東大阪でそろばん教室を運営しているの先生のブログ 関西珠算瓢箪山教場・石切教場

子供たちから教えられたこと、感じたことを想いのままに綴ります。

指導者の真意

2017-06-28 09:17:28 | 日記
 が伝わることはなかなか難しいですよね。

 たとえば、私がよく知る塾の指導者にいわゆる「大量の課題」を課す先生がいます。

 この先生の真意はすごくシンプルです「努力する習慣を付けること」。

 ただし、この真意が生徒に伝わるまでの指導者側の努力は想像を絶します。なぜか?それは「もう中学生」(もうちゅうさんではないですよ)だからです。「もう中学生」だから、ある程度成長してしまっているから、その学習・生活習慣を変えていくことのエネルギーは尋常ではありません。

 だからこそ、私はこの先生を敬服しますし、指導スタイルが違うことも「そりゃ当然だわ」と言えるわけです。


 一方の私が、そろばんでお預かりした子供たち限定で塾指導をすることも、結論から言えば「そろばんで身に付きつつある努力することが当たり前という感覚を、お勉強を通して確実に身につけて欲しい」からです。

 中学生から新たにお預かりして、こうした指導をする自身が私にはないからです。これは私の尊敬する指導者の方と、その方が間違いないとお勧めする方々しか、私の知る限りはいません(学校の先生に数名の知り合いはいますよ)。


 過去問や予想問題を通して「効率の良いお勉強の仕方を身につけさせる」と公言する方がいますが、「教育的にどうのこうのと言われれば私どもにはできません」と公言する方がいますが、こうした方々は教育の何たるカを分かっているとは言えません。

 「中学生」ごときの薄っぺらい(また出た!)社会経験や、水溜りよりも浅い経験値(どっかで見たフレーズやなあ…)で、「効率よくすることが、きちんと身に付く」ことなんてありえないと断言できます。「効率よく」身に付いているのは「目の前にやらなきゃ行けない課題が立て込んできた」ときに「すべてをどうすればクリアできるか」ではなく、「最低でもどこまでやれば怒られないか。言い換えれば優先順位が低いと(自分で勝手に)判断した課題はやらない」という性根です。「効率よくお勉強しようね」という主張は、見た目「効率よく」見えても、内実は「自分にとって必要あるものを、必要ないと判断してしまうことで、効率よくこなせているようにみえてしまうという学習習慣」なんですよね。

 何度でも言いますよ。中学生のお勉強ごときで効率を求めなきゃできないことなんてありませんよ。あっ、子供たちのこれまでの取り組みでできることとできないことに違いが有ることは事実ですから、子供たち一人ひとりに対してかける負荷を変えていくことは必要だと思っています(これも、子供たちの可能性にふたをしてはいけませんから、どこまで負荷をかけていくかは本当に悩みます)。

 指導者の真意をしっかりと汲み取って頂いた上で、お子さまをお預けいただく指導者をお選びいただければ幸いです。
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「客観的」は常に必要な訳ではないですよ

2017-06-24 12:52:50 | 日記
 先日「「客観的」って言葉の意味を知らない人が多いようで…」というタイトルのブログを書きました。

 そして、その後ブログのアクセス数がこの記事だけなぜか300を超えています。普段の記事が150前後なので、単純に倍以上の方に見ていただいたようです。

 で、少し補足をしておきますね。

 私が言いたかったのは「客観的に物事を論じているふりをしながら、その実展開している論が全然客観的ではない」主張をしている人がそこそこいるよね、という事実の指摘です。

 そういう人物に限って「日本語で自分の意見をきちんと表現できるような指導が大切です」なんて言うもんだからちゃんちゃらおかしいわけですよ。

 「客観と主観すら区別して論ずることができない指導者が、日本語表現について語るとはこれいかに」ということです。

 もちろん、主観的な意見を主観的に述べている分には何も問題はないと思いますし、私は基本的に主観に基づいて書いています。

 大切なのは「客観的事実に基づいて述べた私の論は、客観性が担保されている素晴らしいものなんですよ。だから私の指導は子供たちの考え方や勉強への取り組み方を根本から変えていきます」とかのたまっている指導者を、お子様をお持ちの皆様に見抜いていただきたいということなんですよ。

 普通、ブログは主観的な考えを表明するものだと思います。もちろん、客観的な事実を基にして自分の考えを論ずることを否定はしませんし、私も必要があればそれをします。でもね自分の考え方を正しいとアピールするために、自分に都合のいい事実だけを切り取って、さも素晴らしいかのように喧伝する方がおられるんですよね。もうアホかと…。自分の薄っぺらさ(いよっ! また出た)を全世界にアピールする。ご苦労様です。

