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進化する魂

フリートーク
AKB48が中心。
気の赴くままに妄想をフル活用して語ります。

「若さ」とは最適化しないこと

2010-09-17 00:02:42 | 哲学・思想
モギケンは冴えてるよね。

モギケンは頭がいいし、物知りだし、何よりも若い。
若さとは精神的な若さをいう。
精神的な若さの意味は、最適化し切らないってこと。
個人的に「老い」の定義は「最適化具合」だと思っている。

なぜ人間は老いるかって言えば、最適化しないために常にオープンな部分を持っていなければならないからだ。
これってそんなに簡単じゃない。
簡単だったら日本人みんなあんな暗い顔してないだろう。

極端な話、ある日突然、自分の家に他人が居候することになるのを許せるかって話と似ている。
うどん頼んだのに蕎麦が出てきて笑える素養があるかとかね。

その点、モギケンは偶有性について語るだけあって、不確定性を常に担保してる。
これが若さの秘訣だね。

どうせ、ベタ記事にしかならねえぜ。(茂木健一郎)
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2010/09/post-e532.html

水野氏投入で菅政権はリアリストになるか。

2010-07-29 15:02:51 | 哲学・思想
内閣府審議官に水野氏起用へ=民間の著名エコノミスト-政府
http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2010072900413

水野和夫氏を投入ですか・・
いろいろやることが違うな菅政権は。
確かに彼は「新自由主義は終わった」と主張してますね。
そういうところは菅首相と一致するのかもしれませんね。
経済オンチを指摘されて、分析家を投入という感じでしょうか。

彼の歴史や哲学に関する分析はいいと思いますけれど、彼はポストモダン色が強くてね。。
夢のないエコノミストのイメージが強いけれど、そんな現実路線の分析を突きつけられて菅政権は大丈夫なのだろうか。
菅首相にはもう少しリアリストになって欲しいと思っている人には朗報だろう。
個人的には、水野氏は傾聴に値するエコノミストだと思いますけれど、行動派ではないから、政治の世界でもまれてどうなるか、悪い方向に振れなければよいなと願います。

朋有り遠方より来る

2010-07-23 14:31:01 | 哲学・思想

子曰く、学びて時にこれを習う、亦た説ばしからずや。
朋有り遠方より来る、
亦た楽しからずや。
人知らずして慍みず、亦た君子ならずや。
(論語)

こちらに出張で着ている友と会った。
学生時代にいろんなことを語り合った友だ。
あの頃、自分が発していた言葉の意味を、今になって理解したりする。
まさに「学びて時にこれを習う、亦た説ばしからずや。」である。

あの頃みた未来の自分には遠く及ばないかもしれないが、
決して退化などしていない。
進化していることには間違いない。
ただ、あの頃目指した自分とは違う自分になっているだけだ。

これは学びの本質的な問いを我々に投げかけている。

それは、人は学ぶ前に学んだ後の自分のことはわからないということだ。
だから学ぶ前に立てた計画や目標は、学んだ後にその意味を変えてしまうことが多い。
また、学んだことというのは、学んだ時に全ての結果が出るものでもない。
例えば、学校を卒業する時点で、学校で学んだことの全てを理解することは難しい。
往々にして、学校で学んだことは、卒業後、社会的生活の中で理解されることの方が多い。
理解というのもに限りはなく、何重にも繰り返し重ねられるものだからだ。

学んだことは、一度だけではなく、何度でも繰り返し我々に理解を求めてくる。
学びは決して完結しない。
そういう意味で、完結しない学びを提供できる教育こそ本来的な意味で意義深い教育といえるだろう。
教育機関が単に知識や技術を伝えるだけために存在するかのような幻想が日本を覆っている。

名監督に条件はあるか

2010-06-25 10:30:55 | 哲学・思想
デンマークに完勝だった。

デンマークは日本に勝たないと決勝トーナメントに進めないため、どうしても攻撃に出ねばならず、状況としては日本に有利だったが、先制点を取れたことで圧倒的に有利になった。
基本的に、攻撃するためにはリスクを犯すわけで、相手にチャンスを与えることを意味するからだ。
戦略の基本セオリーが教える通り、戦いは攻める方が不利なのである。

(もちろん、力の差が圧倒的にある場合、例えば相手がブラジルやアルゼンチンだったら話は変る)

デンマークは得点で日本に先行されたので、集中力を欠いてしまい、組織的で戦術的な動きができなかった。
デンマーク攻撃陣は組織的に良く守る日本デフェンス陣の餌食になった。

よく近代サッカーは戦術性が増したため、つまらなくなったと言われるが、私は最近のサッカーを見るにつけ「組織力とは何か」を自問してしまう。
スーパースターばかりを集めても、戦略的に陳腐なチームは試合には勝てない。
チームを作るフロントや監督は、チームを取巻くあらゆる要素を、試合に勝つために構築していかなければならない。

試合に勝つための最終的な力を、ここではチーム力と呼ぶことにしよう。

チーム力を高めるためには、どんなに優れた選手も要素の一つでしかないのであり、ゆえに、そこにはある種の非人道的なものが入り込む。
勝つためのチーム力を高めることが、チームを経営する側には目的付けされるため、選手は重要な要素とはいえ一つの要素に過ぎないのである。
特定の能力に秀でる人気のある選手が起用されないことは十分に有り得る。
チームにとって重要なのは、チーム力を高めることであって、それは選手の能力に比例するとは限らない。
チーム力を高めるために必要な要素と、その構築方法が主眼点になるのだ。

ただし、この議論が有効なのは「試合に勝つことが目的」である場合だ。
実際には、世界はより複雑で、ただ単に試合に勝つことが目的になることは稀だ。
「どう勝つか」「どう負けるか」も注目されるし、監督の人生も選手の人生も、その試合や大会だけでは終わらないのだ。
「我人生、この試合のためにあり」と言えるようならばよいが、監督も選手もスタッフも、その後の人生は続く。
「"その"試合に勝つことがだけが目的」になることはない。
誰もが一時的かつ短期的に、それを求められるが、情熱は冷めるのが必定である。

こうした実世界の要求は、監督や選手やスタッフに矛盾した要求となって突きつけられる。
"その場"では勝つことが目的となるが、場が変れば目的が変ってしまうのだ。
そういった目的が変更してしまう状況を予測できる場合、人はどう動くのか。

それは結局「名目としてチーム力を高めることが最善でありながら、それとは別に他の価値基準を求める」という形になって表れる。
なかなか人間を管理する役割についてコンピュータが人間にとって変らないのは、この裁量的バランス感覚を、人間がなかなか形式知化できないということにある。

