すなわち、われわれ日本人は、これら歴史が示す日本と半島の政治関係が、残念なことに人間関係にまで進んでしまう恐ろしさを実感し、これまでにしてきた多くの過ちを直視しなくてはならない。

しかしその一方で、半島の人々にも、いまだに中華思想をひきずっている事実に気づいていただきたい。

すべての文化・文明・王権が大陸からやってきた、という固定観念に縛られているかぎり、日本と半島の真の友好は望めないであろう。

韓族には韓族の、そして日本には日本の固有の文化があったことを認め合う寛容さを、お互いに持つべきであろう。

われわれの先祖は、「伽耶」と「大和朝廷」という、他者がうらやむほどの友情に満ちた一大文化圏・商業圏を築き上げたという実績がある。

彼らは自由な発想、自由な交易によって東アジアの花になりえたのであり、今日、日本と半島が真の和解を果たした時、東アジアに新たな潮流が生まれることは間違いない。

           (引用ここまで)

             *****

この本を読んでいる間ずっと心にあったのは、子供のころ見たNHKの大河ドラマ「黄金の日々」の記憶でした。

堺の泥だらけの商人たちの姿が凄烈に思い出されます。

アジアの中の日本、これからも考えたいテーマです。

wikipedia「NHK大河ドラマ「黄金の日々」より

安土桃山時代にルソンに渡海し、貿易商を営むことで巨万の富を得た豪商・呂宋助左衛門と、泉州・堺の町の栄枯盛衰、今井宗薫の妻・美緒をめぐる今井宗薫と助左衛門らの争いを描いた作品である。

従前は武士を主人公に取り上げた作品がほとんどだったが、今作では初めて商人を主人公に据えることにより、庶民の暮らしと経済面から時代を描く物語の展開となった。

また日本史上の人物の中でも人気が高い豊臣秀吉を関白就任後は徹底した悪役に描いたり、逆に憎まれどころの石田三成を善意の人物に描くなど、それまでにはなかった意外性を活かした構成となった。

これが功を奏して、平均視聴率も軒並み当時の上位につけ、歴代でも『赤穂浪士』の31.9%、『太閤記』31.2%に次ぐ25.9%を記録、最高視聴率も34.4%という高い数字を記録した。

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