東大阪でそろばん教室を運営しているの先生のブログ 関西珠算瓢箪山教場・石切教場

子供たちから教えられたこと、感じたことを想いのままに綴ります。

自分の知っている知識だけではダメですよね

2017-04-25 15:36:06 | 日記
 と、最近特に思います。自分の知っている知識で全ての事柄を済ませようとすると碌なことになりません。たとえば、私はそろばんの先生であり、塾の先生であるわけですが、教科書の中身は私が学生だった頃と比べると、少なからず変化しています。にも関わらず、さも自分が学び身に付けてきた知識が完全無欠かのように思っていると、とんでもない目にあうわけです。

 私は指導者として、今が磐石とは思っていません。少しでも良いものを求めていろいろと試行錯誤を繰り返しています。先輩の先生方のお話を聴いてみたり、他の先生の授業(動画ですね)を見てみたり、近所の先生のところへおしかけてみたり、ラジバンダリ…。

 さて、ところがですね、自分の知っていることをさもすばらしいことのようにひけらかし、子供たちの前で自慢しまくる先生が存在するわけですよ。え~と、頭がおかしいとしか思えません。

 まず、先生の免許を持って、少なくとも教員採用試験を突破する程度には学力があるわけですから、そりゃ中学生よりは頭はいいでしょうよ。そんなもん当たり前ですよ。そしてその学歴なり経歴を自慢するわけですが、子供たちは見抜いていますよ。そうその行動がしょうもないマウンティングだということを。私が子供たちからお話を聴く限りは、子供たちはその先生に対してしらけていますね。

 まあ、残念ながらそんな先生は私のようなそこらへんのそろばんの先生に、残念ながら学歴ですら負けているわけですよ。そういう先生は「学歴というのは、そういう学校で学んできた」ということの証左でしかなくて、「その人の能力を表しているわけではない」ということを、すなわち学歴というものが示してくれるものの根本を理解していないわけですよ…。

 こうした先生は本当に子供たちの前に立つだけで害悪なので、学校現場から立ち去って欲しいものですが、こういう先生に限って「自分はっとても能力の高い選ばれし教員であるのだ!」なんて思っているから始末に悪いんですよね。

 四の五の言っても仕方がないので、私は子供たちの前に立つ資格を持っていられるように、粛々と頑張ります!
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意味調べ

2017-04-20 16:16:29 | 日記
 さて新年度がスタートしました。私の教室はそろばん指導がメインですが、授業中に漢字の読み書き指導も行っています。

 5年生配当の漢字からは「部首」もあわせて覚えてもらっています。部首をきちんと理解できると「会意文字・形声文字」の意味合いが理解しやすくなります。このときに「漢和辞典(漢字字典)」の使い方もあわせて指導をしていくわけですが、まあ学校では漢字についての辞書指導は本当にあまり行われていないことを痛感します。

 そして、お勉強指導においては6年生から一部授業形式で行う国語の授業で「意味調べ」をとても重視します。これはただ意味を調べただけではだめです。きちんと言葉の意味を理解し、次から調べた言葉を作文で使えるようになることを求めます。もちろん簡単ではないですが、1年かけて意味調べの大切さを伝えていくわけです。

 先日も6年生に「辞書写し:辞書の意味をただ書き写すだけ」と「意味調べ:その言葉の意味を理解し、使いこなせるようになる」との違いをきちんと説明しました。そしてその中で驚いたことがありました。

 辞書の意味の説明には当然難しい言葉が出てくる場合もあります。そしてその言葉の意味が理解できなければ、元の言葉の意味も理解できないはずなんです。だからこうした意味調べの方法を説明し、「孫引き」についても指導しました。

せんせ~、そんなんはじめてきいた


 え~と、そんなに辞書を使うことの指導に時間を割くことが難しいんでしょうか? ほぼ毎年こうした反応をこどもたちから受けてしまうんです。小学校から英語を教科として指導する時間が有るなら、そんなことに時間を使うよりも、国語を使いこなすことに対する指導にもっと力を入れて、時間を割いたほうがいいんじゃないでしょうか?

