「後輩問題」とは、部活もののコミックで先輩や同級生の多彩振りに比べて目立った後輩が少ないことから名付けた言葉だ。特に、物語の開始時に用意するのではなく、物語の進展に伴って後輩を追加することの難しさを問題視している。
たとえば、『ドカベン』。後に明訓四天王と呼ばれる、山田・里中・岩鬼・殿馬や後に加わった同学年の微笑に比べ、後輩で目立ったのは渚ひとりくらいだった。新しいキャラクターを次々と彼らのライバルとして使う必要があったとはいえ、甲子園優勝4回を誇った明訓に新たな人材が現れなかったことは残念とも言える。
対称的な存在とも言える『キャプテン』では、墨谷二中野球部を舞台に、歴代のキャプテンに焦点を当てている。本来の主人公である谷口の卒業後、丸井、イガラシ、近藤と多彩な後輩像が描かれている。ただ、イガラシまでは初期キャラと言ってよく、近藤もジャンプコミックスセレクション版で全15巻のうち3巻で登場している。
『究極超人あ~る』では、さんごやR・田中一郎ら主人公のひとつ下の世代こそ天野小夜子ひとりのみだったが、その翌年や卒業後の後輩まで登場し後輩の数としては多彩と言えた。ただキャラクター的に鳥坂先輩に存在感で劣り(仕方ないが)、むしろ雑多になってしまった印象も残った。
これは『帯をギュッとね!』でも感じられたことで、キャラクターが増えすぎて散漫な印象を与えることもあった。
『マリア様がみてる』の場合、最初に発表された短編は祐巳二年進級時のものであり、後輩キャラである乃梨子や瞳子は初期キャラと言える。シリーズ開始後に先輩キャラがが作られるという逆転があったわけだが、その後に出て来た後輩キャラはそう多くなかった。
『げんしけん』も笹原を主人公とした第一シリーズは後輩キャラとして登場したのは荻上くらい(主人公の相手役として想定されており、後輩世代を描くという意図は感じられない)。完結後に後輩世代を描くために再スタートされたが、いったんリセットすることが必要だったのは確かだろう。
部活に関係がなく、後輩を描く必要のなかった『らき☆すた』だが、キャラクターを増やす方向性を取り、後輩世代を登場させた。散漫さはもちろん増大したが、ストーリーが必要のない作品の特性を生かした手法だったのも確かだ。
空気系の定義のひとつとして、私は時間進行があることを挙げているが、後輩世代の投入はそれをより感じさせることになる。『ひだまりスケッチ』はうまく後輩を取り入れたケースと言えるだろう。
『けいおん!』の場合、梓登場時はまだ後輩「世代」と呼べるものではなく、新キャラがひとり追加されただけという印象だったが、純ちゃんのキャラクター性が確立するにつれて、憂を加えて三人のコミュニティが確固たるものとなっていった。唯たちの卒業後を描いた『けいおん!highschool』が楽しめるものだったのもそれに依る。
「後輩問題」はこうしたキャラクター配置の問題であるとともに、もうひとつ別の側面を持っている。それは主人公と後輩たちとの関係性だ。
同級生同士の横の関係や、先輩との上の関係に比べて、下との関係を描いた作品は多くない(『帯をギュッとね!』や『おおきく振りかぶって』のように上との関係を切った作品もある。また、親や教師の登場しない、或いは登場しても上下の関係として描かれない作品も数多い。これらに対しては「学芸会」と私は称している)。
上下関係の中で、上に立つ側の理想形が日本ではあまり提示されていないせいかもしれない。リーダーシップを求めることは近年富に指摘されるが、リーダー像の具体性がないため、場当たり的で結果からのみ評価されているように感じられる。
優れた先輩や教師などを主人公の視点から配置することは可能だが、それを内面を持った主人公として描くのは難しい。
『光圀伝』では、同世代や上の世代との関わりの厚みある描写に比べ、下の世代との関わりは厚みを感じられなかった。自己を確立していく過程は濃密に描かれているだけに、それをどういう形で社会に還元していくのか。特に組織の中でそれを行うことをどう描くのか。著者も相当意識しているように感じたが、それでもその点は成功したとは言い難い。
フィクションにおける理想の教師像なども、金八先生に見られるように、どうしてもスーパーマン化してしまう。内面を描こうとしたり、教師同士の関係性まで踏み込んだ作品は苦悩する姿というパターンに陥りやすい。
『キャプテン』では各キャプテンの個性を元に、それぞれの良さや欠点をうまく描き出していた。部活ものの中では稀有な作品だと言える。
空気系で後輩世代をうまく描いている作品は、こうした上下関係への意識が希薄で、友達関係の延長のような存在となっている。体育会系でない限り、こうした意識は一般化しているのも事実だろう。
ただ「学芸会」が増えたと指摘したように、下の世代が上の世代を頼らない、或いは頼れない(頼りにならない)と意識したり、上の世代が下の世代に手を差し伸べない(能力的に、あるいはそんな余裕がない)傾向が強くなっている社会的風潮の反映と捉えることもできるだろう。
