世間とは真逆のことを言う。
佐村河内守『交響曲第1番 HIROSHIMA 』
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/0ebe8dab31cbcc5df38603638d561e96
私も感想を述べた交響曲第1番『HIROSHIMA』であるが、実はこの楽曲を作曲したのは、佐村河内守ではなく新垣隆であったわけだ。
私は驚いた。
すごいことが起きたと。
これはイノベーションである。
今回の話を総合すると、佐村河内氏は「作曲家ではなくプロデューサーであった。」という話である。
マーケティングの部分で意図的なウソがあったため、詐欺と言われても弁解の余地はない。
この部分について争う気持ちはこれっぽっちもない。
しかし、幾つかの点において誤解もある。
まず、楽曲について。
今は存在がなかったことにされそうな新垣氏が作曲した楽曲たちだが、時が経てば認められる可能性は結構ある。
後の時代の人たちはモノの良し悪ししか見ないからだ。
新垣氏は『HIROSHIMA』を作曲するにあたってマーラーやチャイコフスキーなどから多くのヒントを得たため「パクリだ」と批判されているが、実際のところパクリとかどうでもいい話だ。
それをいうと現代以降の交響曲っぽいもの、たとえば映画音楽なんかはほとんどチャイコフスキーとかラフマニノフとかクラシックのパクリである。
いや、似ていたり、ヒントを得たりということがダメなのであれば、モーツァルト以降の楽曲全てがパクリかもしれないし、全ては真似からはじまることを考えれば、その発想自体がナンセンスだ。
AKB48若手メンバーに贈る「創造的模倣」のススメ ~守破離~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/0b68de7ff3d86d1def6ac1907ebdedfc
つづいて「作曲家」について。
そもそも「作曲家」という概念自体が怪しいと思う。
音楽に限らず、多くの分野で、ほとんどの作品では創造的模倣や共作は当たり前のことである。
たとえばマンガの製作においては、ペンをほとんど取らない漫画家もいるだろう。
今回の件も、佐村河内氏を「作曲家」というからおかしいのであって、「作曲チーム」と言えば何もおかしいことはない。
佐村河内氏をプロデューサーもしくはリーダーとする作曲チーム、「チーム佐村河内」なら納得である。
やすす先生が作曲家を使いこなしてこそのAKB48なのと、同じである。
そして私が最も驚いたことは、佐村河内氏が作曲に関しては素人に近いということだった。
ある人はこう言う。
「交響曲『HIROSHIMA』が佐村河内氏と新垣氏の合作だと知って納得した。」
どういう意味か?
今時、音楽的才能がある人は、交響曲など書かないのだ。
才能の莫大な浪費だからである。
にも関わらず1時間を超える超大作『HIROSHIMA』はこの時代に産み落とされた。
なぜか?
それは素人が作った「計画書」があったからだ。
専門家なら絶対にやらないであろう交響曲の作曲を、素人が何の制約も感じずに描いたアイディアを元に、一流の作曲家が四苦八苦してモノにしてみせたのだ。
この曲の出来が悪いわけがない。
これは、自分ではモノを作れないが優れた発想力を持つ経営者のアイディアを、一流のエンジニアがモノにする、という構図に似ている。
『HIROSHIMA』は、素人と当代一流の専門家という通常有り得ないコラボレーションによって生まれた伝説的交響曲なのである。
まさにイノベーションである。
(イノベーションは「組み替え」のことである。)
私は、感想の中で「21世紀の交響曲」だと書いた。
それは、今の時代に「交響曲」にお目にかかるとは思いもしないかったからだ。
外してなくてよかった(笑)
佐村河内守『交響曲第1番 HIROSHIMA 』
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/0ebe8dab31cbcc5df38603638d561e96