名監督や名選手に条件はないのだ。

[つぶやき] 冴えない自分と目的論

2010-06-22 12:06:12 | 哲学・思想
最近、本当に冴えていない。
これは自分自身、実感として手に取るようにわかる。
(当Blogのエントリが冴えていないのは前からだが・・)

忙しいとか体調が悪いとかとは関係がない。
暑くてダルい梅雨とも関係がない。

「自分自身が止まっている。」

そんな表現が丁度いい。
人生の複数均衡状態に陥った感じだ。
こっちを立てればこっちが立たず。
この世界は無限トレードオフ地獄(視点によっては天国)だ。

この悪い均衡状態から抜け出るためには、よくキッカケが必要だと言われることがあるが、そもそも無限トレードオフ地獄に完全解など存在しないから、神の視点に立てば「悪い均衡状態」などというものが存在しないはずだ。
私が、「それ」を「悪い均衡状態」だと「思っている」に過ぎない。

そういうことを気づかせてくれる格言みたいな言葉が昔からあって、例えば「幸せは足元に転がっているさ」とか「住めば都」とかがある。
宗教的な観点からいえば、悟るのに条件は必要ないわけだ。
「悪い均衡状態」などというものはもともと存在しておらず、私がそう思っているだけに過ぎないからだ。

だがしかし、私は人生を悟ること自体にさほどの価値を見出していない。
むしろ、私は悪い均衡状態から抜け出すことの方に価値を置く。
悟ることは生きることと違うと思っているからだ。
悟るのであれば、生きている意味が無い。
生きる意味が無いのだ。
仙人は人里離れた山奥でひっそりと死にながら生きればいい。
私はそういう生き方に興味がないわけではないが、望みもしない。

では、私はどうするべきか。
さきほど、「悪い均衡状態から抜け出すためのキッカケ」について話をしたが、これは少し違う。
悪い均衡状態から抜け出るために必要なことは、「キッカケ」ではなく「目的地」だ。
我々が単純な物理法則に従って生きるだけの存在なら、人生を考える上では「キッカケ」で十分だ。
だが、我々には意志がある。

例えるなら、大海原を航海する旅人だ。
我々はただ単に潮の流れに乗るだけの存在ではない。
目的地へ向かって航路を定め、嵐を避け、荒波にもまれながらも進むのだ。
キッカケは必要だが、キッカケだけでは不十分だ。

何の目的も持たずに漂流することも、時として有意義かもしれない。
しかし、我々がただ流れに流されるだけの存在ではないために最も必要なものは目的なのではないか。

そうだ。
私は、人生すら目的論的論法で語るべきだと思っている。
当Blogで繰り返し述べていることだし、多分、私は死ぬまでこれを繰返すのだろう。

私が悪い均衡状態に陥って思い悩んでいるということは、私にとっての目的が見えていないからに他ならない。
目的地があれば、進むべき道は必要ない。
道は見えるし、必要なら作られるものだからだ。

人生は私に問いかける。

「お前の目的は何だ?」

人生で最も難しい問いだ。

リベラリズムと日本

2010-05-17 11:58:47 | 哲学・思想

常連コメンテーターのここなっつさんにコメントをもらいましたが、形而上学的な話題だけでなく、現実世界における今日的問題、例えば本エントリのような話題についても議論を深められていけると嬉しいです。
どなたでもコメント歓迎します。


16日放映の「ハーバード白熱教室」は第7回「嘘をつかない練習」だった。

ハーバード白熱教室(NHK)
http://www.nhk.or.jp/harvard/

前回から引き続きイマヌエル・カントが言う「道徳」からはじまって、今回は同じハーバードの教授だった政治哲学者ジョン・ロールズの「正義論」を基に公平な「契約」について議論を深めていく。

イマヌエル・カント(Wikipedia,japan)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88

ジョン・ロールズ(Wikipedia,japan)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA

この講義全体のテーマは「Justice(正義,公平)」で、正義とは何か、公平とは何か、それを実現する手段は何かについて、様々なトピックを取上げて議論を深めていく。

今回の見所は、ロールズの「無知のベール」だろう。


正義の根拠を、自由かつ合理的な人々が、彼が「原初状態」と名付けた状態におかれる際に合意するであろう諸原理に求めた。この原初状態とは、集団の中の構成員が彼の言う「無知のヴェール」に覆われた-すなわち自分と他者の能力や立場に関する知識は全く持っていない-状態である。このような状態で人は、他者に対する嫉妬や優越感を持つことなく合理的に選択するであろうと推測され、また誰しも同じ判断を下すことが期待される。そして人は、最悪の状態に陥ることを最大限回避しようとするはずであり、その結果次の二つの正義に関する原理が導き出されるとした。


仮説的な原初状態に置かれた個人は、平等な、それこそ公平な立場で判断を行うというわけだ。
この前段階でサンデル教授が説明するのが、カントの感性界/叡知界の区別。
カントは、人間は感性界(現象界)に属するだけでなく叡知界にも属する人格としても考え、現象界を支配する自然の因果性だけでなく、物自体の秩序である叡知界における因果性の法則にも従うべきことが論じた。
カント曰く、「叡智界の秩序に従うことが普遍的な唯一の道徳法則に従う方法だ」そうだ。

つまるところ、正義は「仮想的な社会契約」から導かれる。
そのために「個人は基本的に自由でなければならない」し「機会は均等化されるべき」だし、社会的/経済的不平等は「恵まれた人の経済的改善が恵まれない人の状況を改善する」なら許される。
格差自体を否定するのは共産主義だが、格差も恵まれない人の厚生に役立つならいいわけだ。

これがリベラリズムに繋がっていくわけだ。

違う言い方をすれば、国民全員が原初状態にいるのが理想で、そのためには国民全員の厚生福祉を政府が実現するという論拠にもなるし、また政治家の身分を保証することで、政治家が原初状態にいることができて、特定の利益団体の票に左右されずに済む訳だ。
この点は「政治家は質素清貧で志によってのみ動かなければならない」という日本とは大きく異なる気がする。

しかし当然ながら、この無知のベールなんて考えは攻撃されることになる。
最も単純な批判は、「原初状態なんて所詮、仮想であって人々が完全に無知になれるとは考えられない」というものだ。
まぁそれはいいとしよう。
あくまでも原初状態に近づければいいわけだから。

一方でリベラリズムの「他人の所得の増加から、自己の効用も増加する可能性」は多いにあると思う。
犯罪抑止とかね。
でも、一つ問題がある。
恵まれている人から恵まれていない人への「所得移転の最適化」は可能なのか、という点だ。
これは、今の日本で起きている今日的問題といってもいいだろう。
「金持ちに増税して貧困対策に用いる。」という問題設定だ。

