東大阪でそろばん教室を運営しているの先生のブログ 関西珠算瓢箪山教場・石切教場

子供たちから教えられたこと、感じたことを想いのままに綴ります。

2015年、1年間の指導を通して感じたこと~学習編~

2015-12-31 10:17:31 | 学習・塾に関する中身
 子供たちの能力に大きな変化はありません。しかしながら今年1年間で感じたこと。それは残念ながら「中学校の先生に、先生としての能力の低い先生が増えている」ということです。批判を承知で今回は書きたいと思います。ただし、先生方の中には敬服する、私なんかが絶対に太刀打ちできないくらい素晴らしい先生もおられることは、最初に断っておきます。

 まず、「自分の担当教科の知識がよろしくない」

 私はそろばんの先生を主としていますが、中学・高校理科専修免許(大学院卒の免許)を所持しています。だからというわけではないですが、こと理科の指導に関してはちょっとばかり自信があります。もともと理科・社会が大好きで、国語は得意、数学はそろばんのおかげで高校卒業(文系)レベルまで特に苦労は感じませんでした。英語だけは信じられないくらい悪かったですが…。

 で、特に試験問題がひどいわけです。「教科書にはこう書いてあるから×」「授業中にこう指導したから×」と、自分の指導と教科書がごちゃまぜなわけです。教科書どおりにいけば、先生の模範解答は×。先生の指導通りにいけば教科書にはうそが書いてあることになる。その自己矛盾に指摘されるまで気が付いていないわけです。そして指摘されたときに生徒に反した答えには唖然としました。「そんなん入試にはでえへんわ!」。

 
入試に出なかったら、どう教えてもええんかい!



 子供を導く「自分の教師としてのビジョン」がない

 昨日叱ったことで、今日は叱らず、昨日叱らなかったことで、今日は叱る。叱った後「じゃあどうすればいいんですか?」「自分で考えろ!」と、生徒が訪ねたことに逆切れで返す…。
 生徒たちに「こうなってほしいから、このように叱りました」ときちんと自分の指導のビジョンを、保護者に語れるんでしょうか?甚だ疑問です。

 
いきあたりばったりで考えるな!いつも目の前の生徒のことを真剣に想え!


 生徒と保護者の前で態度が違いすぎる

 これ、一番あかんやつです。子供たちは教師のことを怖いくらい見ています。あきらかに態度や言っていることが違うと、途端に生徒たちは教師を信用しなくなります。さっきの中身とダブりますが、自分の指導している中身・ビジョンに自信があれば、言葉遣いを除けば、態度や言動を変える必要はないはずです。

 
保護者に見られて困ることは、生徒にもしたらあかん!


 というわけで、私はこうした指摘をされないように、子供たちに信用してもらえる先生でいるために、肝に銘じて来年も頑張ります。
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2015年、1年間の指導を通して感じたこと~珠算編~

2015-12-31 09:56:08 | そろばんに関する中身
 当教場は、今年の12月1日で創立15周年を迎え16年目に突入しました。ご支持いただきました保護者の皆様、そして私の教室と私にご支持いただきましたすべての皆様に深く御礼申し上げます。

 と去年に書きましたが、1年間違っていました。今年の12月1日で満15年でした…。

 さて、今年は日商検定1級合格者が10名誕生し、1級合格者の累計が30名を突破しました。暗算1級もまた30名を突破しました。15年で30名ですから、年間平均で2名は合格者が出ていることになります。ひとえに生徒のみなさんの頑張りの賜物だと思います。

 指導をしていて感じるのは「合格したい!」と思わせることの大切さです。「合格したい!」と思えば思うほど、練習量が増えていき、合格に確実に近づいていきます。つまり、合格に必要な技術的な指導が終われば、あとはいかに生徒たちに発奮させることができるのか? で、ある程度合格・不合格は形作られると感じたといくことです。

 実際に「そろばんも勉強もめんどくさい」と公言してはばからなかった生徒の中に、何人も普段の宿題にまじめに取り組むように変わっていったものがいます。こうした生徒は確実にステージアップしました。生活習慣・学力が格段に改善されましたし、なにより顔つきが少し変わりました。

