有ろうことか、文頭の、
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そのうち、対処しますので、どうぞよろしくお願いいたします」です。。
文芸春秋社刊「古代日本七不思議」に納められている、半藤一利著「飛鳥の幻をタンテイする」を読んでみました。
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(引用ここから)
曽我氏が朝鮮半島の百済系の新・渡来氏族であることは、今は定説になっている。
彼らは、百済の聖明王により持ち込まれてきた仏教を心より信じる者達であった。
文化的な程度は高く、百済から渡来した博士・工人たちの技術によって、甘樫岡を中心として、飛鳥はどんどん開拓されていった。
その象徴的な存在が石舞台である。
かつての日に石舞台古墳に静かに眠っていたと思われる蘇我馬子こそは、一門の栄華の先駆者となった人物であった。
もともと先住氏族として飛鳥の地に威勢を誇っていたのは、物部氏である。
彼ら旧貴族は古神道的な信仰、八百万の神を信じていたから、当然のように仏教信者の新貴族・曽我氏と反目し、ことごとに争った。
例えばある年の夏のこと、国内に疫病が流行して多くの人々が死んだ。
これは八百万の神が怒りたもうたためであると、反仏教派の物部氏が時の天皇に直訴。
天皇の許しを得て、仏像を池に投げ込み、お堂に火を放って炎上させる、という状況が長く続いたのである。
ついにその抗争は、蘇我馬子の時代に氏族の運命を賭しての戦争になった。
馬子軍の若き指導官に、聖徳太子がいた。
戦いは、馬子を総大将とした曽我軍の大勝で終わった。
勝った馬子は、さっそく日本改造にとりかかる。
約束通り、大いなる寺塔を建てる。
法興寺という日本最古の寺。
今の飛鳥寺跡が、それと言われている。
その伽藍配置は、朝鮮半島の清岩里寺とそっくり同じであった。
曽我氏は、仏教とともに日本に亘って来た百済系の医師士(くすし)や採薬師(くすりとり)を重く用いた。
流行り病に苦しんでいた古代日本人の心に、薬師如来信仰はいともすらりと入っていった。
更に、渡来人の物資を使って、次々と仏像を造らせた。
「日本改造」を最も強烈に実行した人が、聖徳太子である。
西暦574年生まれ。
お祖母さんは曽我稲目の娘であった。
お母さんは稲目の孫娘である。
では、曽我稲目とは何者か?
彼の母の名は「高麗」といい、祖母の名は「韓国子」といった。
百済系の渡来人であるゆえんである。
その血をひく聖徳太子は、幼名を「厩戸皇子(うまやどのみこ)」という。
曽我馬子、厩戸皇子、そして入鹿の別名が「鞍作(くらつくり)」。
こう並べてみると、なんとなく騎馬民族説が思い出されてくる。
聖徳太子は成人して、最初の妃をもらった。
馬子の娘である。
日本統一の仕事は、聖徳太子に始まる。
はじめの仕事は仏教の推奨であった。
神武天皇以来、八百万の神がみをまつり、政祭一致を伝統とする天皇家が、「拝仏」に踏み切ると宣言したのである。
太子の理想は、仏法を通して国家を統一し、文化を世界的水準に高めることにあった。
先住民族がいた上に、後に渡来してきた高句麗系、百済系、新羅系の入り乱れての勢力争い。
それら国内的政争が、それぞれの祖族や文化によるかぎり、整然たる統一は望めない。
これを統一する最短距離は、中国と直接に結ぶこと。
中国こそは、すべての系統の氏族たちの文化的母胎をなす強国ではないか。
607年、こうして最初の使者「遣隋使」が中国に渡っていった。
矢継ぎ早の政治改革。
それも曽我氏の強大な権力をバックとしているからに他ならない。
しかし、その権力はやすやすと崇峻天皇を殺害するまでに強大となった。
独裁的になりつつある曽我氏を、倒さねばならない。
太子の苦悩は深かった。
政治家としての太子は、失われていく。
事実、太子の政治改革は、摂政になってわずか15年で終わっている。
年齢でいえば35才。
49才までの後の人生は、しばしば夢殿にこもり、苦悩に沈む。
622年正月から、聖徳太子は妃と共に「いかるがの宮」で病気になったという。
その前に「世間虚仮、唯仏是誠」という言葉を残している。
古代日本人が肯定してやまない現世は、空しい、仮の姿であることを発見した太子は、仏の世界こそ真実なりと、第二の世界の扉を開いた。
病気の太子と病気の妻は、ともに沐浴して白い着物を着て寝所に入った。
釈迦仏像の銘には、太子は2月22日に亡くなったと記されている。
そして妃は、前日の21日に死んだとされている。
これをしも妙と思わぬか?
いくら身体を清め、白装束に身を固め、夫婦して一緒に寝たとて、精神力だけで前後して死ねるはずはない。
太子の死は自殺であった、と睨む。
妃も同意しての心中であった。
聖徳太子が自殺して5年後に、曽我馬子は病没。
跡は、蝦夷が継いだ。
世は曽我氏のものとなった。
飛鳥の地は、曽我天皇を中心とする新渡来人系の者たちで満ち溢れた。
寺塔も建ち、かわらが陽に光り、九輪・露盤(仏塔の最上部にある柱状の装飾と、その台)が輝き、きらきらとした仏像が古拙な微笑をうかべ、次々に作られた。
しかし、それにも関わらず、「万葉集」に曽我馬子や蘇我入鹿の歌が一首も見られない。
聖徳太子の歌も、ただの一首。
そればかりではない。
「万葉集」は、仏教信仰に関する歌を一首も詠んでいない。
初期万葉人と法隆寺とは、少なくとも同時代なのである。
飛鳥の世の最大の出来事ともいうべき、飛鳥大仏や法隆寺をまったく無視しているのである。
法隆寺とは、そして飛鳥の地とは、古代日本文化の異端の城であり、異端の広野であったという厳粛なる事実がある。
古代日本人の精神生活の基調は、国つ神信仰の古神道的なものなのである。
曽我王朝は、そうした古代日本人の精神生活を崩壊させる「異端」として、飛鳥の大地に強く根を降ろしたのである。
天の香具山を無視し、畝傍山のふもとに豪邸を造築し、寺塔を建設し、仏像を作って礼拝する。
ゾロアスター教も取り入れる。
陰陽五行説を、最先端の思想として、ハイカラな新貴族たちは大いに取り入れた。
石人猿(猿石)、亀石、鬼のまないた、酒船石など、得体の知れない石像置物が、曽我天皇の宮城に今も残る。
これらは渡来した工人の技術と、飛鳥川に豊富にある花崗岩とによるものである。
故国の石像を思って制作したものかと想像されるが、古式の万葉人には不敵不遜の行い、「異端」としか見られなかったろう。
飛鳥における仏教浸透の過程とは、曽我一族を中心とする悲惨な歴史劇なのである。
〝片手に仏典を、片手に剣を″といった感じであった。
今は静かな丘や森に囲まれた農村にすぎないが、重なり合い、ひしめきあった丘陵。
それは、壮大な死の国のイメージと重なる。
この地で、東アジアのさまざまな文化が渦巻き、溶け合い、反発し合い、殺し合った。
それが飛鳥の魅力というものである。
(引用ここまで)
写真は「聖徳太子展」カタログより
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