増税って人のやる気を削ぐと思うんだ。
リバタリアニズム的観点から言えば、増税は奴隷制度に等しいわけだ。

結局、公平な分配などというものは、正義が相対的な価値観だから、有り得ないのではないか。
すると授業の最初「正義、公正とは何か?」に戻ってしまう。
今後、サンデル教授がどのような論理展開を行いながら、正義や公正を説明していくのか、目が離せない。

命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ = 自分の最大化

2010-05-14 12:15:13 | 哲学・思想
光の道 テキスト中継ログ #hikari_road
http://www.tarosite.net/blogging/-hikari-road.html

うむ。
やはり孫正義氏は日本における唯一にして最大のビジョナリストだ。
彼の主張が正しいかどうかは、さほど関係がない。
当Blogでいつもいうように、ビジョナリストに求められるのは、そのビジョン(物語)を共有する力があるかないかだ。
それは、何が正しいかといことを保証することは、誰にもできないからだ。
あくまでも、我々にできることは最善(=極限的に相対的な善を追求すること)を考えることだけだ。

坂本龍馬はビジネスマンだったが、孫正義氏は政治家になってほしい。
50代でやるという大勝負が終わったら、次世代育成をするという60代は政治家になってほしい。


孫「100年に1回のパラダイムシフトが国費ゼロでできれば、異論はない、と。ない。もし光の道で国費がかかるとなったら、僕は頭を剃る。国賊と呼んでいい。約束する。もしできないと思うなら、できない理由を数字で、ロジカルに反論すべきだ」


あ、頭を剃る?(笑)
思わず吹き出したが、いい!
新世代の侍だなこの人は。


孫「自分が生まれた国を愛することが、なぜ恥ずかしいんだ。自分が愛するこの国のために、何か少しでも貢献したい、どこにためらう必要があるんだ」


彼の魅力はこれだよね。
「なぜ恥ずかしいんだ。」「どこにためらう必要があるんだ」

ストレートに心の奥の方にぐさっと刺さる。
なぜ彼は他の人にはとれないリスクを取れるのか、それは彼自身が語ったことのある話に表れている。
西郷隆盛の言葉だ。

勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される山岡鉄舟に関するエピソード
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B2%A1%E9%89%84%E8%88%9F


慶応4年(1868年)、江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、3月9日官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着き、単身で西郷と面会。このとき、官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったという。 西郷との談判において江戸開城の基本条件について合意を取り付けることに成功。

その行動力に西郷隆盛はこういったとされる

命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也。
此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして 国家の大業は成し得られぬなり



「無私」だ。
「私」という自分に内在する最大の相対性を脱却できるかどうか、いや、より正確にいえば、周囲の相対的価値ではなく、より根源的な「私」に近づくことができるかどうか。
私なりの表現でいえば、「私」という最大の相対性を発揮できるかどうか。
そういうことだ。

討論に負けない方法

2010-04-20 11:05:54 | 哲学・思想
前回のエントリで「ハーバード白熱教室」中の「リバタリアン・チームのレベルが低い」ことを取上げたが、どうレベルが低いのかについて説明していなかったので、少し書くことにする。

サンデル教授は、第3回のリバタリアニズムの議論を展開する前に、リバタリアニズムが依拠している考え方として「自己所有権※」について触れている。
ノージックらが提唱するリバタリアニズムがロック的な自己所有権に依拠しているというのだ。(私が知る限りジョン・ロックの所有権論は一様ではなく、グーグルで検索すると多くの解釈が存在することがわかる。なので、ここでは独断と偏見で私的解釈に基づくものを採用する。)

自己所有権というのは「自分の所有者は自分」という権利だ。
すべての人が自分自身の身体に対して所有権を持っており、所有権は労働によって獲得され、保持される。
自然状態から労働により生み出されたものは、その労働主の所有物である。
リバタリアニズムでは、労働によって生み出された利益は労働主の所有物であり、それを税金などで徴収するのは強制労働に等しく、つまり徴税国家とは国家による奴隷制に等しいというのだ。
ゆえに、個人の裁量では達成できない警察や消防、国防などの最小限の公共財に国家の役割を限定すべきであり、これが「小さな政府」への流れとなる。

サンデル教授は、このリバタリアニズムへの賛同者と反対者に分けてディベートをさせるわけだが、ある程度この手の議論に慣れ親しんだことのある人なら、この時点でサンデル教授のトラップに気づくはずだ。

「あ~、サンデル教授め、最初からリバタリアン・チームを崩壊させるつもりだな」と。

どうしてか。
それは、サンデル教授が「リバタリアンとは・・"自己所有権"に依拠している・・」と話を展開しているため、その議論の中で生まれるリバタリアン・チームは必然的に「自己所有権」に依拠した議論を展開することになる。
そして、あろうことかリバタリアン・チームは、そのままサンデル教授の術中にはまり、「自己所有権」を前提として議論を展開してしまう。

馬鹿である。
私が反対陣営なら真っ先に「自己所有権」を攻撃するからである。
これはディベートの基本中の基本だが、相手が依拠している前提を崩しにかかって、それに成功すれば相手を総崩れさせることができる。
現実に、講義の最後の方で、ある学生から「自己所有権に対する疑念」が投げかけられ、サンデル教授が待ってましたと言わんばかりに取上げていた。
初めから彼のレールの上に乗っかっていたのだ。

「反証可能性のないものは科学ではない」という言葉があるように、どんな科学的理論も、必ず反証可能性を含んでいる。
反証可能性というのは「前提」のことだ。
どんな理論にも「この理論が成立するのは、その前提に○○条件が成立する場合にのみ限る。」という前提が必ずある。
「反証可能性」という言葉からもわかるように、前提が崩れれば反証成立である。
その時点で、どれだけ輝かしい理論も崩壊するのだ。

だから、例えばプレゼンする時には、手馴れている人は必ず議論の初めに「前提」を明確にしておく。
自分の責任範囲を明確にする上でも、発信者には必須の要件である。
つまり、「この前提が成立すれば、この考えは真である。」というのが普通。
前提が共有されていれば、考え方について正しいかの議論となるし、前提が怪しければ、前提が正しいかの議論になるだろう。

