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乙女を追ってやってきたツヌガアラシト・・関裕二氏の「応神天皇の正体」(4)

2017-06-24 | アジア



古代朝鮮と日本の関わりを調べたいと思い、関裕二氏の「応神天皇の正体」という本を読んでみました。

続きです。リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

         *****

         (引用ここから)

ツヌガアラシトの名が「角鹿(敦賀)の地名となり、その地で、応神天皇は「笥飯大神と名を交換した」という。

その「笥飯大神」は、ツヌガアラシトであった可能性が高い。

「日本書紀」の垂仁2年のくだりの続きに、次のような記述がある。

                  ・・・

はじめツヌガアラシトが国にいたとき、牛に農具を乗せて田の中の家屋に行った。

すると牛が逃げてしまったので、足跡をたどっていくと、郡の役所の中に入っていった。

一人の老人が次のように言った。

「あなたが求めている牛はこの郡家の中に入りました。

牛が負っている鋤から推し量るに、殺して食べるつもりだったのだろう。

もし牛の持ち主がやってきたら、代わりのものをやって償えばよいだろう)と言って食べてしまいました。

もし「牛の代償になにが欲しいか?」と聞かれたら、「郡内で祀っている神を得たいと思う」と言いなさい」。

ツヌガアラシトは老人の言いつけを守った。

すると祀り神というのは、白い石であった。

ツヌガアラシトは白い石を持ち帰り、寝室に置いた。

その神石は美しい乙女に変身した。

ツヌガアラシトは大いに喜び、結ばれたいと思った。

ところがツヌガアラシトが外に出た隙に、乙女は消えてしまった。

ツヌガアラシトは驚いて「乙女はどこに行ったのか?」と聞くと、「東に向かった」というので、追って遠く海に浮かび、日本に至った。

逃げた乙女は難波にいたり、比女語曾社の神となり、また豊国の国前郡にいたり、比売語曾社の神となった。

           ・・・

これが「日本書紀」のツヌガアラシト来日話の別伝である。

「古事記」には、これがアメノヒボコの話となって伝えられている。


「古事記」のアメノヒボコ来日説話のあらましを記しておこう。

            ・・・

新羅の阿具奴摩(あぐぬま)という沼で、卑しい女性が昼寝をしていたら、日の光が、虹のように、ホトを刺した。

卑しい男が、その様子を見ていた。

女姓は、赤い玉子を生んだ。

卑しい男は、その玉子をもらい受け、腰につけた。

男は谷間に田を作り、耕作人たちの食べ物を牛に乗せて運ぼうとしたところ、「アメノヒボコ」に呼び止められ、「お前はこの牛を殺すつもりだろう?」と言いがかりをつけられた。

卑しい男は、例の玉をアメノヒボコに賄賂として差し出すと許され、アメノヒボコは玉を持ち帰って床に置いた。

すると美しい乙女に化けた。

乙女は正妻となり、ごちそうを作っては、アメノヒボコを喜ばせた。

ところがアメノヒボコは増長し、乙女は「そもそも私はあなたの妻となるべき女ではありません。

親(祖)のいる国に行きます」と言って逃げて、難波に留まる。

比売碁曽社(ひめごそのやしろ)に鎮座して、阿加流比売(あかるひめのかみ)という。

               ・・・

多少の差はあっても「日本書紀」の「ツヌガアラシト」と、「古事記」の「アメノヒボコ」は、よく似ている。

そして両者は〝角鹿(つぬが)″=敦賀の地と強く結ばれていたから、笥飯大神=ケヒ大神=去来紗(イササ)別神と同一であった可能性は高い。

たとえば「日本書紀」垂神3年の、「新羅王子アメノヒボコ来季」記事の別伝には、「アメノヒボコが貢献した神宝」の中に、「イササ大刀」が記されているが、これが笥飯大神とアメノヒボコをつないでいる。

このように、人々は、気比神宮の去来紗別神と「アメノヒボコ」を、同一と考えてきたのである。


ではなぜ、応神天皇と「笥飯大神」は、〝名前を交換″したのだろう?

両者の間には、どのような接点があったというのか?


「古事記」の「アメノヒボコ来日説話」の最後に、「アメノヒボコの末裔の系譜」が掲げられている。

そこには、「アメノヒボコの末裔」が「神功皇后の母」とある。

つまり、「アメノヒボコ」は、応神天皇の母系の遠祖だったことになる。

応神天皇には、新羅や伽耶の血が混じっていたことになる。


もっとも、このような系譜が「古事記」に載りながら、「日本書紀」に一言も記されていないのは不可解だ。

ここに大きな謎が隠されているのだ。


「アメノヒボコ」と「神功皇后」の血のつながりを無視することはできない。



いつごろから、応神天皇と新羅、伽耶、百済は、多くの接点を持つようになったのか?

応神天皇や「神功皇后」に新羅の影がつきまとうようになったのは、8世紀に神仏習合していってからなのだろうか?

あるいは元々、応神天皇と「神功皇后」は朝鮮半島と強い絆で結ばれていて、だからこそ、あらゆる場面で、新羅や伽耶と関わりを持ってくるのだろうか?


