東大阪でそろばん教室を運営しているの先生のブログ 関西珠算瓢箪山教場・石切教場

子供たちから教えられたこと、感じたことを想いのままに綴ります。

9月19日の授業について

2022-09-19 15:08:27 | 休校・異常事態への対応
当教場の異常気象時の対応については、入学案内・教場ニュース・当ブログでごあんしております。リンクをここにあげておきます。


お休みの際はご連絡いただけると助かります。よろしくお願い申し上げます。
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国語の授業に想うこと

2022-09-14 14:57:09 | 日記
米1つ前のブログの具体的な想いです。

 中学2年生の国語の教科書に「字のない葉書」というお話があります。向田邦子さんの作品で、戦争中の家族の体験を描いたお話です。

 この描写を理解するには、戦時中という時代背景を説明せねばなりません。学徒動員・家長制度・当時の技術力・戦争の背景、、、。学童疎開をさせることに抵抗がなぜあるのか?どうしてカボチャの茎まで食べるのか?そもそもなぜ芋類を栽培しているのか?雑炊用の丼を持参する意味は?などなど。たくさんの学びが用意された題材です。ただ単に「戦争はよくないよね」で終わらせるのではなくて、その背景にあるものをしっかり考えさせる。これこそ、「学校」の授業に求められていることではないのでしょうか?これこそ「AL(アクティブラーニング)」と言われる授業にふさわしい題材ではないのでしょうか?

 私はこの場所で20年以上塾での指導に携わっていますが、こうした中身に触れて授業をされている先生に出会っていません。へたをするとテスト前に1時間でやったことにする方もおられるくらいです。部活の指導で授業研究をする時間が削られている・予算がない・子供たちが変わった、、、・言い訳することは簡単ですが、もう少し授業の中身を豊かにしてほしいとずっと願っています。

 私はこの題材をはじめとして「壁に残された伝言」や「故郷」「走れメロス」などの題材では時代背景を説明した上で考えることを必ずしてもらいますし。古典・漢文の単元では今と異なる感性の何かを感じてほしいと伝えることに必死になっています。

 こうした「知る・知った知識をもとに考える」経験は、この先の「未知の問題にぶつかったときに自力でなんとかする力」の基礎になると信じています。そろばんの先生が本業で、教員免許は理科。それでもなんとか伝えたいと思って授業する者がいるという「指導」についてのお話でした。
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指導するということ

2022-09-14 14:43:57 | 日記
 指導するということはとてつもなく重いことだと思います。「こちらの言うことを聞きなさい」というわけですから。

 「生徒が将来損することがないように」指導すると言いながら、自分ができていないことを子供たちに指導するっていう立ち位置は理解ができません。自分が必要だと考えていた指導を、ある日突然全く違う方針にするという立ち位置は理解できません。自分の守備範囲外の中身に手を出すに当たって、見切り発車をしてしまうやり方には理解ができません。

 指導するということは、自分が正しいと思うことを伝えることでもあります。それは、世間一般からも正しいと考えられていることなのか? これは毎日私の頭を悩ませることです。ここ数年は流行病のせいで気軽に懇談することも難しかったので、自分の考え方を保護者の皆様とすり合わせる機会も減ってしまいました。なるべくラインやお電話を利用してやりとりするように心がけてはいますが、顔を直接見ないやりとりは通じきらないものがありそうです。

 指導するということは、自分の指導は正しいと暗に言っていることですから、勉強を常に怠ってはいけません。教室独自のテキストだと表紙もつけていながら、教材会社の問題をコピーしたものであったり、過去問を寄せ集めただけだったり。「他人のふんどしで相撲を取っている」その中身は本当に正しい指導なんだろうか?

 指導するということは、生徒たちに「先生の指導は間違ってはいない・正しい」と信じてもらうこと。「生徒たちに阿る」のではなくて「普段と同じ行動をすることで、結果的に生徒から信頼される」。そんな当たり前のことができているのだろうか?

 指導するということに悩みは尽きません。ただ普段からそんなことを考えながら指導している。そんなお話でした。
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夏休みが終わりました

2022-09-02 15:16:00 | 日記
 8月最終日にこのブログを書いています。私どもの教室がある地域の学校は、多少の日程のずれがありますが、概ね29日の月曜日にはすべて2学期が始まりました。

 この夏休みは中学校の部活動で「はやり病」が流行してしまい、特に学習塾の授業の予定が大幅に狂ってしまいました。臨時休講をして日程の変更を行いましたが、指導したいことの2割弱が夏休みのあとに繰り越しとなってしまいました。

 もともと私はごりごりに勉強をさせる方針を持っていません。宿題は最低限にしたいんですね。これがなぜかというと「弱点が個人ごとに異なるから」これに尽きます。

 問題集を◎周しなさいとか、毎週の小テストとか、家庭学習の時間管理とか。そういうことをしていれば「大人の側は」指導している気持ちになりますし、やっているつもりになります。

 でも、みなさんが子供のころを思い出してみてください。「身につくように」とか「考えてやりなさい」とか言われながら、まあまあの量の課題を出されてきちんとこなし(こなせ)ましたでしょうか?。
 私は、小中学生にはほとんど無理だと思うのです。もし指導する側の思惑通りこなせる生徒がいたならば、その生徒はどこの塾に通っても(なんなら通わなくても)一定の成果を出してくれるはずです。

 そんなことを考えながら指導しているので、「自分で自由に使える時間を確保できる」程度の宿題にとどめたいわけです。そして「その自由に使える時間を遊びではなく自分の成長のために少しでも使える」ようにと願って、つねに声をかけ続けています。

 そして指導から一貫性を失わないためにも、指導方針・方法はもう20年来変えてはいません。もちろん、使用する教材を変更したり、授業時間を変えたりといった細かな変更ありますが「やり方」は変えていません。そして子供たちと共に歩むという基本方針はこれからも変えるつもりはありません。

 以前からの指導のやり方を変えていくこと・アップデートしていくと。これらこれでとても大切なことだと思います。が、少なくともそこには「これまで」と「これから」にある程度の整合性はあるべきなんじゃないかなとも思います。

 後進に講釈を垂れ流すだけの有害なおっさんにはなりたくないな〜。なんて考える夏休みの終わりでした。
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