 辞書を使いこなすようになることができるようになると、自然と学力が伸びてきます。何故か? 分からないまま放っておくことが気持ち悪く感じ、そしてそれが当たり前になるからだと思います。

 そういえば、今春に天王寺・八尾・四条畷などいわゆる「名門校」に進学したメンバーは、小学生のときに辞書を使いこなせていたと感じます。

 お勉強にインスタントはありません。お手軽もありません。効率の良いお勉強など、私は絶対にないと思います。だからこそ、きちんとした学習の手順と、きちんとした学習方法を泥臭く伝えることこそ大事だと思います。

 意味調べ(辞書引き学習)はこの考え方の典型だと思います。で、先日意味調べ指導をした6年生のこんな反応を書いておきます。

 へ~。〇〇って意味がいっぱいあるんや。あっ、こっちのページには家族の関係の図がある。いとことはとこってこうなんや。へ~。

せんせ~、辞書って面白いね。


これがお勉強だと思います。はい。
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カタカナコトバシカツカエナイノ?

2017-04-12 00:42:23 | 日記
 私は元々社会の先生になりたいと思って教育大学を目指しました。教員免許は理科を所持し、そろばんの先生をしていますので、理系と思われがちですがバリバリの文系です。
 だからというのもヘンですが、日本語にに少々のこだわりがあります。最近は本当にカタカナ言葉が多いと感じます。もっと言えば「それってカタカナ言葉にする必然性があるの?」と思うものが多いのですよ。

 スキル・タスク・スマホ・ワークブック・ペンケース・オプション・マックス・フォロー・クリア・ケース・チェッカーズ・タイトル・コンセプト・パワー・リンク・アドバイス・プラス・マイナス・・ローリングストーンズ・トップ・アップ・ジャンル・ルート・ルーオオシバ…。(イクツカヨケイナモノガアルケドキニシナイデネ)

 こうしたカタカナ言葉は、カタカナ言葉のまま使う必然性を感じません。カタカナ言葉のまま使うのは専門用語や日本語に訳しにくいものにすべきです。特に指導する側の人間がこうしたことを意識していないと、正しい日本語で物事や自分の考えを表現できなくなるのではないかと思うのです。

 もっといえば、こうしたブログなどを通して発信している側の人間が書いている文章に、カタカナ言葉が頻発するようであれば、その指導者の日本語の語彙力に疑問符をつけざるを得ません。

 お子様に入試に対してのスキルを身につけるためのタスクは、このワークブックだけでなくペンケースの中の鉛筆ではたりないくらいやりこんでいただくことです。もちろんオプション課題も出しますし、マックスでフォローします。クリアした生徒のケースでいえば、チラシタイトルのコンセプトどおりの結果を出せますよ。クリアするパワーは結果にリンクします。もちろんアドバイスはしますよ、でもね生徒自身の努力がプラスにもマイナスにも働きますから、トップを目指すためには、常に能力をアップさせねばいけません。様々なジャンルのルートをクリアしてこその結果ですよ!

って、ルー大柴か!!!


 ね、何かえらそうに聞こえるけれども中身がないでしょ。中身が無いからカタカナ言葉で飾って誤魔化すわけですよ。中身がきちんと伴っていれば、きちんとした日本語でお話しすることができるはずですから。あまりにもカタカナ言葉が多い指導者っていかがですか?

 お子様に対して入試を突破するだけの力を付けてもらうためには、ただやるだけの勉強ではなくて、筆箱の中身が足りないくらいの量を理解してこなすことが必要です。もちろんさらなる課題が必要な場合もありますが、われわれが全力応援しますし、手助けします。入試を突破するために必要な情報はもちろんありますから、最後まで様々な形式での問題演習に取り組んでもらいます。最後まであきらめずにやりきること。それが結果を呼び込みますよ!

 ね、全然印象が違うでしょ? さて、私は今日も明日も明後日も、生徒たちには国語辞典と友達になってもらうように指導しましょう!


