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「アマテラスの誕生」筑紫申真氏(1)・・伊勢神宮は、川の神を祀っていた

2017-11-18 | 日本の不思議(古代)


「アマテラスの誕生」という本をご紹介します。

筑紫申真氏が1962年に上梓した古い本ですが、50年の時を経ても、なお新しさを感じさせます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

「アマテラスは蛇です。
そして、七夕まつりの、あの織姫なのです。
アマテラスの神格は、3度変わりました」。

という斬新な書き出しから始まります。

最初は、「アマテラスは蛇だった」の部分です。

            *****
       
         (引用ここから)

「「アマテラスオオカミ」は蛇である」、と考えられていた時代がありました。

しかも、男性の蛇です。

鎌倉時代、僧が聞いて驚いて書き記した話。

「伊勢神宮・内宮=皇大神宮」の神様、つまり「アマテラス」は蛇で、「いつきの宮」はその妃である。
その証拠には、「アマテラス」は毎晩「いつきの宮」の所に通って来る」。

「いつきの宮」というのは、皇女であり処女である人の中から選ばれて、「伊勢神宮」に仕えて神祭りをしていた人です。

後鳥羽天皇の南北朝時代頃まで、その制度は続いていました。


斎宮(いつきの宮)の布団を上げてみると、毎朝、蛇のうろこが落ちているとは。。


ところが私は、つい近頃、この僧と同じように、飛び上がるほどびっくりする話を聞かされました。

「皇大神宮」の「別宮」に、「井澤(いわざ)宮」というのがあります。

「別宮」というのは、「本宮」に次ぐ格式の高い神社で、「伊勢神宮」に所属していますが、この「井澤宮」は志摩半島の磯部という町にあり、「アマテラス」を祀っています。

「「この宮の神様は蛇だった」と村の人、宮大工などは、皆言っていますよ」と、代々この宮の神官筋の人から、事もなげに聞かされた時は、本当に驚愕しました。

さて、「「アマテラス」が男性の蛇である」とは、いったいどういうことなのでしょうか?

        (引用ここまで)

         *****

三輪山の神様・大物主も、その本体は、蛇だったことを思い出しました。

伊勢のアマテラスもまた、同じだとは。

         *****

       (引用ここから)

「アマテラスは織姫だった」

天の川を隔てた牽牛星と織女星が、7月7日の晩に、1年にたった1度だけ交わりを結ぶ、というロマンチックな話があります。

中国から伝えられた話です。

そしてわが国でも、「七夕まつり」として、広く「星祭り」が行われています。

「アマテラス」は、その七夕祭りの「織姫」なのです。

日本の古典に度々出てくる「たなばた(棚機)つ女」です。


「万葉集」が編集された8世紀より、もっと昔のこと、わが国では神様は、1年に1度、海から、または海に通じている川を通って、遠い所から訪問してくるものと考えられていました。

そこで人々は、海岸や川端の人里離れた寂しい所に、神の妻となるべき処女を住まわせ、神の訪れを待ち構えさせていたのです。

そしてこの「七夕つ女」は、普段は「神の着物」を機にかけて織っていました。

1年に1度、男女が行き会うことや、「織女」・「七夕女」という名前が似通っていることなどが、中国から伝えられた「星祭り」の風俗を、我が国固有の「神祭り」の風俗に大変素直に結び付けて、同化させることになったのでした。


この「神の着物」を織る人は、「神祭り」をする巫女でした。

つまり、女司祭者だったのです。

そしてこの「神祭り」の女が、「アマテラス」の本当の姿だったのです。

なぜなら「アマテラス」は女で、神のために自ら機を織っていたからです。

         (引用ここまで)

        *****

これは、前の「アマテラスは蛇である」とは全く異なった伝承です。

この伝承では、アマテラスは女性です。

神に仕える巫女とされています。

         *****

      (引用ここから)

「三転する神格」

「日本書紀」に見られる「アマテラスオオカミ」は、3回ほど神の観念の上で変化しています。

初めは、「太陽そのもの」でした。

次に、「太陽神を祀る女」となりました。

それから「天皇家の祖先神」に、と転々して完成しているのです。

「日本書紀」の中で、「日神」→「おおひるめのむち」→「アマテラス」と呼ばれている3つの神の名がそれなのです。


「アマテラス」の誕生の経緯は、「伊勢神宮」の誕生の経緯が明らかになると分かるのです。

そこで「伊勢神宮」の成立の話に移りましょう。


「伊勢神宮」は、「皇大神宮」を「内宮」と呼んで、「アマテラス」を祀っており、三重県伊勢市の宇治にあります。

「皇大神宮=内宮」が「伊勢神宮」の中心です。

「外宮」は、同市・山田にあり、豊受神(とようけのかみ)を祀っています。

この他、合わせて125社に及ぶたくさんの神社群によって構成されています。


「皇大神宮の成立」

「皇大神宮」は、西暦698年に出来ました。

その神格は、「川の神」・・宮川と五十鈴川の「川の神」です。


「続日本記」に「「多気大神宮」を渡会郡に移す」という記事があります。

「大神宮」という呼び名は、「皇大神宮」の他には使った試しの無い呼び名なのです。


それでは「多気大神宮」は、いったいどこにあったのでしょうか?