 個人的には、ブログって主観的に欠かれているほうが面白く読めますし、「そんな考え方があるんだ」とこちらも学ぶことが多くあると思います。

 まとめると、「私はこのように考えているんですよ」という主張は、(その主張の是非は別として)読み手がその方の主張を判断すれば良いので、それほどの問題はありません。
 でも、「私はこのように考えていて、この考えにはこうした客観的事実の裏付けがあります」という主張は得てして、自分の主張に都合の良い「バイアスのかかった事実」に基づいている場合が多いと感じますし、そうした主張を発信している方の客観性の乏しさをみなさん見抜いてくださいね。

 というお話になります。

 「教え子をいかにして鍛えているか」には、はっきりいって経験則しか通用しないと思っています。それは裏を返せば、その指導者が教え子の前に立つまでにどのような経験をしてきたかが決定するということです。

 大量の課題をさせるスタイルにたどり着く方もいれば、過去問や予想問題で自分の力が出せるように指導するスタイルもあります。私はどちらも自分のスタイルではないということです。間違いや記憶違いを1つずつ潰していく(理解できない・覚えていないを理解できた・覚えたに変えていく)ことこそ、教え子たちに伝えたいことだということです。

 この指導スタイルに客観的なデータはありません。これまで私が大学院時代に学んだこと、大学で学生を指導したときにそれまでの学習姿勢とその学生の授業への取り組みを見て得た経験、中学校で非常勤講師をした経験、学習塾で雇われ講師をしたときの経験、小学校のそろばんボランティアで指導をしている経験、本業であるそろばんを子供たちに教えた経験、その後の子供たちが歩んだ道のりを報告してもらって得たもの。こうした自分の経験が自分の指導スタイルを決めてきました。そして教え子たちの伸び方をみて、その指導スタイルは今もゆっくりと変化を続けています(はずです)。

 私は、客観的データから論ずることは机上の空論だとすら思っています。目の前の子供たちの取り組む姿に刺激を受けながら、私が大切だと思うことを教え子たちに伝えながら一緒に頑張る。これが私のやり方です。

 子供たちの人生の一部をお預かりするに当たって、発達心理学・児童心理学・発達障害・教科教育法などを学びなおしはしました。でも教科書にあることがそのまま当てはまる子供を私は見たことがありません(私の未熟に起因する可能性が高い気はしますが…)。だからあくまで一般論を知ったうえで、目の前の子供たちに全力でぶつかっていく(ふきとばしはしませんよ)ことを私はこれからもしていきたいと思います。


 あ~あ、タイトルとは全く違う着地。書いているうちに熱くなるこの性格、なんとかしなきゃいけませんね。今回のブログ、客観性は1ミリもありませんね。でもこれが私のスタイルと言うことでご容赦くださいね。
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「客観的」って言葉の意味を知らない人が多いようで…

2017-06-19 14:20:16 | 日記
 客観的
 ① 主観または主体に関係なく、独立して存在するさま。  ②主観を離れ、誰もがそうだと納得できるような立場から物事をみるさま。
   (明鏡国語辞典 初版より)

 たとえば自分の主張を、明確なエビデンス(証拠ですね)をもとにしていると主張している人がいます。で、そのエビデンスというのが「出版された本」だったり、「○○関係者の経験」だったりする場合がたくさんあります。
 さらにいえば、新聞の世論調査なんかだと完全に客観的で明確だと思い込んでいる人がいたりします。

 たとえば、新聞の世論調査で「内閣支持率」を調査していますよね。このときの「どういう質問で調査したか」はあまり表にでません。たとえば「支持するが58%」とでても、質問が

 ①「あなたは○○内閣を支持しますか?」
 ②「あなたは○○内閣は信用できないと思いますか?」
 ③「あなたは○○内閣は退陣すべきだと思いますか?」

 と聞けば、①「支持します」といえば支持になります。②は、「そう思わない」なら指示になります。③なら「そう(そこまで)思わない」なら支持になります。同じ支持率の調査でも、聞く文言は全く同じではないのです。だから、新聞の世論調査はあくまで「傾向」を把握できるに過ぎません。
 それでも、新聞の数値は信頼に足るエビデンスだと思っている人の多いこと。いわいる「バイアスがかかっているデータ」と読み解くべきです。

 さて、塾講師にも「本にこう書いてあるから」とか、「○○関係者から実際に聞いた」とか、「○○新聞の調査による」とかで、客観的なデータと主張する場合がありますが、これらはほとんどの場合が「客観的」なデータではありません。

 たとえば有名な本に
 「学力があぶない:岩波新書:大野 晋・上野健爾著」や、
「小数のできない大学生:東洋経済:岡部恒冶・戸瀬信之・西村和雄著」

 などがありますが、こうした本で用いられているデータは「条件をそろえて経年変化を追いかけたもの」や、「日本や国連が実施している学力調査のデータ」をもとにして考察を重ねていますから、「引用したデータ」には客観性が担保されていますが、そこから考察を重ねた「筆者の主張」は客観性が担保されている保障はありません。

 にも関わらず「客観性が担保されたデータから導かれた結論もまた、客観性が担保されている」と考えている方は多いんですよね。特に文系の皆様にはこの傾向が多いと(これは私の個人的な感覚です)思います。