※ 「英語」の指導と「カタカナ言葉」の指導は全く意味合いが違います。「カタカナ言葉」は英語の学習には基本的には役に立ちません。そして日本人が使用している「カタカナ言葉」は往々にして本来の英語の意味からは外れている場合があります。「和製英語」なんていう言葉がありますが、ただ単に「カタカナ言葉」を並べて悦に入っている指導者の中身は本当に薄っぺらいと感じてしまいます。
 「英語」の指導力のある指導者は、日本語での表現もまたきれいですし、本当に必要な部分にしか「カタカナ言葉」を使用されていませんよ。
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反省

2017-04-10 13:19:24 | 学習・塾に関する中身
 新中学2・3年生には、学年末試験が終わってから春休み終了までに、英語・数学に関して復習課題を出しています。そして先日新3年生が期限までにほぼ全滅の状態だったので、本当に厳しくお説教をしました。そして期日までに終われないことに対して「せんせ~やから大丈夫やろ~」という気持ちがあるように感じたので、その点も厳しく叱りました。

 これまで、私が自主性を尊重して厳しく指摘してこなかったという反省点もふまえて、正直に話しました。そして生徒たちに言いたいことがあれば言いなさいとも言いました。そんななかで私は生徒たちに「これは喧嘩や!」と言いました。私の中では「必要な喧嘩」です。これは「喧々諤々の議論」と言い換えてもいいでしょう。そしてそんなやり取りの中で1人の生徒に「これは喧嘩なんですか?」と尋ねられました。私は「そうや」と答えました。その生徒にすかさず「喧嘩なんかしたくありません」と返されました。

 これには少し驚きました。そしてその後も「言いたいことはあるけど、喧嘩になるなら言いたくありません」とも言われました。そしてこうしてお話をしていく中で、私の反省すべき点が見えてきました。

 私はこうした生徒たちとのやり取りを「喧嘩」と表現します。それは「自分の論で相手の論を論破する」という「討論」の側面を含んでいます。そして自分の論を主張できるようになってほしいと思っていますので、多少厳しく畳み掛けるようにしています。そのため、このお話の最中に「先生に言い返されて次の言葉が出てこなくなる程度の主張なら最初からしないほうがまし。先生になんと言われようが先生が絶対に間違ってるとかおかしいとか思うくらいじゃないとダメ」と言ったんです。でもね「喧嘩になるくらいなら言わない」という考え方には面食らいました。でもこれでは、自分の意見を主張するという技術を身につけることは難しいと思います。

 そこで、私は咄嗟のことでしたが大学時代の経験をお話しました。

 私はもともと文系でした。でも奈良教育大学には(今はなくなってしまいましたが)理科の専門教員を養成する課程がありました。私は地学を得意としていましたので、本当に深く考えずに「社会が無理なら地学でもいいか」と思って、地学を第二志望にしたんです。そして補欠でありながら、地学教員養成課程で合格となりました。

 さて、地学は文系の学生がとる授業である場合が多く、実際にこの過程には半数くらい文系がいました。ところが免許書は「理科」なので、学習内容はバリバリの理系なんですね。そんなわけで、先輩も同輩も後輩も苦労人はたくさんいました。

 そして大学の化学の授業でのことです。「地学の学生はどこだ~」。現実問題として化学の授業では先輩方がだくさん不合格となって再履修をしていました。そこで教授の放った言葉「地学は馬鹿だからなあ~」 カチンときました。そして猛勉強してその授業の試験でトップをとってやりました。さあ、教授と大喧嘩です。「お前地学は馬鹿だと言ったよな。お前の化学科の学生の全員よりいい点取ったぞ。科学は馬鹿やなあ!」と言ってやりました。そうです。これを言うために死ぬほど勉強してやりました。教授は「お前誰に言ってんだ」と来たので「お前じゃ! この大学は教師を育てる大学じゃないのか? お前は俺のことを知らない、俺もお前のことを知らない。その時点で「地学は馬鹿だ」と言ったんやぞ。それが子供たちを相手にしていく教員を育てる大学の教授が言っていいと思ってるのか?自分の言葉には責任を持て! さあどうする?謝罪するか、それとも大問題にするか!」 教授はそれでも「お前は誰に向かって口をきいてるんだ」と言うので、そのまま学長のところへ行ってことの次第を話し、きちんと対処してもらえないなら文部省でもどこでも行く!と啖呵を切ったんです。そのときに「馬鹿といわれたから、死ぬほど勉強した。言うだけのことはした上でこうしている。これで俺に問題があるとでもいうならこの大学は最低やから辞めてもいい!」とまで言ったんです。