もし、ディベートで相手に勝ちたいのなら、相手の「前提」を掴み、攻撃することだ。
逆に負けたくないなら自分の「前提」を掴まれないことである。

もう一つ、ディベート・テクニック(寝技)を披露しておこう。
討論などをしていて、負けそうになった時、よく使われるテクニックだ。

それは、「前提」を「反証不能領域」に持っていくことだ。
「反証可能性がなければ科学ではない。」ということは、つまり「科学的理論は全て反証されるもの」なのである。
つまり、どのような科学的理論も負ける可能性を含んでいる。
そこでだ。
負けたくない場合、非科学的理論を打上げればいいのだ。
「前提をひっくり返される=負け」なのだから「ひっくり返されない前提=負けない」を使うのである。
それが、正しいか正しくないのか、説明付けられない前提に依拠すれば、絶対に負けない。
「神の存在証明」と同じく、物事は否定しきることができないからだ。
「神の存在証明=神が存在しないということは証明できない。」
神がいることを説明できなくても、神がいないことも説明することはできない。
神を存在することを説得するのは難しいが、神が存在しないと言い切ることはできない。
つまり、負けないのだ。

前提を反証不能領域に持っていくと、あとは神学論争になる。
そうなると、論理の正しさよりも、「物語としての説得力」が勝敗の分かれ目となる。
より多くの人を納得させられた方が勝ちだ。

この論法を多用する組織は地球上に多い。
宗教組織がその典型だ。

(私は勝つことを目的に議論しているわけではないが)
私は、これまで数多くの宗教関係者と議論してきたが、まず勝てない(負けもしないが)。
最初にお互いの知識をけん制しあったあとは、物語比べ(知恵比べ)になる。
どちらが想像力と創造力を発揮できるかの勝負だ。

もしあなたが「宗教団体に入る人なんか頭悪い」と考えているなら、それは相当な勘違いである。
そういうあなたこそ、そういう団体に入る可能性がある。
彼らはかなり頭がいい。
ある有名宗教団体の幹部などは、非常に頭がよかった。
その辺のボンクラ心理学者程度やビジネスマンなら負けると思う。
哲学者としては当然この手の話は既知なので神学論争になるだろう。
(妄想族の端くれたる私ですら妄想負けを覚悟したほどであったが、長期間の往復書簡の末、最後は理解し合えないということで途絶した。)
彼らは、ここに書いてあるディベート・テクニックを熟知しているのだ。
なんとも恐ろしいことだ。

問題は、議論の「前提」に気づく能力があるかどうかなのだが・・。

保守とバランス

2010-04-07 10:27:09 | 哲学・思想
平沼新党ですか。
平沼氏といえば日本的「保守」陣営の代表的政治家ですね。

「保守」といっても、いろんな「保守」が乱立していて、「私は保守だ」といっても、どの「保守」なのかさっぱりわからないのが、日本の現状です。

論理の単純化ということで批判されるかもしれませんが、説明してみます。

「守るべきものとは何か?」
これが彼ら保守陣営の問題提起で、「守るべきもの」の違いが、立場の違いです。

それで、今回の新党騒ぎを見てみましょう。
石原慎太郎氏が絡んでいることからわかるように、彼らの「保守」とは、「古きよき日本の伝統」を守ることです。
というと単に守旧派と思われがちですが、基本的には「改革する保守」というのが彼らの主張です。
保守というと、変化を認めない人達というイメージが強いかもしれませんが、時代とともに変えるべきところは変えるが守るべきものは守る、これが「改革する保守」です。

と、書いてみたところでみなさん理解されると思うのですが、要は「保守」という立場を表明しただけでは、その人達が何を保守するのかは明らかではありません。
若い人達の間では「保守」というだけで嫌気がする人もいるかもしれませんが、その辺りについては誤解しない方がいいでしょう。

保守陣営の根底にあるものはなんでしょうか。
それは、長い年月を経て生き残ってきた伝統や文化、制度といったものは、歴史という長い時間をかけて有効性を検証されてきたものなので、個人の思想や思いつき、経験を遥かに超える価値があるはずだと考えることです。

「それが何なのか?」
という問いについて具体的な言葉で表現できないからこそ、伝統や文化、制度といったものに含まれている暗黙知を大切にすべきという発想には、説得力があります。
無駄なものは歴史の中で破棄されるはずで、残るものにはそれなりの価値がある、その価値は明確かつ具体的には言葉で表現できないため、気を抜くと失われてしまうものだから、連続性を大事にしよう、アメリカのような歴史の浅い国の浅はかな文化を無防備に取り入れるのはやめるべきだ。
ということですね。

これに対して、アメリカ型の保守はだいぶ違います。
さきほど説明した保守な人達からは科学原理主義と揶揄されることもあります。
間違った原理に基づいて気づかれた伝統や文化、制度に固執するのは損失であるから、明らかな科学的で合理的見地に基づいて伝統や文化、制度を構築していくべきと考えます。
わかりやすい例は、天動説と地動説ですね。
たとえ1000年の長きにわたって天動説が支持されてきたとしても、それが科学的に誤りなのであれば、天動説を直ちに破棄し、地動説に基づいてあらゆるものが再構築されるべきなのです。
こういったいわば革命を実現するためには「自由」が重要ですね。
これは、中世において逆に地動説が棄却されたことを考えれば想像し易いでしょう。
だから、彼らは「自由」を賛美します。
新自由主義もこの流れで読み解けば、彼らが無知蒙昧などではないことがわかるでしょう。

前者の保守が目指すものが「漸進的な進化」なのだとしたら、後者の保守は「合理による革命」といえばわかりやすいかもしれません。

さて、超簡単に「保守」について説明してきましたが、平沼氏は前者の保守についての代表的政治家です。
この保守は、自民党におられるベテラン政治家には多いです。
以上の説明を読めば、そんな彼らが「郵政民営化」に反対なのも当然といえば当然です。
石原慎太郎氏のナショナリズムも、わかりやすいでしょう。

一方、河野太郎氏のような若手のアメリカナイズされた政治家は後者の保守を主張しています。
どちらが正しいのか、は簡単には言うことはできません。
場合によって、どちらも正しくなるからです。
問題を解決しようとする急進的な改革がさらなる大問題を引き起こす可能性はありますし、逆に間違った見識に従った政策が非合理に継続され続けることもあります。

そこで登場するのが「中庸」ですね。
バランス感覚を大事にしようとするわけですね。
で、さらに問題は、みんな「自分は中庸だよ」って思っていることです。
つまり、「自分はバランス感覚のある人間だ」と誰もが思っていることです。
鳩山首相はこの代表的人物だと思われます。

ここで注意してもらいたいのは、「バランスがとれている状態」が必ずしも全員にとって嬉しいわけではないことです。

幾つかのケースで考えてみましょう。
AさんとBさんとCさんがいます。
3人は事前に集金した会費のみを持って街へ食事へ繰り出しています。
さて、帰りの時間になりました。
会費の余りが300円あります

