「アルジャーノンに花束を=Flowers for Algernon」という
世界中の人々に読み継がれているアメリカの小説があって。
最早知らない人はいないのでは?というくらい有名な、
その作品の作者である
「ダニエル・キイス=Daniel Keyes」さんが、つい先日、
フロリダの自宅で亡くなったそうです。
ワールドカップやらなんやらの様々なザワめくニュースに混じって、
とてもヒッソリと伝えられていました。
享年86歳だったそうです。
TVドラマや映画、舞台にもされて来たこの小説は、
32才になっても幼児の知能しかない、
パン屋さんで働く「チャーリィ・ゴードン」の物語で。
とあることから最新の医療を施されることになったチャーリィは、
その後奇跡的な知能回復を遂げ、
天才的な「IQ」を獲得していき......そして......
......もしかしたら、
まだこの作品に触れていない人もいるかもしれないので、
これ以上のストーリーは書きませんが。
IQが低かった時のチャーリィの言葉使いと、
高くなった時のニュアンスの違い等、
翻訳者の方も訳するのがカナリ難しかったのではないのかなぁ......
などと思えるような所も多々見受けられ。
そんな部分も含めてとてもよく出来ている作品で
心底感服してしまいます。
もし僕が「小説家」や「作家」なんて職業を選んでいて、
粛々と物書きなどをしていたとしたら、
この作品こそが最も嫉妬を感じてしまうようなものだとも思います。
いや......もう
「ジェラシー!!・°°・(>_<)・°°・。」
なんてレベルのものではなく、
「こんなスゲーもの書けるわけないやろ」
「どうやったら書けるんだ!?これ!?」
なんていう、完全な諦めも入った、
尊敬や敬愛といった領域でもって輝く作品でしょうか。
コノ小説を読んだ時に、読者として、
一人の人間として問い掛けられたことは、
今でも鮮烈な「光の玉」のようなものとして僕の中に残っていて。
その「光の玉」は心の奥の方にある引出しの中にそっと仕舞われてもいて。
時折、必要な時に、その引き出しをそっと開けて、
仕舞われているそんな玉を眺め見たりもします。
この小説には多角的で様々なメッセージや意味が含まれているとは思いますが、
僕の引き出しに仕舞われた「光の玉」から投げかけられて来ることは、
いつもだいたいこんなことです......
「慣れるなよ」
「それを当たり前と思うなよ」
「足るコトを知れ」
そして......
「思いやりだ。思い遣りこそが善なのだ」
最初感謝できていたようなコトも、
繰り返し受け続けていると、
いつの間にか当たり前のこととなって。
感謝も忘れ。
自分の生活や仕事も誰かに何かをしてもらっていて成り立っている
というようなコトも忘れてしまう。
特別なコトは、当たり前のコトとすり替えられて。
そこには
「もっと、もっと、、」
という欲がうごめいていて。
僕は目が見えなくなって。
足りていることも忘れ。
そして、何かを......
力を貸してくれている人々やモノへの思いやりを......忘れ.......
アルジャーノンの光の玉は、
時折こんなコトも僕に問いかけてきます。
「純粋さも時に罪となるのだ」
「だから気をつけなさい」
「だからどんな時も思い遣りだけは忘れないようにしなさい。
その純粋さが罪とならぬように。
気をつけなさい。」
腹が立ってどうしようもないようなコトも、
その理由を深く深く探って行けば、
きっとその奥底には感謝の欠如があるのでしょう。
だから腹が立つ。
誰かに何かをしてもらっているコトが、
何かに何かを恵んでもらっているコトが、
当たり前になりすぎて。
真実も消えて。
特別なコトに慣れてしまい、不足が生まれ。
その不足に腹が立つ。
立派!だ、凄い!だ、ヤバイ!だ、なんだ。。
愛だ、恋だ、友情だ、仕事だ、遊びだ。。と言う前に、
先ずソコに有るもの。
ダニエル・キイスさんから頂いた光の玉は、
取り出して眺めるたびにそんなコトを問い掛けて来てくれます。
ダニエルさん。
本当にありがとうございます。
僕はあなたの作品からとても大切なものを頂きました。
この玉はこれからも大切に持っていようと思います。
頑張ります。
どうぞ、
安らかにお眠りください。
とても感謝しています。
ダニエル・キイスさんにも沢山の美しき花束を。
世界中の人々に読み継がれているアメリカの小説があって。
最早知らない人はいないのでは?というくらい有名な、
その作品の作者である
「ダニエル・キイス=Daniel Keyes」さんが、つい先日、
フロリダの自宅で亡くなったそうです。
ワールドカップやらなんやらの様々なザワめくニュースに混じって、
とてもヒッソリと伝えられていました。
享年86歳だったそうです。
TVドラマや映画、舞台にもされて来たこの小説は、
32才になっても幼児の知能しかない、
パン屋さんで働く「チャーリィ・ゴードン」の物語で。
とあることから最新の医療を施されることになったチャーリィは、
その後奇跡的な知能回復を遂げ、
天才的な「IQ」を獲得していき......そして......
