東大阪でそろばん教室を運営しているの先生のブログ 関西珠算瓢箪山教場・石切教場

子供たちから教えられたこと、感じたことを想いのままに綴ります。

スイッチ

2022-05-29 01:21:07 | 日記
 子供たちの様々な「スイッチ」。探しても見つからないこともあれば、見つけても押すタイミングを思案することもあります。

 最近感じるのは、とてもスイッチを見つけにくい子供たちが増えてきたなあということです。もっと言えば、スイッチを探す過程において、「探しすぎる」と、押す前に完全に隠れてしまったり、場合によっては壊れそうになったりすることも。そんなふうに感じることが増えてきたのです。

 押し引きのタイミングだけでは語れない弱さというか脆さというか。そういうものを感じずにいることができません。

 私自身は大変に暑苦しい先生だと思います。こちらから諦める・見捨てると言うことを選択肢に考えたことはないと言っても過言ではないとさえ思います。だから子供たちとはたくさんお話ししますし、よく声かけをするんだと思います。叱ることも多い方だと思います。
 最近は「こうした私の行動そのものが、子供たちのしんどさの遠因になっている」と感じることも増えつつあります。

 ところが、中学校の定期考査を終えて、明らかに答案が違う生徒が数名いまして。よくよく話を聞きますと「せんせいをギャフンと言わせたくて(^0^)」とコソコソと見えないところでたくさん勉強した生徒もちらほらと出てきまして。中学生くらいまで関わりが続くと、なんだかんだと言いながらでもこちらの想いはある程度通じているのかなあと思ったりもするわけです。

 禍もあって、子供たちの感性(感受性?)が年々変化していると思っていてはいけないような気がしています。月々、あるいは日に日に変化していると思うくらいでちょうどいいのかもしれません。長く関わることで、漢方のような効き目が出てくるような関わり方を目指しているのですが、漢方でも効きすぎる場合がある。そんなふうに思うのです。

 こどもたちのスイッチを探す。この考え方自体が限界に来ているのかもしれません。スイッチを探すと言うよりは、日々の関わるの中で見えたスイッチを見逃さないという考え方にシフトすべき時期なのかな?そんなことをおぼろげに考えています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中学生のテスト期間を見ていて思うこと

2022-05-26 13:43:11 | 日記
 さて、今年度一回目の定期考査が終わろうとしています。現在三つの中学校の生徒が在籍しています。一つは先週に終了。一つは本日最終日。もう一つは明日が最終日です。

 普段から声かけを欠かしていません。「学校指定のワークは習ったときにするんですよ」「漢字や綴りをよく間違う自信があれば、マルつけした後のものでもいいから持ってきなさいね」「字は丁寧に書きなさい。ほかの字に読める字は書かないようにしなさい」
 こうした指摘はしますが、実際に持ってこさせての確認はしないようにしています。どれくらい指示を理解しているかも大切ですし、実際に私以外の大人に指摘されて間違いとされる経験も大切だと思うからです。
 普段指導している生徒だと「あんなにできなかったのにここまでできていれば良しとするか」とか、「読めない字だったのにここまで書けるようになればおまけするか」という私情がどうしてもなくなりません。もちろん指導する上では良くないのですが、あまり何度も耳の痛い指摘を繰り返してしまうとやる気がなくなってしまうものです。私以外の大人にも指摘されることで「キミはまだだれからも良しとされる状態ではないとわかる」ことも必要なのではないかと思うのです。

 こうした前提でこのブログをお読みいただきたいのです。

 私自身はおそらく指導そのものは上達しているはずです。感情にまかせるままに叱ることもないですし、後ろ向きになるよりは前向きになるような指摘を多めにしています。それでも年々「自分に・見通しが甘い」生徒が増加の一途だと感じるのです。
 解答を横に置いたまま問題を解く・間違いに気づいたらペケをつけずに消しゴムで消して直してしまう・明らかな間違いでも○をする・漢字がわからないときにひらがなで書いていても平気で○にする…。などなど、繰り返し指摘しても甘さがなかなか訂正されていきません。
 10年ほどまえは中2にもなれば、こうした甘さはほぼほぼ改善されていたものですが、今は中2でも夏休みを過ぎてようやくといった感じを受けます。ましてや禍のもとで急速に導入が進んだタブレット学習も相まって「答えを書かずに画面を見ただけでわかったつもりになっている」ことも格段に増えてきました。