■ケース1
単に100円ずつ分配する

この場合、100円ずつ分配するのが平等だし、バランスがとれますね。

■ケース2
3人とも帰るのに電車賃(150円)が必要です。
300円を100円ずつ分けたんでは、3人とも帰れません。
100円ずつ分けることが最も平等だと思われますが、この場合効用は限りなく0に近いです。
150円ずつ分配するなら1人は帰れませんが、2人が帰れます。

この場合、バランスが取るとはどういうことでしょうか。
平等を重視するならバランスを取るのは100円ずつ配ることになるでしょうが、効率を考えるなら150円ずつ2人に配るですね。

■ケース3
Aさんは帰りの電車賃が200円で、BさんとCさんと帰りの電車賃が100円です。
この場合、バランスをとるとはどういうことでしょうか?
BさんとCさんが電車を使うとAさんが帰れませんが、Aさんが電車で帰るとBさんとCさんのどちらかが帰れません。
家が遠いAさんを優先するとBさんとCさんの仲が悪くなるかもしれませんね。
逆に家の遠いAさんよりも、家の近いBさんとCさんを優先するとバランスがとれると思うかもしれませんが、Aさんが一番家が遠いのに電車で帰れないなのです、Aさんとの仲は悪くなるかもしれません。

■ケース4
ケースを上げるとキリがないのでこれで最後にします。
Aさんは帰りの電車賃が200円で、Bさんは150円で、Cさんは100円です。
どういう分配がバランスがいいでしょうか。
許される組み合わせは以下です。
AさんとCさん
BさんとCさん
Aさんのみ
Bさんのみ
Cさんのみ
とりあえず、Cさんは帰れそうですが、AさんとBさんは二者択一です。
Cさんは立場が優位ですが、優位だからこそAさんとBさんに恨まれるかもしれません。
平等を重視するなら、100円ずつ分配してCさんのみ帰るという選択肢がバランスがとれているでしょうか?
一番近いCさんのみが電車を使うのですか?

と、4つのケースを上げて考えてきましたが、何が言いたいかというと、何も条件がなければ平等に分配することが、イコールでバランスを取るということになりますが、条件がつくと平等=バランスにはならないということです。
そもそも「バランスがとれている状態」を定義することすら難題なわけで、「自分はバランス感覚のある人間だ」と考えている人間ほど偏向している可能性があるということがいえるわけです。
(「自分の価値観に基づいてバランスする」という意味だから)

そういう意味では、「守るべきものは何か?」と決めて、その価値観に偏向することに割切るのもありなのです。


当Blog流にいえば、この相対的な宇宙の中で、基準なしに何かの価値を決めるということが不可能だということなのです。

守るべきものは何でしょうか。
(守るべきものなんてないという発想も有り)
一度考えてみてはいかがかと思います。

[妄想] 地球全体近所計画 ハイパー・ウルトラ・メディア

2010-03-26 12:07:45 | 哲学・思想
久しぶりの妄想シリーズです。
前の「ハッピートレイン計画」は意外に好評でした。

アメリカでも年金問題がいずれ火を噴きそうな様子。

米国のソーシャル・セキュリティ・ベネフィット (Murray Hill Journal)
http://wholekernel.blogspot.com/2010/03/blog-post_25.html?utm_source=feedburner&utm_medium=feed&utm_campaign=Feed%3A+MurrayHillJournal+%28Murray+Hill+Journal%29ソーシャルセキュリティの支給額が


納付額を上回ることになるのは、予定より7年も早まって、今年からそうなるらしいんである!

   ★   ★   ★

アメリカのシステムに詳しくない方のために、簡単に説明する。

ソーシャル・セキュリティの給付というのは、要するに、リタイア後に国から受け取る年金のこと。米国で仕事する者は全員、ソーシャル・セキュリティ番号を付与されて、その番号に対してせっせと給与から毎回タックスの形で天引きされ、積み立て続ける。

ソーシャル・セキュリティ・ナンバー(SSN)を持っている者には全員、毎年、誕生日近くなると、関係省庁からステートメントが送られてきて、これまで自分のSSNには毎年いくら積み立てられて、引退後はいくらもらえる予定なのか、ということが明記されてくるんである。

支給開始の時期は、62歳から70歳までの間にどの年齢から受け取るかを自分で決められる。

※ もらう時期を早くすれば毎月払い込まれる額は当然少なくなる。


日本よりは柔軟な制度になっているのだな~と思う。


70年代の経済不振が尾を引いて、同プログラムは破綻寸前になっていた。その解決策には、①増税、②支給減額、③国庫からカネを引っ張ってくる、の3つしかなかった、とグリーンスパンは振り返る。政治的にもっともやりやすかったのは③だが、それをやってしまうと同制度はただの福祉に成り下がるとの懸念が出され、③はあきらめた。


「①の増税」と「③の国庫」は結局原資は同じ「税金」で手続き上の違いでしかないから同じだろうと思う。
そうすると、やっぱり原則的には「収入を増やす増税」か「支出を減らす減額」しかないわけで、しかもリンク先を読んでもらいたいのだが「 outlays will exceed revenue every year, no matter how well the economy performs.(経済がどんなに好調でも毎年の支出は収入を上回る)」とあり、この問題は単純な経済成長では解決できないようだ。

日本でも「福祉には強い経済がセットでなければならない。」ということは言われても、そもそも「福祉の維持が根本的に無理」という話は少ないようだ。
北欧諸国のように「高負担・高福祉」がよいという意見もあるが、最近ではスウェーデンの行き詰まりもクローズアップされるようになり、進むべき道は明らかではない。

そうなると、これは後日述べたいのだが、第2二次世界大戦後、世界中で起こった公共部門の拡大による国民の幸福度の追及は、根本的に難しいのではないか、という問いが起きる。
国家による福祉とは、つまるところ所得の再分配なのであり、所得の再分配では問題を解決できないということではなかろうか。
富の最適再分配を目指した方法論として市場を通じた交換経済というものがあるわけだが、交換経済という仕組みでは、人間の知性が不完全である以上、おそらく富の最適再分配を達成することは不可能であって、それゆえに最近幾人かの識者から贈与経済なるワードが流行っているのではないか。

