奇想庵@goo

Sports, Games, News and Entertainments

「大相撲」とは何か?

2007年09月03日 18時00分02秒 | スポーツ
マスコミの朝青龍バッシングには辟易している。彼のこれまでの行いに問題があったのも事実だし、今回のサッカーに関しても軽率だったのは間違いない。これに対し、相撲協会から厳しい処分を受けた。しかし、なおもマスコミは彼を叩き続けている。
犯罪を犯したわけでもない一個人をここまで執拗に叩き続ける様は「いじめ」というより「狂気」に近い。ネット上では、こうした気違いじみた行為はよく見かけられるが、マスコミのこの姿は日本人の心性の暗黒面を表出しているようで本当に見るのが嫌になってしまう。横綱に品格を問う前に、己の品性をもう少し省みられないものか。

こうしたマスコミは結局のところ一般大衆の欲望に迎合して行動しているとも考えられ、繰り返すがこれはマスコミだけの問題ではなく、やはり日本社会の深層に根差したものだろう。この報道ぶりを日本に暮らす外国人はどう見ているか、その視点さえ今は語られることが非常に少ない。

ただこのようなマスコミの姿は今に始まったことではない。日本社会のあり様に既に絶望しているので、これに関して論じても意味がない。

今回取り上げたいのは、「大相撲」とは何か?である。現状の大相撲は国技とされ、日本伝統の、神事に根差すものとされる。一方で、競技であり、国際化する中でスポーツとして見られることもある。
大相撲が単なるスポーツであれば、横綱に品格など求めないし、朝青龍の今回のようなトラブルもさして大きく取り上げられることもなかっただろう。しかし、スポーツでないのであれば、本当に外国人力士という存在が必要なのか疑問に思う。
そもそも伝統や神事といったものは、技術的なものはともかく、その精神的な面を理解するのは非常に困難だ。特にそれが明文化されていないものなら尚更だ。
例えば、今回の騒動でも、「常識」という言葉が様々な場面で使われている。しかし、その「常識」のほぼ全てが現代の日本の常識に過ぎない。「常識」は時代により変わるし、場所によっても変わる。この言葉を使う大部分の者はそれを理解していない。世界共通の「常識」なんてありえないと言っていいほどなのに、それが理解できない。朝青龍の「常識」のなさを叩く人は、自身の「常識」のなさを晒しているに過ぎない。
日本で無く海外で育った外国人を入れるということは、明文化されない様々な「常識」をいかに共有していくかという難題と向かい合うことだ。高見山の時代など外国人力士が少数の時は、彼等に「常識」を押し付けているだけで済んだ。だが、外国人力士が増えれば、そうした押し付けでは成り立たなくなっていく。彼らにも彼らなりの「常識」が存在している。大相撲の理念を教えつつ、彼らの「常識」も取り込んで融合させていかなければこうしたトラブルはなくならないし、互いの不信感も募ってくるだろう。
大相撲の伝統を守りたいというのなら、外国人力士を受け入れるのをやめればいい。日本人だけで細々とやっていけば済む話だ。外国人力士を受け入れるのならば、お互いの「常識」をすり合わせていくコミュニケーション無しにはこんな事例を繰り返すだけだろう。そして、これは単に大相撲だけの問題ではなく、外国人労働者受け入れといった課題を抱える日本社会全体の問題として考える必要のあるテーマだ。

大相撲の側面としてもう一つ、興行としての面がある。朝青龍問題はイメージダウンでもあるが、一方でこれだけ連日取り上げられて大相撲協会も宣伝効果としてはかなり喜んでいるかもしれない。これで朝青龍が土俵に戻ってくれば注目度はかなり高まるだろう。だが、現実にはそう筋書き通りになるかどうか微妙なところだ。
これで朝青龍が引退すれば、将来への負の遺産がかなり協会を圧迫するだろう。現在外国人力士の受け入れはストップしている状態だが、受け入れる側も成り手の側も今後は簡単にできなくなりそうだ。つまり、10年もすれば外国人力士はほとんどいなくなるのではないか。それで果たしてファンを満足させられるのか大いに疑問だが。また、現在いる外国人力士にとっても今回の騒動はかなり悪い印象を与えるものとなっただろう。朝青龍は横綱と言ってもまだ20代で間違ったり失敗したりすることはある。それを指導できず、外から叩かれてもかばうこともしない協会のあり方は他の力士の目にどう映ったか。外国人力士の中に早々に見切りをつけて他の格闘技へ移る者が現れないか心配だ。