古代朝鮮と古代日本の関わりについて調べていて、関裕二氏の「応神天皇の正体」という本も読んでみました。続きです。
応神天皇の母は、三韓征伐で有名な「神功皇后」ですので、古代の日朝関係を考えるよすがにはなると思いました。
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(引用ここから)
応神天皇と宝の国・新羅
応神天皇の正体を探るためには、8世紀まで下らなければならない。
「日本書紀」は8世紀に記され、藤原氏がその編纂に影響力を及ぼしていた。
その直後、聖武天皇が藤原氏に反旗を翻し、「八幡神」を勧請している。
聖武天皇と応神天皇をつなぐきずなは、「八幡神」と「ヒスイ」ではなかろうか?
中でも「ヒスイ」は、貴重な物証に思えてならない。
「ヒスイ」は、縄文時代と8世紀をつないでいるからだ。
邪馬台国の女王「豊与(トヨ)」は、「魏に「ヒスイ」の勾玉を贈り届けた」と「魏志倭人伝」に記されている。
「ヒスイ」は、石を磨く技術を駆使して手に入れた縄文人の誇りであった。
当然、邪馬台国の時代にも、珍重されていたのだから、卑弥呼も、魏に贈ればよかったのに、なぜ卑弥呼は、日本土産にぴったりのヒスイを、魏に届けなかったのだろう?
鍵を握っているのは、「日本書紀」に記された「神功皇后」の行動であると思う。
通説は「神功皇后」を架空の人物とみなす。
その一方で、彼女の子の応神天皇は4世紀末から5世紀初頭の人物である、という。
しかし筆者は、「神功皇后」は「ヤマト」建国に、大いに関わりを持っていたとみなす。
理由は簡単なことで、「日本書紀・神功皇后摂政紀」に、「魏志倭人伝」の引用文があり、「神功皇后」の時代と邪馬台国の時代が重なっていた、と「日本書紀」が言うからだ。
「日本書紀」は、「神功皇后」を、卑弥呼か台与(トヨ)のどちらかであると考えていた可能性が高い。
そして「神功皇后」は前述のように「台与(トヨ)」の女神と多くの接点を持つのだから、「台与(トヨ)」だろう。
「日本書紀」には「神功皇后」の時代を知る目安となる記事がある。
「皇后摂政66年」には、次のような記事がある。
この年は、晋の武帝の時代、西暦266年にあたる。
「倭の女王が、通訳を重ねて貢献せしめた」という。
西暦266年といえば、邪馬台国の卑弥呼の死後のことだから、「倭の女王」は、卑弥呼の宗女の「豊与(トヨ)」と考えられる。
つまり「日本書紀」編者は、ここで邪馬台国の女王と「神功皇后」を重ねていたことになる。
この記事を信じるならば、「神功皇后」は、邪馬台国の時代の人となる。
「日本書紀・応神紀」にも、絶対年代を推定するヒントが残されている。
応神3年のくだりに、次のような記事がある。
「この年、百済の新王が立ったが、日本の天皇に礼を失することをした。
そこで人々を遣わし、叱責させた。
すると百済国は、新王を殺して謝った。
そこで倭人たちは、「阿花(あか)」という男を立てて、王にして帰っていった」。
ここに登場する「阿花(あか)」なる人物は、西暦392年に即位した百済の「阿華王」に当てはまる。
応神16年のくだりには、「百済の「阿花王」が崩じたこと、天皇は、人質となって来日していた王を呼び、「あなたの国に帰って王位を継承しなさい」と述べ、帰国させた」とある。
「三国史記」にも同様の記事が記載されている。
すると、応神天皇は4世紀末から5世紀前半の人物だったことになり、「神功皇后」の段で引用されている「魏志倭人伝」の記事との間に、年代的な整合性がなくなる。
しかし筆者は、ここに「日本書紀」の仕組んだカラクリが隠されているように思えてならない。
つまり藤原不比等は、「ヤマト建国」前後の曽我氏の活躍を抹殺するために、「ヤマト建国」の真実を闇に葬った。
その手口の一つは、「神功皇后」と応神天皇の時代に二通りの年代を用意し、目くらましをしたことであり、
カラクリの犠牲になったのが「神功皇后」と応仁天皇であると考える。
「神功皇后」と邪馬台国をつなぐ接点は、いくつもある。
九州の熊襲(くまそ)がそむき、仲哀天皇と「神功皇后」は西征に向かうが、この時「神功皇后」は、「越」に行幸していた。
そして「出雲」を経由して、山口の「穴豊浦」の宮に向かい、仲哀天皇と合流している。
この別行動は、不自然ではあるまいか?
