東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

升田幸三

2010年01月19日 | 将棋

世田谷区北烏山の常栄寺に将棋名人の升田幸三のお墓を訪ねてきました。

午後井の頭線久我山駅下車。南口から出ると、すぐ前に神田川が流れている。信号を渡り、商店街を南に進むと、まもなく、玉川上水の岩崎橋。これを渡り、さらに行くと、途中、右側に細い道があったので、歩いてみる。散歩道によさそうであるが、左側は倒木などもあって、ちょっとあれた感じがするところもある。

引き返し、さらに行き、右折して進むと、左手に畑が広がっている。田舎生まれのわたしには懐かしい風景である。さらに進んで、寺院通りを左折すると、まもなく、常栄寺である。門に、浄土真宗本願寺派 常栄寺とある。中に入ると、意外に広く一瞬どうやって探そうかと迷うが、墓地の奥に進み、端から探し始める。4~6往復程度で見つかる。

駒形をした墓碑に「新手一生」と刻まれている。右側に、「升田幸三 名人に香車を引いた男」と題する、升田の経歴を記した石碑が建っている。大正7年(1918)3月広島県生まれ。わたしの亡父と同年同月生まれである。そんなこともあっておもわず合掌する。

昭和27年(1952)、時の名人木村義雄と第1期王将戦で七番勝負を戦い、4勝1敗とし、次の対局が香落ちとなり、名人に香車を引く対局が実現したが、対局拒否事件を起こし不戦敗となった。これが有名な陣屋事件である。次に、昭和30年(1955)、第5期王将戦で弟弟子の大山名人と王将戦を戦い、3連勝し、名人を香落ちに指し込み、これも勝ち、「名人に香車を引いて勝つ」を実現した(Wikipedia)。昭和32年(1957)第16期名人戦で大山から名人位を奪取し、九段戦(竜王戦の前身)でも大山に勝っており、史上初の三冠を達成した。

柳田國男写真集(岩崎美術社)という写真集がある。以前、古本屋の閉店セールで買ったものだが、それを眺めていると、たくさんの文人連中が料亭に集まって歓談している写真に、一人異体な様子のひげの男が写っていた。よく見ると、升田幸三であった。写真の註に、「神戸新聞社・随想同人懇親会 福吉町あかはねにて 志賀直哉、長谷川如是閑、梅原龍三郎、辰野隆、升田幸三、網野菊らが同席(昭和33年2月4日)」とある。三冠を達成して得意の絶頂の時であったのだろう、将棋と全く関係のない連中と楽しそうな雰囲気である。

升田幸三と大山康晴は大阪の木見一門の兄弟弟子であるが、終生のライバル同士でもあった。升田は強いときは抜群であったが、持続力は大山の方が上手で、タイトル獲得数もかなり上回っている。升田は平成3年(1991)4月に73才で亡くなり、追うようにして大山も次の年7月に69才で亡くなっている。

わたしはへぼだが長年の将棋ファンである。むかしからテレビ将棋をよく見ていた。升田のテレビ将棋の解説は聞いたことがなかったが、大山のはユニークであった。棋士の表情や姿勢などをみて、○○さん苦しそうですね、などという解説をよくしていた。盤面以外でもそういうところで相手をよく観察していたのであろう。

いまから25年ほど前、わたしは山口宇部空港で升田幸三を見かけたことがある。空港発のバスに乗り、最前列の席に座って出発を待っていると、バス停にひげの老人が立っていたが、それが升田だった。だれかを待っていたような感じで、杖を突いてじっとしていた。ただそれだけのことだが、記憶に残っているので、ここに記した次第である。

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