 その後は教授と当該学生を呼んでの事情聴取です。紆余曲折ありましたが、最終的には教授から謝罪してもらい、これをきっかけにその教授とはとても仲良くさせてもらいました。

 こんなお話をしたんです。だから先生は君たちと今こうしてお話をする前は「討論とは相手の論を論破することが大切だ」と思っていました。でも、今の意見を聞いて「相手の論も認めつつ、自分の論はこんなにすごい」と相手に認めさせることもまた、討論での正解だと思います。だから、先生の行き過ぎた点、嫌な思いをさせた点は誤ります。となりました。

 この件を通して、自分の至らなさ・視野の狭さに多いに反省すると共に、自分の教えている生徒の心の豊かさ・素晴らしく成長してくれていることにすごくありがたい気持ちになりました。

 今回の反省を生かしてより生徒たちに嫌な思いをさせずに物事を伝えていくようにならなければいけないと肝に銘じます。
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自習中の私語について思うこと

2017-04-01 09:40:23 | 学習・塾に関する中身
 いろんな塾さんのホームページやブログを見ると「私語厳禁」と書いてあることがほとんどだと感じます。

 私自身は私語があってもいいと思っているんです。ただし次の要件を満たせばです。

 他人の迷惑にならない。
 
 これだけです。実はこれを守れば私語はほとんどなくなるはずなんです。ただ、私は1時間に1度の休憩を無理やりにでもさせます。何時間もぶっ通しで私語なくお勉強をするのであれば、塾の自習室を使う必要ってありますか? 家でお勉強をして分からないことを質問に行けばいいだけではないですか? と私は思ってしまうんです。

 たとえば、必要なプリントをコピーするときに、友達の分もしてあげよう。だから「コピーするけどいるかな?」と声をかけることは迷惑と感じる生徒もいるでしょうが、ありがとうと感じる生徒もいるでしょう。

 私たち塾の先生は、子供たちと塾でしか関わっていません。しかし生徒同士は私たち塾の先生より遥かに長い時間をともに過ごしているのです。声をかけることが相手にとって迷惑かどうかなんて分かっているはずなんですよ。それを一律に「私語は厳禁」ってしてしまうと、塾と生徒の信頼関係が壊れるんじゃないかと思ってしまうんです。

 授業中の私語はもちろん禁止でもいいと思います(私はボケツッコミを授業の中に入れていきますので、私語が0ではありません)。そして、生徒との信頼関係が出来上がった状態でオンとオフを切り替えるための「自習中の私語禁止」もかまわないと思います。それがルールですから。

 でもね、それってその塾(指導者)の考え方ですから、それをことさらにアピールするのも違う気がするんですよね。実際問題。私の教室は私語もあります(節度はわきまえてくれていますよ)授業中私のボケにきちんとツッコンんでくれますし、面白くないときは華麗にスルーをしてくれます。それってきちんとこちらのお話を聴いていないとできないわけですよ。当てられた時しか声を出してはいけない。絶対に関係のない話はいけない。それって、堂考えても「子供たちが騒ぎ出すとブレーキをかけることができずに叱ってしまう。叱ると空気が悪くなってしまう。じゃあ最初からしゃべらせなければいいじゃん」と考えての決まりかなと思ってしまうんですよ。

 節度を越えたら叱ればいいんですよ。ルールで「禁止」をするのはとても簡単です。でも「禁止」に慣れてしまえば、「禁止」ではない状況になったときに正しい判断はできるのかな?とも思ってしまうんですよね。だから私は「臭いものにもふたはしない」で、生徒たちがしてしまういろいろな失敗をここでさせて、ここで叱られて、正しい感覚が身についてほしいなと思うわけです。

 だから、私の教室では「私語は一切禁止」というルールはありません。もちろん、「教室内での私語は一切禁止」という教室もありですよ。でもそのルールを決めた理由をきちんと説明できる教室はどれくらいあるのでしょうか? と考えたお話でした。
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