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アニメ感想:電脳コイル

2008年11月05日 19時55分06秒 | 2007夏アニメ
電脳コイル (1) 限定版電脳コイル (1) 限定版
価格:¥ 6,510(税込)
発売日:2007-09-25


『BSアニメ夜話』でこの作品を熱く語っているのを見て、ひとつ気付かされたことがある。アニメに限った話ではないが、人と人との繋がりを丹念に描いた作品を私は好むということだ。

SFアニメとしては『攻殻機動隊』のはるか先を行っている。どちらも電脳のある日常を描くが、子供の生活レベルまで浸透した姿は画期的だった。科学が日常に溶け込みそこから新たな文化が生まれるという形は、携帯電話を見れば明らかだろう。この作品で描かれる電脳世界は、それをただなぞるのではなく、ノスタルジックな子供たちの姿と最先端の科学との融合として描かれていて強烈なインパクトがあった。

「バラク・オバマ大統領誕生と『24』」の記事でも触れたが、イメージの喚起という意味でも細部まで非常にこだわって作られていることが分かる。メガネを通してみる世界と現実との差異。これを描くのに最も適したメディアがアニメだった。
インターネットがそうであるように、この作品で描かれる電脳空間ももはや人の力で全てを見通せる世界ではない。そうした中に生まれる異物の存在は、どんな意味を持つのか。
物語としてはそんな現代の”妖怪”を通して、それに触れてしまった子供たちの苦悩と成長が描かれる。そして、それは結局のところ他者との繋がり方に他ならない。

『BSアニメ夜話』でも取り上げられた第24話「メガネを捨てる子供たち」で、現実と仮想現実という問題に向かい合う。メガネの危険性が認知されて親たちは一斉に子供たちからメガネを取り上げる。主人公ヤサ子の母はヤサ子に向き合い、リアルの大切さを語る。その真摯さに心打たれながらも、そうじゃないという気持ちが湧き上げる仕掛けが素晴らしい。
”こころ”には現実や仮想現実といった区別はない。人と人との繋がりもそう単純に割り切れるものではないだろう。リアルと非リアルの壁はそんなに厚いものではない。仮想現実も現実の一部なのだから。

『新世紀エヴァンゲリオン』は物語性の終わりを描いた。世界に意味などなく、生きることに目的なんてないという事実を突きつけた。閉塞した世紀末、過剰な物語が価値を失った時代性が生み出した作品だった。
『高機動幻想ガンパレード・マーチ』はコミュニケーションの力によって初めて何かを変える力を得ることを、その作品の成功への道筋においても体現してみせた。ネットや携帯電話の普及により、新しい力を得たかと思われた。だが、現在までそれが何を変える力とはなりえていない。
『電脳コイル』ではそうした大きな物語は描かれていない。ただ科学によって生み出されたツールが日常レベルに普及したとき、それは人と人との繋がりを変える力を持っているという当たり前のことを描いたに過ぎない。でも、その認識こそがコミュニケーションの力と意味を再確認させてくれる。

日常の細部まで浸透した電脳空間を丹念に描いたSFとして、また少年少女のこころの動きを丁寧に描いたジュヴナイルとして、この作品は現在の到達点だと思う。SFとしての質の高さは逆に見る者を選んでしまったのは事実だ。しかし、万人に受けることが大切なのではない。これを見た者の多くに作り手の想いがちゃんと届いたことが大切なのだ。2000年代を代表するアニメと呼ぶに相応しい作品だ。


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