個人的意見を述べるとすれば、おそらく贈与経済が世界的に機能するための条件は、地球が一つになることだろうと思う。
これは私が学生の時(だいぶ昔)に構想し、小論文コンテストで見事に滑った(たぶん、審査員に私の考えは理解できなかったのであろうが)「地球全体近所計画 ハイパーウルトラメディア(当時HTMLという技術が注目されていた時代であった・・どんだけ前やねんという話でもある、最近はHTML5まで出てきて・・とほほ)」と奇妙にも一致するのであるが、要するに地球市民全員が近所の人だったら協力し合えますよね、で、そのためにテクノロジーは何ができるんだっけ?という問題提起だったのである。
しかし、これより先、情報通信コストの低減と運輸コストの低減がいくら進んでも、コストを0にできない以上、やはり「距離の暴虐」の前に人間は屈せねばならず、人間が生ある存在である限りにおいて、贈与経済が地球規模で成立する時はこないのではないか、そう考えるのである。
このあたりは、生きるということがどういうことか、という難題とも向き合わねばならぬ問題であり、ここで答えを出すつもりは毛頭ないのだが、しかしながら、内田樹がいうように「クレバーな交換経済からファンタスティックな贈与経済」への移行といわぬまでも、バランスとしての移行は有り得るし、それを可能にする技術が生まれつつあり、それ以外に解はないのではないかという気がする。

つまり、富の分配についての最適解を求めるにあたって、国家では全くもって能力不足であるし、市場を通じた分配も国家よりマシだが最適解を見出すことはできない。
理想としての解は(最小単位の議論と仲介機能の議論はあろうが)、個人と個人を結びつける技術が成立した上での贈与になるのかもしれない。という意味だ。
「神の計算(無限演算)」を解くには、地球市民全員の脳がフル活用され、それが有機的に結び付けられなければらないという、実に観念的で空想的なお話なのである。

高度に進化した文明は、そういう生活を送っているのではないか。
たぶん、彼らは体を持たない。


もし、人類が体という物理的制約から解き放たれたら、どのような夢をみるのか

という壮大な夢物語があって、そこから進むべき道を模索せんとする試みなのだ。

飲み屋での肴としてのウケはよいのだが・・

市場原理から逃げたい人へ

2010-03-19 02:19:41 | 哲学・思想
誤解を招く表現でしたので題名を変更しました。本文中で「市場原理」と「資本主義」をごちゃまぜに使っていますが、あまり気にしないでください

モノの価値がどのように決まるか。

アダム・スミスが言った労働価値説からすると、費やされた労力だという。

後にはマルクスが継承する。

これに対して限界効用価値説がある。

モノの価値は市場で、消費者の評価によって決まるという。

消費者の評価とは何か?

有用性と希少性である。

役に立たなければ価値がないし、ありふれているものにも価値がないということだ。

限界効用価値説の観点に立てば労働も商品なのである。

役に立つ労働なら価値が高いし、誰にもできない労働なら価値が高い。

労働者の立場に立てば労働価値説を支持したくなる。

社会党や共産党などといった人々はこういう思想の持ち主だ。
(マルクスの時代は労働者の置かれている立場が劣悪だったので余計にそうだ)

だが、実際のビジネスは限界効用価値説に近い。

不必要に高機能な機能に価値はないし、誰にでも作れる商品に価値はないのである。

工業化(近代化)の時代にはがむしゃらに働けば報われただろう。

しかし、それは労働価値説が正しかったわけではない。

有用性と希少性の観点から、たまたま労働時間と価値の間に強い相関があっただけだ。

脱工業化(ポスト近代)の時代には、否が応でも、限界効用価値説の事実を突きつけられる。

と、まぁ教科書の最初に書いてありそうなことを述べてみたのだが、よく考えればすぐわかる。
そもそも、この宇宙に普遍的で絶対的な「価値」などない。
この宇宙は相対的で、我々は相対性から逃れることはできない。
我々は常に相対的な「価値」に直面している。
そして、この「価値」とは必要とするところから生まれる。

全ての「価値」は必要とするところから生まれるのである。
有用性も希少性も、必要とするから発生する価値である。


余談だが、如来や仙人が解脱するというのは、この必要性を脱却することである。
如来は必要とすることがなくなった状態、つまり相対性が必要ない、つまりこの世にいる必要がない存在なのである。
だから生きて悟りを開くなどというのは無茶難題である。

だから、もしあなたがグローバリズムに反対し、また資本主義に反対するのであれば、「必要とすること」から脱却しなければならない。
でなければ、限界効用価値説の「価値」の枠組みに絡みとられてしまう。
市場原理を否定したとしても、その対岸に何らかの「価値」を求めるのであれば、それ自体が既に「価値」の枠組みに捉えられているのだ。
「価値」を追い求める限り、資本主義を否定することはできない。

必要としながら資本主義を否定するのは、これは矛盾している。
仙人になる気持ちで、「必要としないこと」を心がけてみることが重要だ。
悟りを開くとはそういうことをいう。

実際にそういう人達もいる。
出家などして世捨てを行うのは、強制的に必要としない状態に身を置くためだ。
だが、生きている限り悟りを開くなど、不可能であるが。

「暇」と「宗教」どちらが先?

2010-03-12 19:14:58 | 哲学・思想
ギョベクリ・テぺ(Gobekli Tepe)遺跡のこと(極東ブログ)
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/03/gbekli-tepe-c82.html

ネットで有名な文科系の知識リソースの一つに「世界史講義録」(参照)があり、はてなブックマークでは5000近いブックマークがされている。

私も楽しませていただきました(笑)
http://www.geocities.jp/timeway/歴史を読むのは下手な小説を読むよりずっと面白いのです。

さて、極東ブログのエントリ内でfinalvent氏が述べているのは「農耕と宗教と、どっちが先か?」というものです。

世界史講義録の説明は「農耕が先」になっているが、これはfinalvent氏がいうように唯物史観なわけである。
マルクス『経済学批判』の序文にはこうある。
(「宗教的大変革の時代」でも述べてることだが)


私が到達し、かつ、それ以降において、私の研究を導く原則になった一般的な結論は次のようにまとめられる。自分自身の生存を社会的に生産するために、人間は彼らの意思からは独立した、さだめられたさまざまな関係にはいらざるをえない。つまり、それは、さまざまな物質的な生産力の発達段階に対応しているさまざまな生産関係である。これらの生産関係の全体は社会の経済的な構造をなし、その上に法的・政治的な上部構造を生じさせ、社会的意識の特定のかたちが対応する現実的な土台である。物質的な生命を生産する様式は社会的・政治的・知的生活の一般的なみちすじを規制する。彼らのありかたを決定するのは意識ではなく、彼らの意識を決定するのは彼らの社会的なありかたなのだ


それに対して、finalvent氏はギョベクリ・テぺ遺跡の発見により、農耕より先に宗教があったとする説が有力ということを説明するわけだが、私なんかからすると、農耕より先に宗教があったことは考えてみれば当り前なのだが。

「余剰生産物が大きな文明を生んだ」という漠然とした捉え方には同意するのだが、「余剰生産物が宗教」を生んだって説明するには無理がある。
というのも「農耕」と「宗教」ではレベルが違いすぎる。
程度問題なのだけれども。