謎めくのは、「日本書紀」の態度ではなかろうか?

すでに述べたように、「古事記」は、「アメノヒボコ」の末裔が「神功皇后」と記す。

これが本当なら、「神功皇后」と応仁天皇の体には、新羅王家の血が流れていたことになる。

ところが「日本書紀」はこの系譜を黙殺し、接点は見いだせない。


「神功皇后」は、男勝りの活躍で、新羅征伐を成功させた。

そして、胎児の応神天皇が、新羅を手に入れた、という。


「日本書紀」の記事の中で、「神功皇后」と新羅は敵対する間柄で、凱旋後の二人は、新羅とはほとんど縁のない生活を送っていく。


「日本書紀」は、朝鮮半島の南西側の百済びいきで、「古事記」は、南東の新羅びいきである。

だから「日本書紀」の編者は、新羅王家の血が天皇家に流れている事実を抹殺したかったのだろうか?


筆者(=関氏)は、新羅、正確には、伽耶の脱解(タレ)王の末裔が、3世紀に来日し、「神功皇后」と結ばれ、応神天皇が生まれたのではないか、と推理してきた。(別書参照)


「魏志倭人伝」には、倭人の習俗が描かれているが、海人の性格が濃厚だ。

たとえば「対馬国」y「壱岐国」の記事には、

「土地は山が険しく、森が深い。道は獣道のようだ。

良田はなく、海産物を食し、自活し、船を駆って南北に交易をしている」とある。



魚やを好み、水深が浅かろうが深かろうが、潜って採ってくる」。

と、倭人が、対馬から、北部九州沿岸部の人間が海の民であることを伝えている。


「後漢書」には、次のような記事が載る。

西暦178年、東北アジアの鮮卑族の部族長は勢い盛んだったが、人口増による食糧不足に苦しめられていた。

魚は泳いでいるのに、捕るすべを知らなかった。

すると倭人が、魚を網で採ると聞き、東方の倭人国を討ち、千あまりの家の人々を捉え、水のほとりに住まわせ、魚を捕らせた、とある。

これはちょうど倭国の乱の時代で、卑弥呼擁立直前の話である。

倭人が優秀な漁労民であることは、鮮卑族でも知っていたことがわかる。


ただし、ここに登場する倭人は、朝鮮半島に住んでいた倭人だったという説もある。

つまり海の民としての倭人は、各地に拡散していた。

これら倭人は、東アジアでも有数な海の民であった。

そしてこの属性は、縄文時代から継承されてきたものだ。

縄文人たちも、方々に出かけて行っては、文物の交流をしていた。

また、物だけでなく、人が移動し、血が混じっていったに違いない。


縄文人が中国に渡って行くだけではなく、中国南部の人々が朝鮮半島や日本列島にやって来ることもあったろう。

「徐福伝説」を荒唐無稽と無視するつもりは、さらさらない。


また、〝縄文人″という固定された民族などどこにもいなかったのであって、

国境のなかった時代、多くの人々が海を渡り、交流し、血縁関係を結んだと思われる。

我々が想像する以上に、東アジアは狭く、情報は行き交っていたと思われる。

当然、大陸の人々は、大海原を飛び回る縄文人たちを、彼らがどこから来た人か認識していただろう。

そして縄文時代から、日本列島の住民を「倭人」と知っていた可能性は、非常に高いのである。



なぜ「倭人」にこだわるのかというと、日本列島だけではなく、朝鮮半島にも「倭人」が住んでいたと思われるからである。

新羅や伽耶の地域だ。

「魏志倭人伝」には、大きな謎がある。

邪馬台国の国の数が合わないのだ。


「魏志東夷伝・韓」のくだりには、「韓は帯方の南、東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す」とある。

「後漢書」は、「その西北界、狗耶韓国(くやかんこく)といい、

やはり「狗耶韓国」が「倭国」の北限といい、「百済」は南の倭に接している」とする。


「三国遺事」も、「新羅は北方で末鞨(まっかつ)につながり、南側は倭人と接する」と記録する。


また「新羅本紀」は西暦193年に、「倭人が飢餓に苦しめられ、千余人が新羅にやって来て食料を求めた」と記録する。

これは、陸続きのどこかから民が押し寄せて来たのではないか、と疑われている。


文献資料を見る限り、倭国は馬韓、後の百済や新羅と陸続きの国であった印象を受けるのである。

上田正明は著書「倭国の世界」の中で、「倭とか倭人を日本列島ないし列島内の種族としがたい例はいくつもある」、と指摘している。

このように、朝鮮半島・最南端が「倭国」の一部であったことがある、という推理は、意外に広く支持を集めている。

           (引用ここまで)

              *****

竜宮城や徐福伝説の、異国の香りがしてくるようです。

筆者・関氏は、「倭人」は、縄文時代からあたり一帯を活動的に動き回り、そしてそもそも、縄文人というくくりすらも、狭苦しいと言っています。

古代の、大らかな、伸びやかな世界に、気持ちが晴れる思いがします。


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