古代の朝鮮半島と日本の歴史を知りたくて、関裕二氏の「応神天皇の正体」という本を読んでみました。
続きです。リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
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(引用ここから)
「日本書紀」神功皇后摂政紀」別伝には次のような記載がある。
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崇神天皇の時代、〝額に角が生えた人″が、越の「けひの浦」にやって来た。
それで、この地を「角鹿=つぬが=敦賀=つるが)」と呼ぶようになった。
「どこからやってきたのか?」とたずねると、「意糸加羅国(おおからこく)の王子で、名はツヌガアラシトだ」という。
「日本に聖王(ひじりのおおきみ)=崇神天皇がいらっしゃると知り、帰化した。
山口の穴門に至ると、人がいて、伊都都比古(いつつひこ)という。
私に向かって、「私はこの国の王だ、私を除いて他に王はいない。だからここにいなさい」と言いました。
しかし、人となりを見るに、王とは思えません。
そこで引き返し、道に迷いながら、出雲の国を経由して、こうしてやって来たのです」、と言う。
けれども聖王はすでに亡くなったことを知り、角鹿(敦賀)に3年留まった、という。
そこで「帰りたいか?」と問い正すと、「ぜひとも帰りたい」と答えた。
垂神天皇は、ツヌガアラシトに、「もし道に迷わずすばやくやって来ていたら、先帝に仕えることができたのに残念だ。
「そこで、お前の国の名を、御間城(みまき)=垂神天皇の名を取り、改めなさい」、と述べられた。
そして、赤織絹を、ツヌガアラシトに賜って、本国に帰した。
その国が「任那(みまな)の国」と名乗るのは、このためだ。
・・・
これが、ツヌガアラシトを巡る「日本書紀」の記事である。
ツヌガアラシトの名が、角鹿=敦賀(つるが)の地名となり、その角鹿(つるが)で、応神天皇は気比(ケヒ)大神と名を交換したという。
その気比(ケヒ)大神は、ツヌガアラシトであった可能性が高い。
そして一般に、ツヌガアラシトは、新羅王子のアメノヒボコのことではないかと考えられている。
応神天皇が、名を交換した気比(ケヒ)大神も、アメノヒボコと思われる。
これは、通説の考えでもある。
根拠は以下のとおり。
「日本書紀」の垂神2年のくだりに、ツヌガアラシトの記事があり、その直後の垂神3年のくだりに、「新羅の王子・アメノヒボコ参りけり」、とある。
この記事に従えば、「ツヌガアラシト」と、「アメノヒボコ」は明らかに別人として描かれている。
しかし、「古事記」のアメノヒボコ来日説話と「日本書紀」のツヌガアラシト来日説話は瓜二つで、両者は別人ではないと思われる。
6世紀に任那(伽耶諸国)は新羅に併合され、滅亡してしまったため、「新羅と任那の王子」は混同されてしまったのではないかと思われる。
(引用ここまで)
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wikipedia「気比神社」より
〇祭神について
主祭神はイザサワケ(伊奢沙別/去来紗別)で、氣比神宮特有の神である。
神名「イザサワケ」のうち「イザ」は誘い・促し、「サ」は神稲、「ワケ」は男子の敬称の意といわれる。
そのほかの名称として、史書では「笥飯」「気比」「御食津」と記されるほか、『気比宮社記』では「保食神」とも記される。
これらは、いずれも祭神が食物神としての性格を持つことを指す名称であり、敦賀が海産物朝貢地であったことを反映するといわれる。
このことから、神宮の祭神は上古より当地で祀られた在地神、特に海人族によって祀られた海神であると解されている。
一方、『日本書紀』に新羅王子の天日槍(アメノヒボコ)の神宝として見える「胆狭浅大刀(いささのたち)」との関連性の指摘があり、イザサワケを天日槍(アメノヒボコ)にあてて、新羅由来と見る説もある。
〇応神天皇
第15代天皇。『古事記』『日本書紀』によれば伊奢沙別(イササワケ)命(神宮の主祭神)と名を交換したという。
このイザサワケは、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇と深いつながりにあることが『古事記』『日本書紀』によって知られる。
両書では、仲哀天皇が角鹿に行宮として「笥飯(ケヒ)宮」を営んだとあるほか、天皇の紀伊国滞在中に熊襲の謀叛があり、角鹿にいた神功皇后を出発させたとあり、角鹿の地が登場する。
神功皇后は、仲哀天皇の突然死を経て新羅に遠征(三韓征伐)し、帰途に太子(誉田別尊;応神天皇)を産んだ。
そして、皇后と太子がヤマトへ戻る際に謀叛があったが無事平定し、太子は武内宿禰に連れられて禊のため気比(ケヒ)神に参詣したという。
以上のように、歴史の早い段階から気比(ケヒ)神が朝廷の崇敬を受ける神として登場しており、一連の出征の始まり・終わりを成したことから、古くは軍神として崇敬されたとも見られる。
『古事記』ではその後の経緯として、武内宿禰に連れられた太子(応神天皇)はイザサワケと名の交換を行ったとする(易名説話)。
説話によれば、太子が角鹿(敦賀)の仮宮を営んでいると、夜の夢にイザサワケが現れて名を交換するよう告げた。
太子が承諾すると、イザサワケは翌朝に浦に出るように言い、太子が言われたとおりにすると、浦には一面にイザサワケの献じた入鹿魚(イルカ)があった。
これにより太子は、イザサワケを「御食津大神(みけつのおおかみ)」と称え、のちにその名が「気比大神」となったという。
同様の説話は『日本書紀』でも別伝として記されているが、『古事記』『日本書紀』とも内容には疑問点が指摘される。
この説話の解釈には諸説あるが、特にその真相を「名(な)と魚(な)の交換」すなわち「名の下賜」と「魚の献上」であるとして、気比神(とその奉斎氏族)の王権への服属儀礼を二重に表すと見る説が有力視される。
また、以上のように当地が応神天皇系の勢力基盤であったことは、越前から出た応神天皇五世孫の継体天皇(第26代)とも関係するといわれる。
イザサワケとともに祀られる仲哀天皇以下6柱に関しては、7世紀後半に天皇霊が国家守護神として各地に設置された動きと関連づける説がある。
その中で、守護神として合祀された仲哀天皇は敗者の霊として「祟り性」を備えていたために、全国でも早期の神宮寺成立・神階昇叙につながったと指摘される。
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