私も感想を述べた交響曲第1番『HIROSHIMA』であるが、実はこの楽曲を作曲したのは、佐村河内守ではなく新垣隆であったわけだ。
私は驚いた。
すごいことが起きたと。
これはイノベーションである。
今回の話を総合すると、佐村河内氏は「作曲家ではなくプロデューサーであった。」という話である。
マーケティングの部分で意図的なウソがあったため、詐欺と言われても弁解の余地はない。
この部分について争う気持ちはこれっぽっちもない。
しかし、幾つかの点において誤解もある。
まず、楽曲について。
今は存在がなかったことにされそうな新垣氏が作曲した楽曲たちだが、時が経てば認められる可能性は結構ある。
後の時代の人たちはモノの良し悪ししか見ないからだ。
新垣氏は『HIROSHIMA』を作曲するにあたってマーラーやチャイコフスキーなどから多くのヒントを得たため「パクリだ」と批判されているが、実際のところパクリとかどうでもいい話だ。
それをいうと現代以降の交響曲っぽいもの、たとえば映画音楽なんかはほとんどチャイコフスキーとかラフマニノフとかクラシックのパクリである。
いや、似ていたり、ヒントを得たりということがダメなのであれば、モーツァルト以降の楽曲全てがパクリかもしれないし、全ては真似からはじまることを考えれば、その発想自体がナンセンスだ。
AKB48若手メンバーに贈る「創造的模倣」のススメ ~守破離~
http://blog.goo.ne.jp/advanced_future/e/0b68de7ff3d86d1def6ac1907ebdedfc
つづいて「作曲家」について。
そもそも「作曲家」という概念自体が怪しいと思う。
音楽に限らず、多くの分野で、ほとんどの作品では創造的模倣や共作は当たり前のことである。
たとえばマンガの製作においては、ペンをほとんど取らない漫画家もいるだろう。
今回の件も、佐村河内氏を「作曲家」というからおかしいのであって、「作曲チーム」と言えば何もおかしいことはない。
佐村河内氏をプロデューサーもしくはリーダーとする作曲チーム、「チーム佐村河内」なら納得である。
やすす先生が作曲家を使いこなしてこそのAKB48なのと、同じである。
そして私が最も驚いたことは、佐村河内氏が作曲に関しては素人に近いということだった。
ある人はこう言う。
「交響曲『HIROSHIMA』が佐村河内氏と新垣氏の合作だと知って納得した。」
どういう意味か?
今時、音楽的才能がある人は、交響曲など書かないのだ。
才能の莫大な浪費だからである。
にも関わらず1時間を超える超大作『HIROSHIMA』はこの時代に産み落とされた。
なぜか?
それは素人が作った「計画書」があったからだ。
専門家なら絶対にやらないであろう交響曲の作曲を、素人が何の制約も感じずに描いたアイディアを元に、一流の作曲家が四苦八苦してモノにしてみせたのだ。
この曲の出来が悪いわけがない。
これは、自分ではモノを作れないが優れた発想力を持つ経営者のアイディアを、一流のエンジニアがモノにする、という構図に似ている。
『HIROSHIMA』は、素人と当代一流の専門家という通常有り得ないコラボレーションによって生まれた伝説的交響曲なのである。
まさにイノベーションである。
(イノベーションは「組み替え」のことである。)
私は、感想の中で「21世紀の交響曲」だと書いた。
それは、今の時代に「交響曲」にお目にかかるとは思いもしないかったからだ。
外してなくてよかった(笑)
オウムという詐欺集団も、理想の国の創造という「チームプロデュース」の元で、非常に高い技術が必要なサリンを自主製造し、東京の地下鉄にまくという非常に斬新な手法によるイノベーションを実践しました。
戦争で使用する核弾道ミサイルも、平和利用に使用する人工衛星も、技術的には同じものですから、イノベーションという言葉でスケープゴートし都合よく解釈すると、平和利用に使用する人工衛星を開発するイノベーションと国家的に偽りながら、核ミサイルを開発する北朝鮮と同じことになり、本質はやはり「偽りで騙すことをを前提とした似非イノベーション」に収束されます。