 勉強はある意味効率的にやることで、非効率になってしまうものです。こうしたことを口を酸っぱくして言い続けてもなかなか伝わらないと痛感します。テストを受けて今まで自分の中で良しとしていたことを否定される。そんな経験も大切なんだと、最近は考えるようになりました。
 高校入試を考えると(特に大阪府の内申は中1から加算されるので)悠長なことを言っていてはいけないのですが、先生に言われるがままの機会のような勉強はしてほしくないんですよね。今回のテストの後の振り返り二者懇談は今後の生徒を左右するめちゃくちゃ重要な懇談になるんだろうなと、毎回思いながら精一杯伝えているんですが…。中3が実り多い勉強をしているのが救いです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

前向きさに隠れる闇

2022-05-24 13:39:39 | 日記
 勉強でもスポーツでも日々の活動でも、「前向き」な気持ちで取り組むことはとても大切なことだと思います。

 後ろ向きな気持ちでは、取り組みに成果が出にくいことは心理学的にも証明されていることですから、前向きな気持ちを持つことができるように指導を行うことは、子供たちをに伸びてもらう上でとても大切な考え方です。

 できたことを褒める。できないときにどうすればできるようになるかを一緒に考える。失敗したときに対象方法を一緒に考える・考えてもらう。などなど、前を向いて進むための支え方はたくさん、それこそ指導者の数だけあるのだとも思います。

 しかし私は、「前向きな」いう言葉に無批判で賛同できないのです。

 まずは指導する側の問題点について。
 指導者も前向きな気持ちになろうという考え方にはこの仕事に就いたときからずっと懐疑的です。それは「自分にとって都合のいいことだけを取り入れて前向きな気持ちになってしまい、自分の欠点に蓋をしてしまう可能性が高まるから」ということを拭いきれないからです。
 自分がほぼ満点と思える指導を思いついた・できたと感じていても、それが指導される側の子供たちにとってそうであるかは、常に成り立つわけではありません。指導をした後は常に自己批判・内省の気持ちをもっている必要がるのでは?とずっと思っています。この考え方は20数年変わっていません。
 自分が前向きな気持ちであれば、生徒もまた前向きな気持ちになるという考え方も危険だと思うのです。もちろん、生徒の前で落ち込む姿勢を常に見せるのはよくありませんし、前向きな態度である方が教育的効果も高いとは思います。とはいえ、その前向きな態度そのものが子供たちにとって重荷になることもまた考えておく必要があるのではないか?そんなことをいつも考えています。

 次に指導を受ける側の子供たちの問題点について
 前向きに勉強する。ものすごくいい響きですし、保護者の皆様もそんなお子様の様子を見ればうれしくなることと思います。しかしご機嫌にワークの問題を解いているだけ・単語や漢字を書いているだけ・たくさんのプリントをコピーしただけで、ものすごく気持ちよく勉強した気になってしまうということは往々にして起こります。
 「なぜその答えになるのか?」「どうしてその理由で問題の解答になるのか?」「どうしてアではなくてイなのか?その根拠が絞りきれない」などなど。勉強していると疑問は次から次へと湧き出てくる者です。それを「気持ちが前向きだから」という理由で、量だけをこなす状態になることは危険だと思うのです。
 長時間勉強したとしても、あとに何も残らなければYouTubeをただ楽しんだだけとそこまで変わらないと思うのです。時間が長いと言うことよりも、どれだけの中身を納得して学べたか?ということの方が実りが多い気がします。だから私は試験前にできるだけ教室を開けて対応します。試験対策などをするのではなく、疑問点が出たときにその場で解決をできる場を提供したいからです。その場ではわからないから後ろ向きになっていたとしても、声をかけることができますし、愚痴をこぼすこともできます。