議論を深堀りするためには「農耕」は「暇」にしないとだめ。
(ここでいう「暇」は労働生産性の向上によってできる時間的余暇の意味)

「宗教が先か、暇が先か」というのは面白い問いだ。

人類の生活は狩猟/採取型から農耕革命によって労働生産性が飛躍的向上したわけだが、生産性が向上して「暇」が拡大したことによって「宗教」も拡大した。
という説明が正しいのか誤っているのかは、議論の余地があるだろう。

要は、「宗教」の元となる精神性のようなものが先天的に人間にビルドインされているものなのか、それとも人間に考える時間ができたから宗教が生まれたのか。

世に正義が存在すると信じる偽善、だがそれは人間の性

2010-03-10 11:12:38 | 哲学・思想
まず、最初に明確にしておくが、「何を信じるか」は個人の自由だ。
(ここでの「個人」に特に意味はない。「ひとりの人」と置き換えてもらってもよい。)

なぜ自由か?

答えは簡単だ。
厳密に言って、人に何かを信じ込ませることはできないからだ。

洗脳や強制はできるが、それでも最後に何を信じるかを決めるのはその人自身である。
このあたりを話として知りたい人は、フランクルの名著「夜と霧」を読んで欲しい。
彼はアウシュビッツの極限状態においても、最終決定権は他者にはないことを説明している。

人は、人に対して財産を剥奪し、尊厳を喪失させ、命を奪うことも、人に過酷な環境を与えることはできるが、しかし、その環境の中で、その場でどうふるまうか、という最終意思決定について強制することはできない。

「信教の自由」の権利があるとかないとか、そんなレベルの話ではない。
単純に、人に信じ込ませることはできないのだから、「何を信じるかは個人の自由」なのである。

秀吉がキリシタンに対して行った踏み絵にしてもだ。
踏むか、踏まずに死を選ぶかという選択は、本人にしかできないのである。

時の権力者が、絶世の美女の心を奪えるとは限らない。
いかに富と地位と名誉と名声があったとしても、人の心を奪うことはできない。

どのような説得力ある合理的説明を持ってしても、人を止められないことは腐るほどある。

重要なことは、「人は人にわからせること、理解させること、信じさせること、これらはできない。」ということを理解することだ。

権利章典や何かで、「信教の自由」を宣言するのはいい。
だが、その本来の意味は、「そもそも不可能だから強制すべきではない。」なのである。


さてさて、いつも通り前置きが長くなってしまったが、そろそろ本題に入ろう。

当Blog開設初期にかなりこの辺りを攻め込んだが、再度ここで私見を述べる。
まず、この2つを読んで欲しい。大抵のことは理解できるだろう。

エコロジーという自民族中心主義(池田信夫)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51388955.html

これは偽善だ!(映画『オーシャンズ』を観て)(俺の邪悪なメモ)
http://d.hatena.ne.jp/tsumiyama/20100214/p1

池田信夫氏が述べているように、キリスト教では人間の長年の悩みに一つの答えを与えている。
「あらゆるものが人間のためにある。」と。
博愛主義とは、所詮人間同士の話で、その他動物が含まれるわけではない。

そもそも、なぜ宗教がこのようなことを定義する必要があったのか考えてみよう。
(説明するまでもないが)
誰もが子供時代に考えたことであろうし、大人になれば子供に聞かれることが次だ。

例えば「なんで人を殺してはダメなのに、豚はいいの?」と。
仏教の寺では殺生はダメなので精進料理に肉は使われないから、余計に気になるはずだ。

「犬や猫が虐待されていると大問題になるのに、なんで保健所で何十万頭と犬が殺されているの?」と。

もし、この問いに答えられるなら、あなたはキリスト教のお世話になる必要がない。
だが、この問いに答えられない人はどうすればいいだろう。
困るだろう。

「なんで?なんで?」と子供が聞いてくる。

あなたは困る。
この問いに答えなければ、しかも「動物は必要なら殺してもいいんだよ。」と答えなければ、あなたはとんでもない罪を犯していることになる。
殺人ならぬ、殺動物犯だ。

ここに便利なツールがある。
「宗教」である。

宗教は教えてくれる。
「神は人間のために必要な動物や植物を用意してくれたのだよ。」と。
「だから、人間が生きるためには殺してもいいのだ。」と。

あなたは救われる。
これで何も悩まなくていいのだ。
なぜなら、神様がお墨付きを与えてくれたのだから。
子供に胸を張って言えばいい。
「それがこの世なんだよ。神様のおかげで我々は生きれるんだ。聖書のどこどこに書いてある。感謝しなきゃね。」と。

同じ宗教を信じている限り、その宗教内では悩まなくていいことが増える。
この宇宙にはわからないことばかりだ。
我々が知っている世界はほんの限られた宇宙の一部だけでしかない。
そんなわからないことだらけの世界で生きるのはとても不安なことだ。
知らないことだらけの世界に生きるのは、暗闇の中を歩くのと同じで、恐ろしいことだ。

神様が善悪を決めてくれて、それを共有している限り、同じ価値観を共有して、安定した社会に住むことができる。
宗教(に限らずあらゆる主義思想も同じだが)を信じれば、わからないことだらけの宇宙が、非常に見通しのよいものになる。
これほど力強いものはない。

「信じることはあなたの道を照らす灯火」なのである。
(「信じること」を「信仰」に置き換えてみれば、それが宗教なのがわかるだろう。)


人間が全知全能なら、何かを信じる必要がない。
全てがわかるから。

何かを信じる(信じたい)のは、人間が本態的な意味で弱いからである。
(ここでいう「弱さ」は不完全な知性しか持っていないという意味)

ただ、弱くないなら、そもそも我々人間は存在しない。
ここにいる必要がないし、存在価値がないのである。
(ここは高度に形而上学的なので細かい議論は避けるが)
不完全知で「全知全能」は想像できないと思うので、こう考えたらわかる。

まず、全てがわかるなら、死なない。
怪我しない。
困らない。
悩まない。
考える必要もない。
何かをする必要もない。

つまり、存在しない。
存在する必要がないから。

我々は、不完全ゆえに、今ここに存在する。
だから、我々が「何かを信じること」は避けられない。
そして、それは罪などでもない。


そこで、当ブログの主張に繋がる。

我々は不完全だ。
それを認めよう。
そして、その上で、信じよう。

「もっと自覚的に信じよう」

信じることは悪いことではない。
誰かと信じていることが違うからといって、それに善悪はない。
重要なことは「自分も相手も信じている」ということを自覚することだ。

「自分は信じている」という発想から、新しい知見への柔軟性が生まれる。

私は、そう信じている。

内田樹リスペクト

2010-03-09 12:14:08 | 哲学・思想
当ブログで内田樹を持ち上げつつ散々叩いておきながらいうのもなんですが、私は内田樹ファンです。
ただし、彼の主張の全てに同意しているわけではありません。
話が面白いし、彼の書籍を読むと美輪明宏氏の本を読んでいるような気分になるからです(笑)
一部では知的詐欺師と呼ばれておりますが、膝突き詰めて話し合えば分かり合えることもあるのではないかと考えますよ。