AKBは運営もメンバーも、今や恋愛禁止条例や嘘・偽りをネタとした「スキャンダルイノベーション」を起こそうとしているのかもしれませんが、これについても、本質は北朝鮮やオウムと同じで、偽りで騙すことをを前提とした「似非イノベーション」に収束されます。
結局、騙すことで利益を得ることを本質とする似非イノベーションはヤクザ界や風俗界と同根であり、「オウムはサリンという化学兵器を開発して凄い!しかも東京の街中でまくとは最高にファンキーだぜ!」というカルトになるでしょう。
「AKBもオウムと同類要素を少なからずもつカルト」といわれれば、それまでですが。
でも実際は人を欺かずに地道な歩みの積み重ね、「中庸であることの波状攻撃」こそ、凄い。
「フツー」が凄い。
「フツーの波状攻撃」こそ、最高のイノベーションになりうる。
例えば結婚相手を決めるとき、「贅沢は言わない。ごく凡庸・中庸・平均的人間で充分。身長、体重、経済力、体力、知力etc..それぞれ平均的50%の範囲で充分」と、重視する25項目が50%範囲に収まる相手を選ぶとすると、1/2の25乗で3400万人に一人、オリンピック金メダリストやノーベル受賞者や総理大臣になるよりも、ましてや宝くじ1等3億を当てるよりも、はるかに貴重なパートナーになります。
50%多数派マジョリティの常識・中庸でも、互いが25項目当てはまるパートナーは、日本中探して3~4人しかいないわけです。27項目になれば約1億4千万に一人となり、日本には1人もいない確率が高くなります。
中庸の積み重ねはすごい。
一芸に秀でた超人を祭り上げるよりも、奇跡的な存在。
同じように、上位20%の人間を12部門から選ぶ場合。
ダンス部門、歌唱部門、MC、人気etc...
AKBのメンバー300人として、各部門上位60位まで。
実際にはもともとの才能の差はあるだろうけれども、仮に前提条件を平等とすれば、
12部門すべて上位20%に入るメンバーは、1/5の12乗で2億2千万に1人、日本中探し求めても出会えない。
そういう意味で、大島優子はずば抜けて№1というわけではないけれど、あらゆる要素で上位に相応しい魅力を備え、実はこういうメンバーが、一番貴重であり、奇跡的。
(大島優子とがタイプは違うけれども)松井玲奈は、一見何かがスバ抜けているようには思えないけど、ある意味、掴みどころがないような中庸の波状攻撃の中に光る存在感、魅力が溢れている。
過去のAKBの凄さの象徴の一つとして、大島優子や松井玲奈のようなメンバーに共感できる流れ、ファンの熱意を含めて、彼女らをトップメンバーに押し上げることのできたことに、AKBイノベーションの真髄を感じるのですが。
前田敦子や松井珠理奈に対して、大島優子や松井玲奈のようなメンバーでイノベーションバランスが取れていたうちは良かったのですが、いつしか運営がイノベーションの本質を履き違えて、奇抜な炎上やイロモノ、嘘・詐欺・虚偽も含めてイノベーションなのだと、予定調和を壊すことが予定調和になり、果ては炎上方法や不祥事までもが予定調和になり、大島優子や松井玲奈のようなメンバーが生まれる土壌(ファンの熱意のベクトル)を萎えさせてしまった。
ファンもイノベーションと称した詐欺的要素に冷めつつあるんですね。
松井玲奈がSKEのトップメンバーで有り続けたことは、(比較的説明のつきやすい山本彩がNMBの花形メンバーであることよりも)、ある意味AKBらしいイノベーションの神髄、運営のゴリ推しや企画ものではなく、ファンが自然と感じ取って共感した価値観だと思います。
企画モノ・小便臭いキャラモノばかりが増産される勘違いイノベーション、子供の大量生産には食傷気味なので、大島優子や松井玲奈のような(実年齢ではなく本質的な意味での)大人メンバーをファンが自然と押し上げたくなるような土壌を生み出すことこそ、AKBが誇るイノベーションだった(過去形)と感じます。
AKB48の話はここではしていません。
単純にこの組み合わせでないと曲が生まれなかったという話です。
身勝手すぎやしませんか?