 私は自分の経験則に基づいて主張しているものには必ずその断りを入れるようにしています(もともと文系でしたが大学で理系に進んだので、両方の感覚を持っていると、自分では勝手に思っています。この感覚が信用できない方はその目線でお読みくださいね)。

 だから、よく塾講師が書いている「こうした客観的なエビデンスに基づいて」というのは、その前段にあるものが「本当に客観性が担保されているかどうか?」を読み手側がきちんと読み解いていかないと騙されてしまうわけです。

 もっといえば、「こうした客観的エビデンスに基づいて論を展開している私ってすごいでしょ!」と客観性が担保されないデータをもとに論じている人間は、自分がそうした知識しかないですよと世界中に発信していることにすら気づいていないわけで…。

 こうした講師のもとで、さも素晴らしいと感じてしまうような授業を、その後で全く修正がきかないように骨の髄まで刻み込まれてしまうと、その教え子たちの人生は取り返しのつかないことになるのになあ…。と感じながらこのブログを書きましたとさ。

 ※ とはいえ、自分の経験則からきちんとした主張をしている方はいます。たとえば、私がよく読ませていただく奈良の進学塾Tetsu様です。Tetsu様のブログは本当に小学校高学年~中学生のお子様をお持ちの保護者の皆様にはぜひお読みいただきたいと思います(Tetsu様には掲載許可をいただきました。ありがとうございます。今後も読ませていただきます!トップページへ飛びますので、「塾長ブログ」をクリックしてくださいね)。

 まあ、客観的なエビデンスに基づいてとか偉そうに言うことよりも、私は目の前の生徒たちに全力投球し、そのとき気づいたことを書いていくスタイルが好きです。私のブログをお読み頂いている物好きな皆様には、ぜひとも「客観的なエビデンスに…」という耳障りのいい言葉で、薄っぺらい(おっ!連続登場)中身に惑わされないで欲しいと思います。
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サマータイム実施中は体験授業・ご入学の受付を停止いたします

2017-06-15 15:25:10 | そろばんに関する中身
 7月24日(月)~8月25日(金)まで、サマータイムを実施いたします。

 サマータイム中は、全クラス2時間授業時間を繰り上げて実施します。

 体験授業は7月15日(金)で、ご入学は7月22日(金)で、サマータイム期間終了まで受付を停止いたします。

 7月15日(金)を過ぎましての体験授業は、8月28日(月)以降の体験授業の予約に、7月22日(金)以降の入学のお申込は8月28日(月)以降の入学予約としてお受けいたしますので、ご入学をご検討いただいておられる方は、お早目のお申込をお願いいたします。

 今年度から石切教場もサマータイムを実施いたしますので、瓢箪山教場と同様に体験授業。ご入学受付をサマータイム期間中は制限させて頂きます。何卒ご理解賜りますようにお願い申し上げます。
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24時間戦えますか?

2017-06-15 00:37:39 | 日記
 きいろ~とく~ろはゆ~きのしるしっ!(ふるっ!分かる方は私と同世代ですね☆)

 さて、24時間戦う必要はないと国が先頭を切って言う時代になりました。私は今までに何度か書きましたが、子供を教える先生という立場にあるものは滅私奉公が当然だと思っています(もちろん被雇用者であれば、この理屈は通用しませんよ)。
 
 最近は、先進諸国(いわゆるG20と呼ばれる国々ですね)の中でも、最低の労働時間となった日本。それでも政府はまだ労働時間を減らそうとしています。なぜか? 諸外国の圧力(ほら、エースとかスペードとか使うカードのアレですよ、アレ)があるんですよね。日本人に働いてもらうと困る国々があるんですよね。そして政府はそうした国々のいいなりです。なぜか?日本には資源がないからですよ。

 で、日本は敗戦後、圧倒的な勤勉さと、行き届いた教育による脅威の識字率(ほぼ100%)による労働者の質の高さで、脅威の経済発展を成し遂げます。そしてその後現在の日本は20年間でほぼ経済成長が見られないと言う、これまた世界で類を見ない経済状態になっています。

 外国の文化が日本の隅々までいきわたり、日本の伝統が軽視される。その結果が今の日本の停滞の一部を作っているのではないか? 私はそう考えています。

 もちろん教え子たちがブラックと呼ばれる働き方をすることを望んでいるのではありません。単純に「働く必要があるかないか、自分の価値判断を基準にできるように。やるときはやることが判断できるように。」と思っています。

 24時間戦う必要があるときには戦うことができる。そのための礎を培って欲しいのです。それがそろばんでありお勉強であるわけです。必要なことを必要なときに、後回しにしない姿勢を培って欲しいんですよ。

 さあ、そろばんでは日商検定が、中学生は定期試験が、それぞれ近づいてきました。今、全力で! それが私の希望です。

 私は今も24時間働くつもりで子供たちと向き合っていることだけは言い切れますよ!

 (え~と、大丈Vに触発されたことは内緒にしておきます)
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