「神功皇后」は創作上の人物、と通説は言うが、それならばなぜ、このような複雑な設定を用意する必要があったのだろう?
しかし、「神功皇后」が本当に「越」と強くつながっていた、と考えてみると、多くの謎が解けてくる。
「越」につながっていた「神功皇后」が、北部九州の邪馬台国を圧倒したから、卑弥呼ではなく、台与(トヨ)が魏にヒスイを贈ることができたのだと、筆者は考える。
「魏志倭人伝」は、「卑弥呼の宗女がトヨ」と記録するが、「日本書紀」の記事には次のようにある。
「「神功皇后」は、仲哀天皇が亡くなると、南下し、久留米市の南側の女首長を討ち取り、とって返して、海を渡り、新羅征伐に向かった」。
この「女首長」とは誰だったのだろうか?
筆者は、この「女首長」の説話は、「ヤマト(大和)のトヨによる邪馬台国の卑弥呼殺し」ではあるまいか?と疑っているのである。
「日本書紀」によれば、10代崇神天皇の時代にヤマトにたたりをもたらしたのは、出雲神・大物主神であった。
ところが大物主神を祀る大神神社のご神体である三輪山山頂には、「日向御子」(ひむかみこ)という、一風変わった神をまつる社が存在する。
この「日向御子」こそ、応神や神武であったと、筆者は見る。
もちろんこれは通説とは離れているが、指摘しておきたいのは、「神功皇后」と応神天皇が、邪馬台国やヤマト建国時の人物だったということである。
応神天皇には、日本的ではない側面がある。
朝鮮半島・南東部の国・新羅と、強く結びついていて、新羅からやって来たのではないか、と思えるほどなのだ。
「応神天皇は、新羅を攻め取った」と「日本書記」は記す。
しかも応仁天皇と新羅のつながりは、生まれる前から約束されていた、という。
そこで「日本書紀」に記された「神功皇后の新羅征服」を、改めて読み直してみよう。
新羅征伐に向かうに際し、神は
「「神功皇后」は子をはらんでいる。
この御子が、新羅国を得るだろう」、と告げている。
そして、託宣通り、「神功皇后」は新羅を圧倒したのだった。
応神天皇は、胎児のまま遠征し、新羅を圧倒したことになる。
「胎中天皇」の異名をとるのも、即位することが決まっていたことと、胎児のまま活躍したことを意味していよう。
「神功皇后・摂政紀」には、降伏した新羅王が皇后に次のように述べるくだりがある。
「この後は、長く天地と共に従い、朝廷の馬の飼育係や卑しい職業となり、始終舟で往来し、馬の櫛と鞭をヤマトに届けましょう。
また海の遠いことを厭わず、毎年、男女の貢を奉りましょう」、とある。
人々は「新羅王を殺す方がよいでしょう」と進言したが、「神功皇后」は「降伏してきたのだから殺してはならない」と言った。
すると「新羅王は、金銀や財宝を80双の舟に乗せ、日本国に奉った」、とある。
また「別伝」には、新羅王が次のように述べたとある。
「臣は今から後、日本国にまします神の御子(応神天皇)に、内宮家となって、絶えることなく朝貢いたしましょう」。
つまり「日本への献収国になりましょう」、と言ったという。
まさに神託通り、新羅は応神天皇の国になったのである。
通説は、「神功皇后」が新羅を圧倒したという説話を絵空言といい、歴史とみなさない。
しかし奇妙なことに、話には新羅がつきまとっていくのである。
日本固有の神宝・ヒスイを携えて、九州に乗り込んだ「神功皇后」。
しかし彼女の体には、新羅王子・アメノヒボコの血が流れ(6代前の先祖とされる)、しかもこの後、「神功皇后」と応神天皇は朝鮮半島と結ばれ、渡来人に守られ、彼らの信仰の対象となっていくのである。
応神天皇と新羅や朝鮮半島とのつながりは、「応神天皇の時代に帰化人が大勢押し寄せてきた」という「日本書紀」や「古事記」の記事からも推測できる。
弓月君(ゆずきのきみ)や、阿直技の帰化を巡る説話である。
(引用ここまで・続く)
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筆者・関氏が言うように、外国で大活躍をした「応神皇后」は伝説の人とされ、応神天皇は実際の天皇であったという日本史の通念には、不自然なものがあるという説にも一理あるように思います。
そして、三韓征伐をしてきたとされる神功皇后は、その後隠居のようになり、朝鮮半島との関わりには一切関与していません。
しかし、中国や朝鮮の資料には、その足跡が記されているのです。
しかし、それが誰なのかははっきりわかりません。
筆者・関氏は、それも、ヤマト朝廷が、分からないようにしたのだ、と考えています。
なかなか面白い視点ではないかと思います。
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