卑怯者ほど優遇される納得できないというAKBのいまと
佐村河内が
比較される文脈は自然の流れにみえますね
ずっとAKBの話題が続いて嘘や詐欺でaKBが崩壊してるという流れの中で佐村河内の話題が出てきたら
AKBと関係ないと
とらえるほうが文脈でむづかしい
卑怯者ほど出世する法則
実際ネットでは麻原と佐原河内が並び称されて検索ワード上位にきてますね
「馬鹿と天才は紙一重」と言われるように、
「イノベーション」と「壮大な詐欺プロジェクト」は、
「表裏一体・紙一重」の部分はあるでしょうね。
佐村河内守と麻原彰晃は、社会がこうした「神話」を欲しがっている。背景にあるのは、この大衆心理。身障者が血と汗で苦悶しながら、名曲を作り上げる・・・。
感動したい大衆は、簡単にこの手の物語に洗脳され、絶賛を送る。
その大衆構造は、現代の宗教の堕落に満足できなくなっていた信者が、麻原彰晃のペテンに騙された構図。そこにマスメディアが便乗し、「神話」が作り上げられる。
ブームの裏側には、必ず仕掛人がいる。
三枝成彰が「全盲の作曲家」麻原の作詞作曲とされるオウムソングを分析して見せたのが1995年で19年前 You Tube参照。
https://www.youtube.com/watch?v=349Lx6HfdRY
佐村河内守はそのころ、1995年から1996年まで道路清掃のアルバイトで生計を立てていたとされる。
1996年頃、33歳で映画『秋桜(cosmos)』の音楽を手がける。
2002年、身体障害者手帳(感音性難聴による両耳全聾、身体障害者等級第1種2級、両耳鼓膜欠落)の交付を受けている。
2003年秋、『交響曲第1番 HIROSHIMA』を完成。この時三枝は佐村河内の第1交響曲を絶賛、彼の提灯持ちを務めている。
三枝成彰がオウムソングを分析して見せたのが1995年で19年前。佐村河内がゴーストを使い詐欺を始めたのが18年前。
見事に時期が一致する。
「全聾の作曲家」は「全盲の作曲家」からヒントを得た三枝が仕掛け人となり演出したと考えるのは不自然ではない。
参考サイト 現代のベートーヴェンは麻原彰晃問題と根は同じ http://blogos.com/article/79802/
そして、
「イノベーション」と「壮大な詐欺プロジェクト」は「表裏一体・紙一重」いう意味で、
AKBはかなり際どいところを彷徨っているし、両方の側面を内包しているのも事実に思う。
どうしても「物語を売る」ことが目的化すると、「壮大な詐欺プロジェクト」に陥り、収束しやすい。
本来、作品そのもの(AKBであれば曲やパフォーマンス)が追求されて高めるのが理想で、アメリカ等はいくら物語が上手くできてセンセーソナルであっても、前提となる作品やパフォーマンス自体が出色でないと評価されない傾向が強い(マイケルジャクソン等)けれども、日本は作品自体を飛び越えて、物語に喰いつく。
だからこそ、尚更「理念」の存在が重要になる。
オウムも佐村河内もAKBも、「イノベーションの要素自体を評価する」という視点では、その通りだと思います。
そして、「イノベーション」と「壮大な詐欺プロジェクト」の要素が「表裏一体・紙一重」に内包していること自体は問題ではないし、どんな人間も組織も、誰しもが併存しているものだからこそ面白いのであって、ただ、AKBに関しては根底の本質部分で、麻原や佐村河内のように社会を欺いてカネや名声を得るイノベーション(物語)ではなく、理念あるイノベーションを創造する機関である側面を失ってほしくないということです。
AKBも前田敦子や大島優子や神7といった理念でもあり神話の要素もあった部分が崩れた今、理念を再構築するのは良い機会かもしれません。