たとえば、『ドカベン』。後に明訓四天王と呼ばれる、山田・里中・岩鬼・殿馬や後に加わった同学年の微笑に比べ、後輩で目立ったのは渚ひとりくらいだった。新しいキャラクターを次々と彼らのライバルとして使う必要があったとはいえ、甲子園優勝4回を誇った明訓に新たな人材が現れなかったことは残念とも言える。
対称的な存在とも言える『キャプテン』では、墨谷二中野球部を舞台に、歴代のキャプテンに焦点を当てている。本来の主人公である谷口の卒業後、丸井、イガラシ、近藤と多彩な後輩像が描かれている。ただ、イガラシまでは初期キャラと言ってよく、近藤もジャンプコミックスセレクション版で全15巻のうち3巻で登場している。
『究極超人あ~る』では、さんごやR・田中一郎ら主人公のひとつ下の世代こそ天野小夜子ひとりのみだったが、その翌年や卒業後の後輩まで登場し後輩の数としては多彩と言えた。ただキャラクター的に鳥坂先輩に存在感で劣り(仕方ないが)、むしろ雑多になってしまった印象も残った。
これは『帯をギュッとね!』でも感じられたことで、キャラクターが増えすぎて散漫な印象を与えることもあった。
『マリア様がみてる』の場合、最初に発表された短編は祐巳二年進級時のものであり、後輩キャラである乃梨子や瞳子は初期キャラと言える。シリーズ開始後に先輩キャラがが作られるという逆転があったわけだが、その後に出て来た後輩キャラはそう多くなかった。
『げんしけん』も笹原を主人公とした第一シリーズは後輩キャラとして登場したのは荻上くらい(主人公の相手役として想定されており、後輩世代を描くという意図は感じられない)。完結後に後輩世代を描くために再スタートされたが、いったんリセットすることが必要だったのは確かだろう。
部活に関係がなく、後輩を描く必要のなかった『らき☆すた』だが、キャラクターを増やす方向性を取り、後輩世代を登場させた。散漫さはもちろん増大したが、ストーリーが必要のない作品の特性を生かした手法だったのも確かだ。
空気系の定義のひとつとして、私は時間進行があることを挙げているが、後輩世代の投入はそれをより感じさせることになる。『ひだまりスケッチ』はうまく後輩を取り入れたケースと言えるだろう。
『けいおん!』の場合、梓登場時はまだ後輩「世代」と呼べるものではなく、新キャラがひとり追加されただけという印象だったが、純ちゃんのキャラクター性が確立するにつれて、憂を加えて三人のコミュニティが確固たるものとなっていった。唯たちの卒業後を描いた『けいおん!highschool』が楽しめるものだったのもそれに依る。
「後輩問題」はこうしたキャラクター配置の問題であるとともに、もうひとつ別の側面を持っている。それは主人公と後輩たちとの関係性だ。
同級生同士の横の関係や、先輩との上の関係に比べて、下との関係を描いた作品は多くない(『帯をギュッとね!』や『おおきく振りかぶって』のように上との関係を切った作品もある。また、親や教師の登場しない、或いは登場しても上下の関係として描かれない作品も数多い。これらに対しては「学芸会」と私は称している)。
上下関係の中で、上に立つ側の理想形が日本ではあまり提示されていないせいかもしれない。リーダーシップを求めることは近年富に指摘されるが、リーダー像の具体性がないため、場当たり的で結果からのみ評価されているように感じられる。
優れた先輩や教師などを主人公の視点から配置することは可能だが、それを内面を持った主人公として描くのは難しい。
『光圀伝』では、同世代や上の世代との関わりの厚みある描写に比べ、下の世代との関わりは厚みを感じられなかった。自己を確立していく過程は濃密に描かれているだけに、それをどういう形で社会に還元していくのか。特に組織の中でそれを行うことをどう描くのか。著者も相当意識しているように感じたが、それでもその点は成功したとは言い難い。
フィクションにおける理想の教師像なども、金八先生に見られるように、どうしてもスーパーマン化してしまう。内面を描こうとしたり、教師同士の関係性まで踏み込んだ作品は苦悩する姿というパターンに陥りやすい。
『キャプテン』では各キャプテンの個性を元に、それぞれの良さや欠点をうまく描き出していた。部活ものの中では稀有な作品だと言える。
空気系で後輩世代をうまく描いている作品は、こうした上下関係への意識が希薄で、友達関係の延長のような存在となっている。体育会系でない限り、こうした意識は一般化しているのも事実だろう。
ただ「学芸会」が増えたと指摘したように、下の世代が上の世代を頼らない、或いは頼れない(頼りにならない)と意識したり、上の世代が下の世代に手を差し伸べない(能力的に、あるいはそんな余裕がない)傾向が強くなっている社会的風潮の反映と捉えることもできるだろう。
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