 指導する側も、指導を受ける側も、常に前向きな気持ちでいることは難しいことですし、無理に前向きな「ふり」をしてしまうことで、問題点を見失う(あるいはわざと見なかったことにする)ことが起こりえると思うのです。

 だから私は「楽しく」学ぶように心を砕いていますが、常に前向きな気持ちを持ち続けないといけないとは思わないのです。特に指導者は自分にとって耳の痛いご指摘を受けて、落ち込み反省し改善する。これを避けてはいけないとすら思っています。

 中学生は定期考査を通して、こうした確実に確実に積み上げていくことで、自分の気持ちをうまく処理する術を身につけてほしい。そしてそのために私はともに歩んでいると思っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

表と裏

2022-05-22 23:32:44 | 日記
 表の顔と裏の顔は違うなんて当たり前

 本当にそうでしょうか?もちろん、人間の本心というか心の奥底なんてものはなかなか見えないものです。私のような子供たちを教える仕事をしている者は、聖人君子であるべきだとも思いません。ただし少なくとも、自分の言動には責任を持つべきですし、舌の根も乾かぬうちに言動がコロコロ変わることはよいことではないと思うのです。

 人の悪口など言うべきではない。私もそう思います。言わずにすむなら言わない方がいいに決まっているんです。ただ、「悪口ではないが自分にとっては耳の痛いこと」を悪口だと決めつけてしまって聞く耳を持たないことは違うとは思うのです。
 人の悪口など言うべきではない。私もそう思います。でも自分は見えないところで自分に関係ない人の悪口を言ったり、気持ち悪いと切り捨てたりするのは違うと思うのです。
 人の悪口など言うべきではない。私もそう思います。とはいえ、自分の行動を棚に上げて、他人の言動にとやかく言ってみたり子供たちの前で他人を蔑んだりするのは違うと思うのです。

 そんな指導者にはなりたくないなと、そんなお話が聞こえてくるたびにそう思い直します。

 うれしいことに、この春も進路を決めた教え子がたくさん報告に来てくれました。関西では名門と言われる私立大学すべてに合格者がでましたし、国公立大学の理学部にも現役で合格者が出ました。幼い頃からの夢の進路を勝ち取った者もいますし、回り道をしたけれども自分の歩む道をようやく見つけた者もいます。そんな教え子たちが今の生徒を教える様子を見て「せんせ~変わらんな~(^0^)」と言ってもらえている間はそこまで心配しなくてもいいのかもしれません。

 自分の生徒にいつでも胸を張って「ここにいてるで!」と言い続けることができるように。また明日からもがんばりましょうかね。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

整合性

2022-05-20 15:34:55 | 日記
整合性に欠ける言動というのは良いものではない。と、私は思います。

自分の知識・経験は絶対的なものだから、自分の指導には間違いがあるはずがないとか絶対的な自信があるとか。ご自身ではそう言いながら、そう公言されている他者を貶めることを平気で行う。そこには整合性が全くありません。

私はそのような境地になったことはありませんし、なれるとも思っていません。ただ、少しでもその域に達することができればいいなと日々葛藤し、悩みながら前へ進んでいるとは言えますが。

私自身は、講師時代も含めれば教えるという仕事に25年以上携わっているわけですから、それなりの経験値もありますし、思うところもあるわけです。それでも、自分の中で「上手くいった経験」というのは、常に「N=1」に過ぎないのではないか?となっています。

公に「私共は指導に自信があります」とか「結果を出します」ということを言えるということは、ものすごいことだと思うのです。

もちろん、私も全ての事柄について自信が無いわけではありませんが、「全ての生徒を伸ばす環境があります」とまでは言えないんですよね。そう言えるように努力を怠らないようにしているとは胸を張れますが。

表向きの言葉と本音がものすごく違っているということ。これが耳に入ってくると、なんだかな〜という気分になります。

できることはできる。できないことはできない。これを正直に包み隠さず言うことができる。この気持ちをいつも持ちながら、子どもたちと向き合っていきたい。そう思います。

そう、自分自身の中で整合性がなくならないように❗
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする