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渡来人と倭人の血は混ざりあっていた・・関裕二氏「応神天皇の正体」(5・終)

2017-06-28 | アジア


古代朝鮮と日本の関係を調べるために、関裕二氏の「応神天皇の正体」のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

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         (引用ここから)

3世紀の朝鮮半島南部に、倭人の軍勢が押しかけていたことは、二つの異なる文書の証言から明らかだ。

まず一つは「日本書紀」である。

仲哀天皇9年のくだり(神功皇后摂政前紀)の新羅征伐の異伝の中の話)に次のような内容がある。

            ・・・

新羅王を虜にして海辺に連れてゆき、王の膝の筋を抜き、歩けないようにして、石の上に腹ばいにさせ、しばらくして切り殺し、砂の中に埋めた。

新羅のみこともち(現地指揮官)を一人残し、「神功皇后」らは引き上げた。

その後、新羅王の妻が、夫のしかばねを埋めた場所がわからないため、新羅のみこともちを誘惑して聞き出そうと考えた。

そこで、みこともちに頼み、「あなたが王を埋めた場所を教えてくれれば、あなたの妻になりましょう」と言う。

この言葉を信じたみこともちは、しかばねを埋めた場所を教えてしまった。

王の妻は、邦人と共に図り、みこともちを殺し、王のしかばねを掘り返し、移葬した。

そうしておいて、みこともちのしかばねを王の墓の土の底に埋め、王の空の棺を挙げて、その上に乗せ、「尊卑の秩序は本来こうあるべきだ」、と言った。

「神功皇后」は、この成り行きを知り、怒り、軍勢を起こし、新羅を滅ぼそうと考えた。

軍船は海に満ち、新羅の人々は恐れおののき、為すすべを知らなかった。

王の妻を殺し、罪を謝った。

      ・・・

これとよく似た話が、韓国の「三国史記・巻45」に残されている。

         ・・・

西暦253年、倭国の使者が来朝して、滞在していた。

接待係を任せられていた者が、戯言に、「近いうちにあなたの王を塩作りの奴隷にし、王妃を炊事婦にしよう」と言った。

倭王はこれを聞き、怒り、将軍をつかわして、攻めてきた。

接待係は、倭軍のもとを訪ね、「あれは冗談だった」と弁明したが、倭人は答えず、つかまえて焼き殺して去って行った。

後に倭国の大臣がやってきた時、接待係の妻は国王に願い出て、倭国の使節団を自宅に招いて酒宴を設けた。

酒に酔ったところで、大臣を焼き殺した。

倭人は怒り、攻めかけてきたが、勝てずに帰って行った。

           ・・・


利害が敵対する相手が、同じ事件を記録していた。

もちろん互いが、「勝ったのは我々の方だ」と言うが、証言がすれ違っているからこそ、記事の信憑性は増してくる。

3世紀後半に、倭人が朝鮮半島・南部に攻め入っていたことは間違いない。


 
倭人が朝鮮半島・南部に存在していた可能性が高いのだから、朝鮮半島と密接なつながりをもっていたという理由だけで、「渡来系豪族だ」と決めつけることはできないことが分かる。

その事実を確認した上で、「渡来人」や「帰化人」に囲まれた応神天皇の正体を明かしていこう。


まずご登場願うのは、日本史の裏を知り抜いた豪族で、古代史解明の鍵を握る「秦氏」である。

「八幡信仰」が勃興した地は、宇佐と大隅である。

そのどちらにも、新羅系の渡来人が多数暮らしていた。

彼らを代表するのが、「秦氏」だ。

つまり「八幡信仰」を支えていたのは、「秦王国」の住民、秦氏であった。


「八幡伸」と応神天皇が、早い段階でつながっていたのだとすれば、応神天皇と「秦氏」の関係を知りたくなる。

秦氏の祖が一体誰だったのか、「日本書紀」や「古事記」を読んでも、よくわからない。


「新選氏姓禄」によれば、「応神天皇14年、「融通王」=またの名を「弓月の君」が、128県の百姓を率いて帰化した」、とあり、これが秦氏の祖だったという。


「弓月王」によく似た「柚木の君」の来日記事なら、「日本書紀」に載っている。

応神天皇14年の条には、「柚木の君」にまつわり、次のような記事が載る。

          ・・・

「百済から「柚木君」が来朝し、

「私は自分の国の120県の人夫を率いて帰化するためにやって来ようと考えました。

ところが新羅の人々に足止めをくらい、みな「韓の国に留まっておりましょう」、と言う。

そこで、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を遣わし、加羅にいる人夫を招かせようとした。

ところが葛城はその後、3年帰って来なかった」という。

         ・・・


二つの記事から、「秦氏」の祖は「弓月の君」だった可能性が出てくる。


「古事記」には、応神天皇の御代に、秦造(はたのみやつこ)の祖と、漢直(あやのあたい)の祖、それに新たな醸造技術を持った仁番(にほ)=またの名を須須許理(すすこり)なる人物が渡来した、とある。

「秦氏」も「漢氏」も、代表的な渡来人であり、日本に多くの技術と知識をもたらしたが、この記事からは、秦造の祖が誰だったのか、はっきりとしない。


「新選姓氏禄」によれば、「秦氏は秦の始皇帝の末裔だった」とある。

おそらくは、「秦氏」自身がそう語り次いできたのだろう。


「魏志・辰韓伝」には、次のような話が載る。

「辰韓は馬韓の東にある。

故老が伝えて言うには、辰韓の人々は、辰の重税や苦役から逃れ、馬韓の東側をさいて住まわせたと言い、辰の人に似ていること、そこで辰韓とも呼ばれていた、という。

ちなみに辰韓がのちに新羅に、馬韓は後に百済となる地域である。


「神功皇后」や応神天皇は、「渡来系」人脈と強いきずなで結ばれていた。

右を向いても、左を向いても、「渡来系」ばかりである。

そして竹ノ内宿祢の末裔氏族も、ことごとく「渡来系」の人脈を駆使して繁栄を勝ち取っていった。

だからこそ、葛城氏も曽我氏も「渡来系」ではないか?、と疑われもしたのである。


当然、応神天皇に関しても、征服王とみなされてもおかしくはなかった。

なぜ応神天皇は「渡来系」の人々と多くの接点を持ち、「秦」王国の宇佐神宮で祀りあげられていたのだろう?


最大の理由は、「神功皇后」(=トヨ)が、神話ではなく実際に、朝鮮半島南部に兵を差し向けたからではあるまいか?

3世紀後半の邪馬台国の時代、朝鮮半島南部で倭人が暴れまわっていたことは、「三国史記」に記録され、「日本書紀」の記事とも合致している。

「神功皇后」自身が渡海していたかどうかを証明する手だては無いけれども、「神功皇后」の夫は、竹ノ内の宿祢で、その正体はアメノヒボコとする私論を組み合わせれば、「神功皇后」自身が朝鮮半島に出兵していてもなんら不思議ではないのである。

「神功皇后」が、越から出雲を経由して、豊浦宮に向かい、さらに北部九州、朝鮮半島へと向かったのは、日本海を股にかけた、巨大な交易圏の建設を目論んでいたからではないかと思えてくるのである。


ではなぜ、「神功皇后」や竹ノ内の宿祢の目論見が外れ、大和政権が裏切ったかといえば、他の拙著で述べた通り、大和建国直後の二大勢力の主導権争いに巻き込まれたからだろう。

すなわち、瀬戸内海と日本海勢力の権力闘争が勃発し、瀬戸内海を牛耳る饒速日(ニギハヤヒ)の尊が勝利したのである。

はしごを外された「神功皇后」と竹ノ内の宿祢は、逃げ場所を、南部九州と定めた。


実は、この「神功皇后」の選択こそ、応神天皇の正体を見極める最大のヒントとは言えないだろうか?

応神天皇・神武天皇が倭人であった証拠は、ここにあったのである。

すでにふれたように、アメノヒボコ神話や、神武東征説話には、隼人と関わった「秦氏」が関係していた。

しかし隼人とアメノヒボコ、隼人と神武天皇は、直接つながっていたのであり、だからこそ隼人は天皇家に近侍するようになっていったのだろう。

問題はなぜ、ヤマトに追われた「神功皇后」らが、逃げ場所に南部九州を選んだのか?ということである。

もし彼らが、新羅や伽耶出身であれば、なぜ南部九州に逃れたのだろう?

その後、ヤマトを呪い、ついに都入りを許されるに至るまで、なぜこっそりと朝鮮半島にも戻ろうとしなかったのだろう?

それは彼らが「我々は倭人だ」と考えていたからだろう。

そして、大陸や半島の動乱から逃れてきた人々の日本列島への渡航を、「神功皇后」や応神天皇の構築した人脈が手助けしたのに違いない。


「秦氏」は、宇佐の地で、大和と朝鮮半島の架け橋作りに励んだ。

「神功皇后」や応神天皇を祀り上げ、また南部九州の隼人も、朝鮮半島から富をもたらす神とみなし、祀り上げたのだろう。

応神天皇や曽我氏にまとわりつく強烈なまでの異国臭は、彼らが朝鮮半島との交流にいそしんだ結果なのである。

           (引用ここまで)

             *****

とてもいろいろなことが書いてあり、未消化ぎみなのですが、ご紹介しておきます。

同じ関裕二氏の本を今、読んでおり、それもご紹介したいと思っております。

独断と私見に満ちている、という評もあるのは承知していますが、しっかりとした考えなので、私は興味深く思っています。

古代アジアと古代日本という壮大なテーマは、宝の山のようです。

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