 一方で、自分の未熟さを痛感する生徒もいます。1年間かけてもなにも変化をしてもらえなかった生徒もまたいるということです。折に触れて努力の大切さ、努力する先にあるものを、私の実体験や、共に頑張るメンバーの変化を交えて語りかけるのですが、全く響かない生徒もいます。

 この違いはなんなのか? ある程度自分の中にいくつか結論は出ていますが、私の努力では届かないものがひとつあります。それは、「家庭での会話」です。今年もたくさんの保護者の皆様方と懇談をさせていただきました。そしてこれまでの経験とでたどり着いた結論の一つが

家庭での会話の回数と、学力の高さには相関関係がある


ということです。明らかに学力が高い生徒であっても「会話の時間が長い」わけでは必ずしもありません。でも必ず毎日ほんの数秒でも言葉を交わしているんですね。「今日はどうやった?」とか「寒なったから、あったかくして寝なさいね」とか。ほんの一言のこえかけがあるわけです。

 子供たちは「あ~見てくれてる」と感じているんでしょうね。こうした結論は去年くらいから自分の中にありました。だから私は第二の保護者になったつもりで「ほめること」を重視した1年でした。そして、今年伸びた生徒はほんの少しでも努力を始めてくれたので「褒める」ことができました。褒められてまた少し頑張って、さらに「褒め」て、またうれしくて頑張って…という正の好循環が生まれたと感じます。自分の考えに対して、反応をしてくれた生徒がたくさんいました。

 では伸びない生徒はと考えたときに、とにかく褒める要素がないんですね。つきつめると「行動にメリハリがない」んですね。行かされてるから来てるという状態になっているように思います。

 来年こそは、もっともっといいところを見つけてほめることができるように、さらに自分自身を変えていこうと思います。来年の年末には、すべての生徒が変わり始めましたよ、と言えるようになりたいと思います。
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ダメなものは大人でも子供でも「ダメ」

2015-12-26 13:20:20 | 日記
 福岡県久留米市教育委員会は25日、市立26校の教職員103人が、通達で禁止している校内での喫煙をしていたと発表した。10月に市立北野中学校で教員の校内喫煙によるぼやが起き、実態調査していた。市教委は監督責任がある校長と合わせて119人を訓告などの処分にした。(毎日新聞)

 え~と、情けないですね。「禁止」しているんですよ。子供たちが隠れてスマホを持ってくるのと同じレベルの話です。最近子供たちと関わる先生方の中には、本当に耳目を疑う言動が入ってきます。

 席替え指導で「頭の悪い奴、友達のおらんやつなんとかしたれ」
 3年生の引退試合の後。3年生に声をかけずに解散させる顧問
 進路指導で「お前はあほやねんから、○○高校しか無理、しょうもないこと考えんでええねん」
 テスト問題に明らかなミスがあっても「そんなん入試にはでえへん」

 などなど…。本当にこちらが嫌になってくることがたくさんあります。

 自分のミスや悪い部分は一切認めずに、子供たちのダメな部分だけは徹底的に攻撃する、教育者としての資質が全くない先生が少なからずいるわけです。上記の校内喫煙も「勝手に上が決めたことやろ」と喫煙を容認していた管理職もいるようです。

 じゃあ、校則も「学校が勝手に決めたことやろ」で子供たちが無視してもいいということですよね。

 われわれの社会は、規則を守ることで成り立っているはずです。個人が勝手な思いで振る舞うことを認めているわけではありません。自由というのは規則を守ったうえで成立するはずです。学校と言う場所は子供たちが最初に規則と出会う場所です。規則を守りながら、規則の範囲で行動し、その中から自分にとっての「自由」を見出す場所でなければいけません。

 子供たちを指導する先生が、率先してルールを破ってどうするんや! という想いでいっぱいです。

 私はダメなものはダメ!という姿勢を崩す気はありません。自分がミスをすればきちんと認めて謝ります。自分が信用できなかった教師になるつもりはありません。これからも「ダメなものはダメ!」ときちんと筋を通せる指導者であり、大人であり続けようと思います。
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責任は誰が取るべきか?