私以外にはどうでもいいことだが、内田樹がただの文学者ではないと改めて思わされた。
特に新しい知見ではないが、このソフトさが彼の凄さかなと思う。

グーグルの存在する世界にて(内田樹)
http://blog.tatsuru.com/2010/03/05_1307.php


ビジネスというのは本質的に「ものがぐるぐる回ること」である。
「もの」の流通を加速する要素には「磁力」のごときものがあり、それを中心にビジネスは展開する。
逆に、流れを阻止する要素があれば、ビジネスはそこから離れてゆく。
「退蔵」とか「私物化」とか「抱え込み」というふるまいは、それが短期的にはどれほど有利に見えても、長期的スパンをとればビジネスとして絶対に失敗する。
ビジネスの要諦は「気分よくパスが通るように環境を整備すること」それだけである。


おぉ・・
意外に、社会学者ではなくて経済学者と仲良くできそうな気がする。
是非、今後は「贈与経済」なんてワーディングにこだわらず、経済学との融合を目指していただきたい。

本文中に触れられている著作権の議論ですが、下記参照していただけるとなおよろしいかと思います。

「共有経済」と「商業経済」は共存できるか - 『REMIX』(池田信夫)
http://agora-web.jp/archives/950521.html

ジブリ映画の真髄

2010-03-08 16:24:26 | 哲学・思想
どこかで既になされた話とは思いますが、抜けがちな視点だと思います

最近、我が家ではジブリ映画のヘビーローテーションが行われており、少し疲れている。
(ほんと「肉も食いたきゃ魚も食いたい」状態)

ジブリ映画の素晴らしさは、歳をとってこそわかるのだが、しかし、私はジブリの映画を見ていると、どうしても宮崎駿の趣味(大人的というかオタク的男的な子供感)を感じぜずにはいられず、どこか気持ち悪さが残る。
いや、それこそがジブリ映画のコア・コンピタンスでもあるのだが、非常に日本人特有の感覚に依拠している部分でもあると考える。
以前、内田樹が「(宮崎駿氏自身の発言として)宮崎アニメは日本の人口が1億人を超えたから成立したものだ。」という類のコメントをしていたが、それがヘビーローテーションを経ることで、私にもようやく理解できた。

世界的アニメーション・スタジオといえばピクサーがある。
「トイ・ストーリー」や「モンスターズ・インク」、「ファインディング・ニモ」など、世界的ヒットを飛ばしている。
ピクサーとジブリのつながり事ある毎に強調されるが、両者が作る映画は全く違う。

この違いに対する認識は、現在の日本のあらゆる議論から徹底的に欠けている認識の一つなので、少し時間をかけて説明しよう。

ピクサーがなぜ世界的に支持されるのか?

この問いに対する答えには、人それぞれ意見があるだろう。
アニメーション技術、マーケティング、プロモーション、ブランド、etc...
私は上記のどれでもなく、「ストーリー」にあると断言しよう。
(いや、もちろんストーリーだけじゃだめですよ。面倒だから説明省くけど)

「ストーリー」というのは「話が面白い」という意味ではない。
「誰にでも話がわかりやすい。」ということだ。
ピクサーが優れているのは「誰にでも、しかも世界中で、瞬時に理解できるストーリーをを構想できる力」である。

一方、ジブリはどうだろうか。
ジブリの初期の作品である「風の谷のナウシカ」や「天空の城ラピュタ」は傑作の誉れ高く、根強い人気ながらも、実はジブリ作品にとって異色な作品である。
私が考えるに、これはジブリが一流スタジオとして認知されるために作った試作のようなもので、本来作りたかったものとは違うだろう。
だから最初の2作は、実にジブリらしくない作品になっている。

では、「ジブリらしさ」とは何であろうか。

それは「叙述的であること」である。
ここでいう叙述とは、「見ている人に物語を強要しない」ということ、ジブリ映画の特徴はこの一点にあるといっていい。
もっとわかりやすくいえば「正義が悪を倒す」とか「誰かを救う」とか、「努力の結果、勝利すること」、こういったことを物語の中心には据えず、「誰かのある物語をただ述べること」に徹しているのだ。

どう解釈するかは、見ている人が決めればいい。
映画としてわかりきった答えは用意しない。

ピクサーのようにストーリーの終盤にあるであろうハイライトに向かって盛り上げていって「ハラハラドキドキ」といったインパクトを与えるためには、見ている人をストーリーに入り込ませなければならない。
その時に必要になるのが「話のわかりやすさ」である。
「わかりやすさ」というのは「AならB」という合理性(論理)が用意されているということだ。

「世界共通のわかりやすさ」を追求するためには、「論理」が非常に重要である。
なぜなら、世界中の人間が文化や情緒を共有するのは非常に難しいからだ。
わかりやすいストーリーを作るためには、「AならB」、「BならC」ということは「AならCだ」というような展開で構成される必要がある。
だから、ピクサーのように世界的ヒットを生み出すためには、「わかりやすい」ことが非常に重要であるが、日本市場だけでペイできるのならば、ジブリのように日本人の肌感覚に訴えかける叙述手法が成立できる。
これが「日本の人口が1億人を超えたからジブリ映画ができる」の本意であり、それを宮崎駿本人が認識しているという点に、改めてジブリのマーケティング深度を知るのである。

最近のマーケティングではことさら「わかりやすい=良いこと」のような風潮があるが、実はそうではない領域もまたあるということを認識すべきだ。
「ものづくり神話」が崩壊しつつある日本において、サービスの高付加価値化、「ユーザ体験価値」なるものを持てはやす風潮もある。
「ユーザ体験」が指し示す意味が、狭義のものとならぬことを、願うばかりである。


ジブリの映画は、見ている人に物語を強要しないから、見ている人は疲れない。
我が家でジブリ・ローテーションが組まれる前は、実はピクサー・ローテーションが組まれていたのだが、日本的家庭の我が家では、ピクサーはジブリに圧倒されてしまった。

ナウシカやラピュタは面白いのだが、2回、3回と見てられない。
その点、トトロや千と千尋、ポニョはすごいのである。

ジブリ、恐るべし。