進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

呼吸を意識した途端に、息をするのが辛くなる

2011-09-15 22:27:08 | スピリチュアル
誰かが言った。


「呼吸を意識した途端に、息をするのが辛くなる。」


と。


人には、心の奥底に閉じ込めて起きたいものもある。


あの時、あの瞬間、あのこと、今かもしれない。


本当は意識していたいけれど、それが辛いから、どうしようもなくて。


それで、息を止めて、少し苦しくなったら息をする。


深くふかく息をする。


息をするのが、幸せだ。


こんなにも素晴らしいことだったなんて、と感じ入る。


そして、しばらくすると、何もなかったように息をするのを忘れる。



今、息をするのが辛い。

「努力は必ず報われる」 高橋みなみ道

2011-09-15 16:44:13 | AKB48

「努力は必ず報われる」

という言葉がある。

確かに、努力は嘘をつかないが、この言葉は多分に誤解される要素を含んでいる。

「何が」報われるのか、

そこが明確にならないと、「報われる」という言葉の解釈が多様に存在してしまう。

もし「事前に想定した、ある特定の目的を達成すること」=「報われる」という意味ならば、

努力は必ずしも報われない。

私が空中浮遊をしたいと思って毎日必死に修行しても、おそらく達成不能であろう。
(それが達成可能だとする宗教団体があったな。)

しかし、努力が足りないからだと言う人がいるかもしれない。

努力が足りないから、お前は空を飛ぶことができないのだと。

これは単純なレトリックだ。

「目的を達成=努力が報われた」として「目的が達成できず=努力が足りない」とすると、

「努力は必ず報われる、ただしあなたの努力次第で」という意味となり、

どんな結果になっても「努力は必ず報われる」が真になる。

一方、努力ではなく、目的の方に原因を求めても、単純なレトリックが出来上がる。

「努力は必ず報われる、あなたの目的が正しければ」という意味で使えばい。

「努力は報われるんだ、報われないのだとしたら、君の目的がおかしいからだよ。」と言えばいい。

どんな結果になっても「努力は必ず報われる」が真になる。

さらに言うと、「努力が足りない」とか「目的がおかしい」とかいう言葉が間違っていると言うのは難しい。

これは「神の不在証明」問題といって、「努力が足りない」とか「目的がおかしい」が間違っていると証明することはできない。

人間が空を飛べる方法がないと証明することはできないのだ。

我々が知らないだけで、本当は人間が空を飛べる方法があるかもしれない可能性は否定しきれない。

飛べるのであれば、飛べるということを証明したことになるが、

飛べなくても、絶対に飛べないとは言い切れない。

「努力は必ず報われる」

この言葉は非常に使い勝手がよくて、ズルい。

★★★★★★

「努力は必ず報われる」といえば、AKB48のキャプテンこと高橋みなみさんのイメージだ。
第3回選抜総選挙で放ったこの言葉はいろんなところで使われており、彼女を表す代名詞みたいなものだ。

なぜ、突然こんな話がしたくなったか。
彼女の姿を外から見ていて、清々しいなと思ったからだ。

どこへ向かえばいいのか、事前にわかっているなら、努力のしようもあるが、
ほとんどの悩みは、どうしたらよいのかわからない、ということからくる。
そして人生にありふれているものといえば、その類の悩みだ。
努力する気持ちを持っているなら、それだけで幸せなことだ。

しかし、もっと幸せな努力がある。

それは「道」である。

「努力ができる人」という意味で、「努力の天才」という言葉が使われることがある。
それは間違いだ。
努力をするのに天才も馬鹿もない。

違うのだ。

前述したように、普通、努力は「事前に想定した、ある特定の目的を達成する」ために行われる活動だ。
しかし、多くの人は、目的すら持っていない。

いや、

この相対的な宇宙の中では、絶対的な価値などないのだから、
どんな目的も冷静に考えれば全てその瞬間に泡になって消えてしまうものばかりなのだ。
本当の意味で意味のある目的なんてない。

だから「道(みち)」なのだ。
(タオでもいいけど)

道には、終わりがない、明確な目的もない。
ただ極めるようとするところに意味がある。
柔道、剣道、茶道、華道、アイドル道、etc...

努力というのは結果を約束するものではない。
「事前に想定した、ある特定の目的を達成すること」=「報われる」としてしまうと、
目的のない者にとって、人生は突然、無意味なものになる。

だが、人生を道だと捉えると、すっと「生きる」が心に入ってくるだろう。
人生は軽快で華やかになる。

目的がなくても、その道を極めるために努力ができる。
幸せだ。

どうしたらよいのかわからないのが人生だとしても、
なんら恐れる必要はない。

人生は道だ。

「高橋みなみ道」とかけて「努力は必ず報われる」ととく、

その心は、「人生は道」だから。

ちょっと強引か。

科学技術的センスとLNT仮説となんとか

2011-09-15 12:48:23 | 政治
※単なる個人の趣味レベルの読み物なので、時間のない方は無視してください。

私は放射線に関しても分子生物学に関しても全くの素人で、何の知見も持っていない。
素人は黙っていろと言われても仕方がないのだが、あえて言いたいことがある。

科学技術に関する「センス」についての話だ。
これは、科学技術教育を受けたことのある一人の人間として単純に思う、感覚的な話だ。
だから、何の参考にもならないし、多くの人にとっては無意味な発言となるだろう。
基本的には、自己満足のために書くエントリになるだろう。
しかし、もし、このエントリを読む中で、一人でも何かを感じる人がいれば幸いだ。

当Blogでは、3.11直後から多くの日本人は科学技術教育を受けていないので、
日常的に触れることのない想像し難い事象について理解することが難しく、
ゆえに不安に駆られて不合理的な行動をとると主張してきた。