2015-12-25 09:57:43 | 日記
 最近のニュースでこういうものがありました。

 学校の校庭でサッカーボールを蹴って遊んでいたら、サッカーボールが校庭外へ飛び出してしまい、偶然バイクで通りかかったお年寄りがよけきれず転倒。それが原因で認知症を発症し、お亡くなりになりました。

 この件に関して、親の責任を問う民事訴訟があり、一審・二審はともに親に一定の責任を認めましたが、最高裁は「社会通念上、常識的な躾が行われており、このことが原因で人命を奪う事態が発生すると予見することは著しく困難であり、保護者の責任は問えない」として、保護者の責任を否定する判決が出されました。

 この判決はすこぶる納得いくものです。ところが、人命が奪われ原因もはっきりしているのに誰も責任を問われない(問うことができない)のです。遺族の方々の心情を考えると、納得はできるのですが釈然としません。

 いろいろな記事を見ると「運転するということは、常に危険のリスクを負う。今回のような事態を想定して走り、とっさの場合は停止しよけることができる能力がない者が、そもそもバイクに乗るべきではない」という意見が多かったようです。

 でも、こうした事故に遭遇することは誰でもあるのです。誰も法に違反せず、だれにも落ち度がないにも関わらず、偶然が重なっただけで命を落としてしまった現実がそこにあります。このような時に救済してくれるのが、本来は国ではないのでしょうか?。犯罪被害者の救済制度(通り魔に襲われたような場合)は一応あるようですが、それでも大したものではありません。法を守り、道徳を守り、至極真っ当に生きてきたのに、不幸な偶然で命を落とした方に対して国は何もしてくれません。そして裁判所は誰も責任を取らなくていいと判決を出しました。理屈は分かります。でもやりきれない想いがあるのは私だけでしょうか?

 そういえば、国会議員を除名した方がいました。申し訳ないとは頭を下げておられましたが、選挙当時「こういう感覚の持ち主が必要です!」と威勢よく持ち上げていたのはあなたではないですか?。あなたは任命責任は取らないのですか?
 教育改革を断行していただくのは構いません。でも現場の先生方は振り回され、子供たちは毎年のように変わるルールに四苦八苦しています。教育改革は、ほかの政治課題のように失敗したら辞任して済む問題ではありません。失敗のツケはその教育を受けたすべての子供たちの一生を左右します。教育の失敗は責任の取りようがないんです。性急にことを急ぐのではなく、事実と論を積み上げて、今までの教育を検証して、少しずつ悪い部分を手直ししていく。これが理想だと思います。

 取ることのできない責任があります。今回の事故の責任は誰も取らないことになりました。これには書いた通り釈然とはしませんが納得は行きます。しかしながら、自分が推薦した議員さんの不始末を、その当人をバッサリ切ってごめんなさいするだけで、責任を取らないリーダーが、もし教育改革が失敗であったとき「私のせいではない、現場の力量が低かったのだ。私の改革の考えは正しかった」と自分を正当化するだけになるんだろうな。責任を取る姿が想像できないんです。

 昔、大津のいじめ自殺事件の時にも書きましたが「上に立つ者の仕事は責任を取ること」だと思います。責任を取る気がない人には、上に立ってほしくないなあと考えさせられた事件でした。
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教師を目指したきっかけ~再掲部分を含みます~

2015-12-24 23:06:52 | 日記
 私が教師を目指すにあたって、大恩人に4人出会いました。まず、そろばんの師匠です。今も現役で指導されています。この先生に出会っていなければ、今の私はありません。
 次に中学2年生の担任の先生です。いじめにあって心折れそうなわたしを救ってくれました。毎日声をかけ、お話を聞いてくれて…。今は某高校の校長先生をされています。
 最後に大学の指導教官です。この先生には「文を論理的に書くこと」を徹底的に仕込まれました。「が」と「は」の違いで1時間やりあう。そんな指導を受けました。

 そして、この3人の先生以外にも、人生の節目節目にたくさんの恩師に出会いました。そして私が「恩師」と感じる先生は皆、勉強以外の部分をとても大事にした方々でした。ただ「学ばせる」だけではなく、その裏にあることを見越した指導をされ、そして「学びたくなる」ように持って行ってくださったように思います。
 「わからない」ときは「わかるまで教える」のではなく「分かるまで学びたいと思わせ」たり、「この先生に聞けば分かるまで教えてくれるだろうと思わせ」たりしてくださった気がします。

