抜け道階段の上部から延びる道を直進し、最初の交差点を左折し、北側にしばらく歩くと、大きな通りがカーブするところにでる。
品川駅前の第1京浜から台地に上る広い通りで、ここが柘榴(ざくろ)坂の坂上である。別名、新坂。
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)の高輪辺絵図に、袖ヶ浦から西に上り、右にいったん折れてからふたたび西に上る無名の坂が見える。明治になって真っ直ぐな坂になってから新坂と呼ばれた。
この辺り一帯と南側が旧高輪南町で、地図を見ると、この地名がついたビルやマンションがある。坂の北側には薩摩藩の高輪屋敷があったとのこと。
永井荷風「断腸亭日乗」大正8年9月27日「秋晴の空雲翳なし。高輪南町に手頃の売家ありと聞き、徃きて見る。楽天居の門外を過ぎたれば契濶を陳べむと立寄りしが、主人は不在なり。猿町より二本榎を歩みて帰る。」
荷風が麻布市兵衛町の偏奇館に移居する前のことである(前の記事参照)。この売家を選ばなかった理由は「日乗」に書かれていない。楽天居とは巌谷小波(いわやさざなみ)宅で坂上西側にあった。猿町とは坂上を北側に進む道の西側一帯にあった白金猿町と思われる。この道を直進すると、二本榎の通りに至る。
柘榴坂の坂上から北側に荷風が通ったと思われる道をしばらく歩く。ここは大きなホテルや議員宿舎などがあり大きな通りになっている。
やがて高輪警察署の手前の高野山東京別院についたので中に入ってみるが特に見るべきものもなさそうなので、すぐに左手の出口からでる。
このでた所の通りが桂坂である。右折し坂を下る。
少し歩き信号を渡ると、すぐ右側に下る階段がある。この階段から東禅寺に至る道が続いていると思って下る。
ここも、松本泰生「東京の階段」に紹介されていた階段であった。高輪・東禅寺裏の階段とある。
桂坂側からいえば、東禅寺に続く階段である。
同書でこの階段の存在は知っていたが、位置がはっきりとわからなかったので、この階段を目にしたとき直感的にここだと思ったがその通りだった。
階段下を左に曲がると、人家が続いており、道が上下し、小さな住宅街となっている。都会の隠れ家的な雰囲気がするところである。
道なりに進むと、人家も少なくなり、下り坂となって、東禅寺の裏手のためか樹木が多く鬱蒼とし、塀が続く薄暗い道となる。ここが都会の中かと思われるほどである。
坂下の交差点に至ると、左手に暗い道が続いていたので、進むと、東禅寺の境内にはいる。
右に曲がると水の音がするので、音のする方に近づくと、管の先から水が流れ出ている。湧水と思われるがどうなのであろうか。
ここは台地の下であるから湧水があっても不思議ではないが、自然水のガイド本にここはのっていないようである。
今回は行けなかったが、地図をみると、お寺の裏側に池があるようである。湧水が水源であろうか。
山門から出ると、そこに「都旧跡 最初のイギリス公使宿館跡」と刻んだ石柱が建っている。
東禅寺は、幕末に初代英国公使オールコックの宿舎としたところである。
東禅寺では、幕末の文久2年(1861)5月に水戸藩脱藩の攘夷派浪士がイギリス公使オールコックらを襲撃し館員が負傷した第1次東禅寺事件がおき、次の年、東禅寺警備の松本藩士がイギリス水兵2人を斬殺した第2次東禅寺事件がおきた。幕末動乱の歴史の一舞台となった所である。
東禅寺山門から第1京浜に向けて緩やかな下り坂になっているが、むかしはその先に江戸湾が見えたという。
(続く)
参考文献
岡崎清記「今昔東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「明治大正東京散歩」(人文社)