数学や物理学をやったことのある人なら容易に想像できることだが、これらの学問は目に見えない事象を扱うことがほとんどだ。
微細なミクロな世界の話や、大きすぎて想像もできないマクロの話、3次元を超える多次元的解釈など、こういうものは理解し難い。
(単に小さい大きいといったものは認識できるスケールにグラフ化すればよいが、多次元マトリックスを2次元マトリックスに落とし込んでも一般には意味不明なように、膨大な前提知識なしに理解し難いものは多々ある。)
この種の問題を考察する能力は、原始の時代には人類には必要とされなかったため先天的には備わっておらず、後天的に教育によって磨くものだからだ。
そして、これらの科学技術をどう捉え、どう利用すべきなのかという科学技術倫理は、科学技術に関する歴史認識を通して学ぶ以外に方法はない。
そのような機会が、科学技術教育を受けずに育ってきた人たちにあっただろうか。

また、原始からの生存競争に最適化された人のバイアスは、リスクに関する合理的な評価も妨げている。
今、我々の眼に映る世界は、人にとってあまりに多様かつ複雑怪奇で、既にある思考フレームを利用しなければ立ち止まり悩み続けるばかりだ。
何らかの判断をする際に、なんらかの偏見を利用することは、多くの場面では実用性という観点では吉なのだ。

上記の観点より、当Blogでは、基本的に放射線被爆の問題は、科学の問題ではなく政治の問題であると主張してきた。
(科学的事実を明らかにする努力は必要だが、それとは別に政治的な問題として扱うべき問題でもある。)

そもそも、閾値なし直線仮説こと「LNT(Linear Non-Threshold)仮説」そのものが、十分に政治的要因によって設定された基準である。
LNT仮説に科学的根拠はないが、安全方向に倒しておいた方が無難という政治的配慮により採用されている。

トンデモと言われても、ドウデモと言われても結構なのであるが、
しかし、科学技術教育を受けるなどして、ある程度に科学技術的センスを磨かれた人なら、「LNT仮説」に首を傾げるに違いない。

「閾値なし直線仮説」という概念が、非常に非自然的なものだからだ。
(何度も言うが、政治的要因によって作り出された人工的な仮説なのだから、非自然的で当たり前なのである。)
唯でさえ直線を嫌う自然界で、そんなものが自然状態であるわけがない。
と、直感的に思うのだ。
(あくまで感覚的な話をしている。専門的な知識を基にした判断ではない。これは感覚的な話だ。)

一方で、閾値なし直線仮説(LNT仮説)のような「論理の単純化」は、物事を理解する上では非常に重要なツールではある。
我々は、論理の単純化によって複雑で難しい理論を、ごく簡単に把握することができるのだ。
例えば、地球上で物が地面に向かって落ちることは、非常に便利な論理の単純化だ。
実際には、重力に引かれて落ちるわけだが、その理論的背景など知る必要はない。
この論理の単純化によって「30階のビルから飛び降りれば地面に叩き付けられて死ぬだろう。」といったことが誰にでもわかる。

しかし、論理の単純化は「諸刃の剣」でもある。
理解しやすいことが過信を生み出し、かえって誤解を招くこともある。


淘汰と適応進化の観点から考えても不自然だ。

人類が生まれるずっと前から、地球上の生物は自然状態で宇宙や鉱物からの放射線を受け続けている。
放射線被爆に関してデリケートな生物は、おそらく地球上に生き残っていない。
弱い、もしくは運のない種は淘汰されるし、また生き残った種は環境に適応する。
(ダーウィンは「強弱ではなく環境に適応できない種は生き残れない」と言った。)
地球には、そういった環境に適応できない種が淘汰されるには十分な期間があったはずで、どちらにせよ、低放射線量で大きなダメージを受けるような種は生き残っていないはずだ。

他にも「健康」についての考え方として、純粋にダメージがない状態を健康と言うのは間違っている。
生きることが他社や環境と関わることを前提としている以上、生きることそれ自体はダメージを受けるのは必然なのである。
だから、病気や健康被害といったものと、うまく付き合っていくことを健康といわねば、地球上から健康な種は消えなければならない。
(存在できないものを目指しても仕方がない。)

健康被害をもたらす可能性のあるものは腐るほどある。
車、携帯電話、タバコ、酒、仕事、上司、配偶者、恋人、いつも強引に付き合わされる自慢話、etc...

単純にリスクとベネフィットによるトレードオフと言うつもりはない。
時と場合によって逃げることが必要な場合もあれば、うまく付き合っていくことがベターな場合もある。
何かの信念に基づいて我慢する時もあろう。
それが不条理かつ不合理だとしても。
問題は、社会や個人の目的や許容範囲をどこに設定するかであって、害があるかないかではない。
いや、社会構造によっては、その問いすら間違いなのかもしれない。
なりゆくままに、動的に在り方を変化させ続ける、という在り方もあるだろう。

話が少しそれてしまった。
いつもの悪いくせだ。
そして、語るのが面倒になってきたので、そろそろ結論づけたい。

そうだ。
科学技術的センスの話をしたかったのだ。

直感的に「LNT仮説」は不自然だと思う。
根拠なんかない。
直感的にそう思う感覚的な話だ。
これは物事を理解しやすくするための「論理の単純化」なのだと思う。

事故が起きるまでは、それでよかった。
放射線の健康被害を浅く理解するには、それでもよかった。
だが、実際に事故が起きてしまった今、物事は「論理の単純化」の域を脱する時期がきてしまったのだ。

で、センスをどうやって伝えるか。
カッコよさでないか。
「我々は、どこを目指して歩むのか」という、政治の問題なのだと、感覚的に思う。