 さて、大恩人の4人目は高校時代数学を教えていただいた先生です。今までで一番印象に残っている授業が、式の展開の授業で「先生なんで3行目の式から4行目の式になるのかが分かりません」と聞いたところ、5秒ほど考えた後で、「なるほど!」と大きな声でひとり呟いた後、すべての式を一度消して、式の展開を書き直しました。「森本、これで分かるか?」。「はい、わかりました」。普通のやりとりですが、この後の一言が私を決定的に教師へと向かわせました。
 「いままで、この正解率が良くないと思ってたんや。なんでわからないのかが、今の質問のおかげでわかった。ありがとう!」。教育実習で自分の母校に帰ったとき、数学の先生はまだその高校におられたので、お話をさせていただきました。「森本君も教師になるなら『なんでこんなんわからんねん』と生徒に対して思ったらいかんぞ。『どう説明したら分かるやろ?』と思うことを忘れたらいかんぞ」というものでした。

 私が塾講師のバイトを始めたのが今から17年前。その時は1クラス6名までの少人数指導をウリにしていた学習塾にお世話になりました。隣の教室で淡々と授業をする先輩講師がいました。京大に在学中のその先輩講師は、よく言えば「効率よく」悪く言えば「ドライに」指導されていました。そのときに聞こえてきたのが「こんなことも分からんの」という言葉でした。
 私だって、教育大学で修士免許を取り、1年とはいえ学校現場で教えた経験のある教師のはしくれでした。心の中では「それは言っちゃあいかんやろ!」と思いながらも、直接は口に出さずにもやもやした気持ちになりました。

 この大恩人であり、大恩師でもある数学の先生の言葉が浮かんできたんですね。塾講師の時に。自分の目の前の生徒には、途中の式をきちんと書いたり、手元や顔をみながら不安そうな顔をしているときは、もう一度説明しなおしたりしていました。

 そして、その後、隣の講師の授業を受けていた女生徒からこんな依頼が塾に来たそうです。「森本先生、隣で授業している女子生徒が、あなたに個別授業をしてほしいと依頼があったんやけど、受けてもらえますか?」と。私は「とりあえずお会いしてお話聞きます」とお返事しました。
 さて数日後、面談した結果女子生徒の希望がわかりました。「いつも隣の教室からは笑い声が聞こえる」「質問がすごくしやすそう」「隣の後輩が、勉強が面白くなってきたと言っている」「私は布施高校に行きたいけど、今の成績では絶対に届かない」
 その当時私が受け持っていたのは中2、その女子生徒は中3しかも10月頃のことでした。特に数学がひどく、夏休みの模擬試験の偏差値は41.これは厳しいと思いましたが、親御さんにも正直に伝えました。
「勉強を苦痛に感じないように教えるのは希望の進路を考えると厳しい。しかし、勉強を苦行にしないで指導する自信はある。そして頑張ってついてきてもらっても、布施高校の受験レベルに届くように指導する自信はないが、いまよりも成績を上げる自信は間違いなくある」と。
 その女子生徒は私の目を見て「お願いします」と言いました。それからは根競べです。中1の中身まで戻って徹底的にやり直しました。宿題の量も半端ではありませんでしたが、彼女は黙々とこなしました。冬休みは毎日10時間以上勉強してくれたんです。
 おかげで、学年末試験は5教科で400点オーバー(私に変わる直前の定期考査は確か300点なかったと思います)。そして冬休みの模擬試験の数学の偏差値は51まであがりました。
 内申が若干不足していましたが、彼女は布施高校を受けました。頑なに曲げないので「なぜ?」と聞くと「大好きな先輩がいるから!」なるほど!。恋の力はすごいですね。結果はみごとに合格!。合格報告に気てくれたときは一緒に泣きました。

 さらに5月頃、教室を訪ねてきてくれたときには、横に男子生徒がいます。「告白してOKもらいました!」。ですと。そして少しお話したんですが、「先生に授業してもらってよかったと思います。今でもわからないままにすることは気持ち悪いです。わかるまで教えてもらったり、質問したりすることは悪いことではないとわかって良かったと思います。」

 私がそろばんでも塾指導でも、いつも心においていること。それは「そんなこともわからんのか!と言った時は先生を辞める時」ということです。頭のよすぎる人にはこの気持ちわからないと思います。だからこそ、そこそこ頭が悪くて、人生のどこかで一念発起して勉強した人。こういう人にこそ教師になってほしいと思います。
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