......もしかしたら、
まだこの作品に触れていない人もいるかもしれないので、
これ以上のストーリーは書きませんが。
IQが低かった時のチャーリィの言葉使いと、
高くなった時のニュアンスの違い等、
翻訳者の方も訳するのがカナリ難しかったのではないのかなぁ......
などと思えるような所も多々見受けられ。
そんな部分も含めてとてもよく出来ている作品で
心底感服してしまいます。
もし僕が「小説家」や「作家」なんて職業を選んでいて、
粛々と物書きなどをしていたとしたら、
この作品こそが最も嫉妬を感じてしまうようなものだとも思います。
いや......もう
「ジェラシー!!・°°・(>_<)・°°・。」
なんてレベルのものではなく、
「こんなスゲーもの書けるわけないやろ」
「どうやったら書けるんだ!?これ!?」
なんていう、完全な諦めも入った、
尊敬や敬愛といった領域でもって輝く作品でしょうか。
コノ小説を読んだ時に、読者として、
一人の人間として問い掛けられたことは、
今でも鮮烈な「光の玉」のようなものとして僕の中に残っていて。
その「光の玉」は心の奥の方にある引出しの中にそっと仕舞われてもいて。
時折、必要な時に、その引き出しをそっと開けて、
仕舞われているそんな玉を眺め見たりもします。
この小説には多角的で様々なメッセージや意味が含まれているとは思いますが、
僕の引き出しに仕舞われた「光の玉」から投げかけられて来ることは、
いつもだいたいこんなことです......
「慣れるなよ」
「それを当たり前と思うなよ」
「足るコトを知れ」
そして......
「思いやりだ。思い遣りこそが善なのだ」
最初感謝できていたようなコトも、
繰り返し受け続けていると、
いつの間にか当たり前のこととなって。
感謝も忘れ。
自分の生活や仕事も誰かに何かをしてもらっていて成り立っている
というようなコトも忘れてしまう。
特別なコトは、当たり前のコトとすり替えられて。
そこには
「もっと、もっと、、」
という欲がうごめいていて。
僕は目が見えなくなって。
足りていることも忘れ。
そして、何かを......
力を貸してくれている人々やモノへの思いやりを......忘れ.......
アルジャーノンの光の玉は、
時折こんなコトも僕に問いかけてきます。
「純粋さも時に罪となるのだ」
「だから気をつけなさい」
「だからどんな時も思い遣りだけは忘れないようにしなさい。
その純粋さが罪とならぬように。
気をつけなさい。」
腹が立ってどうしようもないようなコトも、
その理由を深く深く探って行けば、
きっとその奥底には感謝の欠如があるのでしょう。
だから腹が立つ。
誰かに何かをしてもらっているコトが、
何かに何かを恵んでもらっているコトが、
当たり前になりすぎて。
真実も消えて。
特別なコトに慣れてしまい、不足が生まれ。
その不足に腹が立つ。
立派!だ、凄い!だ、ヤバイ!だ、なんだ。。
愛だ、恋だ、友情だ、仕事だ、遊びだ。。と言う前に、
先ずソコに有るもの。
ダニエル・キイスさんから頂いた光の玉は、
取り出して眺めるたびにそんなコトを問い掛けて来てくれます。
ダニエルさん。
本当にありがとうございます。
僕はあなたの作品からとても大切なものを頂きました。
この玉はこれからも大切に持っていようと思います。
頑張ります。
どうぞ、
安らかにお眠りください。
とても感謝しています。
ダニエル・キイスさんにも沢山の美しき花束を。