東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

新道坂(中目黒)

2013年03月21日 | 坂道

新道坂(駒沢通り)上 新道坂(駒沢通り)上 新道坂(駒沢通り)下 新道坂(駒沢通り)下の道 前回の目切坂上を左折し旧山手通りの歩道に出て、ここを右折する。この先が旧山手通りの終点(始点)の鎗ヶ崎の交差点で、その左右に駒沢通りが延びている。歩道を道なりに歩き、大きく曲がりながら進むと、駒沢通りの歩道となるが、このあたりが坂上で、一枚目の写真のように、緩やかに下っている(現代地図)。

このちょっと坂下側に、二枚目の写真のように金属製の大きめの坂の標識が立っていて、これに新道坂とある。

この歩道を下り、坂下側から坂上を撮ったのが三枚目で、緩やかに上っている。その近くに歩道から下に降りる階段があったので、下りてみると、ガード下に道が続いている。東西に延びる道で、その東側からガード下を撮ったのが四枚目で、ガードの側面に新道坂橋と表示がある。

新道坂下 新道坂下 新道坂下 新道坂下 上四枚目のガード下をくぐり抜けて西へ進むと、まもなく四差路で、ここを右折すると、上り坂となる(現代地図)。ここを直進すると、東横線のガード下を通って前回の目切坂下方面に至り、左折すると、目黒川にかかる橋を通って、中目黒駅方面である。

一枚目の写真は坂下から坂上側を撮ったもので、緩やかに上っている。二、三枚目はそのちょっと上から坂上側を撮ったもので、左側上に東横線が通っていて、右側上は先ほどの駒沢通りである。四枚目はそのあたりから坂下を撮ったもので、坂下の四差路を左折すると、先ほど階段を下ったガード下である。

この坂は駒沢通りの西脇と東横線の間で東北へと上る脇道であるが、新道坂とは、この線路沿いの脇道の坂をいうのか、駒沢通りの坂をいうのか、説が分かれているようである。

横関によれば、新道坂は、明治以後にできた坂で、この線路沿いの道をいうとしている。駒沢通りの坂を新道坂とするのは誤りで、昭和八年ころの東京地形社発行の「目黒区詳細図」には、位置と道筋がはっきりと示されているとする。手元にある「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)も「地形社編」であり、これにも東横線の線路に沿いの道に新道坂とある。

駒沢通りとは、昔からの世田谷道で、この坂は大きな古い坂でありながら不思議なことに坂の名が残っていないとしている。世田谷道は、近江屋板江戸切絵図 渋谷・宮益・金王辺図(嘉永四年(1851))にある古い鎌倉街道で、渋谷の金王八幡前の街道に続き、八幡通りともいわれた。

岡崎は横関と同じであるが、石川は駒沢通りの坂としている。目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」は駒沢通りの坂としてコースを紹介している。山野は、駒沢通りの坂とするが、線路沿いの脇道を旧新道坂とし、いわば折衷説である。

世田谷道は古道で、新道ではなく、部分的にでも新たな道が開かれたのでなければ、古道の坂名にそぐわないように思われ、横関説のとおり、新道坂というのは、文字通り新たな道にできた坂で、明治以降に世田谷道の脇から目黒川方面へ下るように新たに開かれた坂道と考える方が自然のような気がする。

新道坂中腹 新道坂中腹 新道坂中腹 新道坂中腹 一枚目の写真は、坂下からちょっと上ってから坂上側を撮ったもので、この上で左にかくっと曲がっている。二枚目は、その曲がりの上から坂上側を撮ったもので、この上でも右にかくっと曲がっている。三枚目はそのあたりの歩道から坂下側を撮ったもので、東横線が見え、西日でまぶしい。四枚目は、上側の曲がりのあたりから坂上側を撮ったもので、まっすぐに東北へ上っている。これらの写真のあたりで勾配がちょっとあるが、中程度といったところ。

目黒区発行の「坂道ウォーキングのすすめ」に新道坂の全長、高低差、平均斜度がのっている。これはこの線路沿いの脇道の坂ではなく、駒沢通りの坂のデータと思われるが、参考のために記すと、257m、6.5m、2.68で、かなり長く緩やかである。

横関は、都内のもう一つの新道坂を紹介しているが、それは、文京区西片二丁目14番と白山一丁目24番の間の胸突坂である(以前の記事参照)。この坂は比較的短く、全体が新しく開かれた道である。

新道坂上 新道坂上 新道坂上 新道坂上 一枚目の写真は、坂上近くを撮ったもので、右のフェンスの向こうが駒沢通りの歩道である。二枚目は、そのあたりから坂下を撮ったもので、右に東横線の線路が見える。三枚目はその歩道側から坂下側を撮ったもので、坂の向こうに中目黒駅のホームの端が見えるようで、その線路の右上は、逆光で見えにくいが、目切坂から続く山の中腹のようである。

四枚目は坂上を撮ったもので、駒沢通りとその歩道が見え、この坂道は、駒沢通りのわきにできた道であることがわかる。

上記の標識の説明は次のとおりである(写真から読み取ろうとしたが、不十分であったので「東京23区の坂道」から引用させていただいた)。

「坂名は別所坂と目切坂の間に新しく開かれたため新道坂と呼ぶようになった。坂上の左右に見えるコンクリートのようへきは三田用水のなごりである。三田用水は寛文四年(1664年)芝白金御殿の池水を引くために玉川上水の分水路としてつくられこの尾根を通って三田芝方面に流れていた。人々は農業、工業、雑用水として利用したが、昭和五十年にその流れを止め、約三百年にわたる歴史を閉じた。線路ぎわの狭い坂が旧道である。」

標識によれば、別所坂と目切坂の間に新しく開かれたため新道坂と呼ばれるようになったとあり、いまの駒沢通りの坂が新道坂で、線路沿いの坂が旧道であるということであるが、前半と後半の説明がどうもよく結びつかない。この坂がいずれであっても、別所坂よりも目切坂よりも新しいことになるが、そうすると、古道の世田谷道にあった無名の坂はどうなるのだろうか。
(続く)

参考文献
横関英一「江戸の坂 東京の坂(全)」(ちくま学芸文庫)
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
岡崎清記「今昔 東京の坂」(日本交通公社)
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
「嘉永・慶応 江戸切絵図(尾張屋清七板)」(人文社)
市古夏生 鈴木健一 編「江戸切絵図集 新訂 江戸名所図会 別巻1」(ちくま学芸文庫)
デジタル古地図シリーズ第一集【復刻】江戸切絵図(人文社)
デジタル古地図シリーズ第二集【復刻】三都 江戸・京・大坂(人文社)
「古地図・現代図で歩く昭和三十年代東京散歩」(人文社)
「江戸から東京へ 明治の東京」(人文社)
「東京人 特集 東京は坂の町」④april 2007 no.238(都市出版)
「東京人 特集 東京地形散歩」⑧august 2012 no.314(都市出版)
「昭和十六年大東京三十五区内目黒区詳細図」(人文社)

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