それは南伊勢の宮川の上流にありました。

「皇大神宮」の「別宮」・「滝原宮」がある場所です。


「滝原宮」は、皇大神宮の別宮です。

「本宮」に次いで格式の高い神社で、「伊勢神宮」の神社群の中でも第3位の実力をもって重要視された神社です。

この「滝原宮」の神は、正式には「アマテラス」だとされていますが、実はこの神は「水戸(みなど)神」である、という古くからの伝えがあるのです。


「水戸(みなど)神」とは、雨水を司る「川の神」のことです。

現存している「滝原宮」が、宇治へ引っ越して行った「多気大神宮」の名残であるとみなしてよいと思います。


宇治はもともと、「川の神」を祀る「祭場」だった所なのです。

そこでは土地の豪族が、毎年定期的に「川の神」の祭りをやっていました。


「滝原宮」の神も、「水戸(みずと)の神」、つまり「川の神」でした。

「滝」というのは、いわゆる飛瀑だけを言うのではなく、川が急流となっている所はみな「滝」でした。

だから昔は、川の上流のあたりは、みな「滝」と呼ばれて差支えなかったのです。


「皇大神宮」を訪れる人は、五十鈴川の手洗い場でまず手を洗ってから参拝するのが、昔からの習慣になっています。

ここが昔の「川の神」祭りの聖地だったのです。

そしてこれが、「皇大神宮」の元々の神なのです。

このように大事な神なのに、この神には社殿もなく、もともとは姿なき神社だったのです。

あるのはただ、「祀りの場所」だけだったのです。



鎌倉時代の記録では、この神のことを「川の洲崎(すざき)にある松杉などの木の繁みで、神体は水底に鎮座している、すなわち「竜宮」である」と言っています。

「「滝祭り」の神は、もとは「竜」、すなわち「蛇」の姿であって、五十鈴川の流れの中に居て、人々の祭りを受ける「水神」=「川の神」なのでした。

昔は、祭りは、手洗い場から川をへだてた、向こう岸の木群で行われたのです。


「天つ神の降臨」 

川に姿を現す神は、自ら山を伝わって降りてきて、川の流れの中に潜って、誕生しました。

それが、日本の「風雨の神」の習性です。


「皇大神宮」の神は、もともとは単に「天つ神」と呼ばれるべき神でした。

日本のどこの村でも祀ってきた、最も普通の神が、「天つ神」なのです。


「天つ神」は、天空に住んでいると信じられた霊魂で、大空の自然現象そのものの魂でした。

太陽、月、風、雷、雲、、「アマテラス神」は、「日の神」とも「月の神」とも「雷の神」とも考えられたのです。

7世紀の終わり、持統天皇の時代には、南伊勢地方(宮川・五十鈴川の流域)では、そこで祀っている「天つ神」を、「伊勢大神(いせのおおかみ)」と呼んで崇めていました。



さて、そのような「天つ神」が、天から地上に降りてくると、「滝まつりの神」になるのです。

まず「神」は、大空を舟に乗って駆け降りて、目立った山の頂上に到着します。

それから中腹を経て、山麓に降りてきます。

そこで、人々が前もって用意しておいた樹木(みあれ木と呼ばれる)に、「天つ神」の霊魂が寄り付きます。

人々は「天つ神」の寄り付いたその常緑樹を、川のそばまで引っ張って行きます(みあれ引き)。

川のほとりに「見あれ木」が到着すると、「神」は、木から離れて、川の流れの中に潜り、姿を現します。(幽現)


これが「神の誕生」です。

このようにして、「神」は地上に再生するのです。

このような状態を、「神の御陰(みあれ・御生)」と呼んだのです。


そして「神」が川の中に出現するその時、神を祀る巫女、すなわち「棚機(たなばた)つ女」は、川の中に身を潜らせて、待ちました。

古典はこのような女性を「くくり(潜り)姫」と呼んできました。


巫女は、「御生(みあれ)する神」を、流れの中からすくい上げます。

そして、その「神」の一夜妻となるのでした。

これは昔、日本の各地で毎年一度づつ、定期的に、最も普通に行われていた「神の出現」の手続きでした。

五十鈴川の「滝祭り」においても、このやり方が取られていたのです。

「滝まつりの神」を祀る行事こそが、「内宮=皇大神宮」の前身である「天つ神」が、五十鈴川の川上の、宇治の地においても、一年に一度だけ、空から駆け降りてくる厨川の流れの中に出現していた、という過去のあったなごりなのです。

           (引用ここまで)

             *****

著者は、民俗学者・折口信夫(しのぶ)の弟子だったそうです。

直観が生きています。

「川の神」が、急流に乗って、天から駆け降りてくる。。

伊勢神宮のもともとの祭神は、水の神であり、天から降りてくる竜神であり、それを自身の身に受け止める巫女がいた。

元来のアマテラスは、その水神であり、竜神であり、それらの妻である巫女であった、と述べられています。

それら3つの姿が混同されているけれど、日本人の心なら、難なくわかるだろう、と著者は確信しているのだと思います。


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