粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

後藤健二さんの兄の手記を読んで

2015-02-06 18:25:56 | 国際時事

自分のブログで前回後藤健二さんの兄のコメントを取り上げたが、今週号の週刊文春(2月12日号)で再び兄純一さんの手記が掲載されていたので早速買って読んだ。兄弟は8歳の年齢差があって、純一さんは弟を時に息子のようにかわいがっていたようだ。

手記でも、憔悴しきった父親に代わって後藤家の代表者として、日本政府や国民に謝罪と感謝の気持ちをまず述べている。もちろん、弟と無事で戻ってきたときには本人からそれを表明すべきだったことを強調している。

たとえば「日本政府は本当に頑張ってくれました。外務省や警察の方々も、睡眠時間を削ってなで対応していただき、とても感謝しています。日々、『迷惑をおかけしていることは重々承知していますが、なんとか頑張ってい健二を救出していたがいきたい』と願っていました。ヨルダン政府の方々にも本当に感謝しています。」と書いているが、その気持ちに嘘はないと思う。

ただ、手記を読んでひとつ気になったことがある。

「仲間のジャーナリストの方々の話を聞く限り、普段の健二はもっと慎重で綿密な取材計画をたてていたといいます。なのになぜ、今回に限って焦ったのか。知り合いのガイドから止められたという報道もありましたが、それなのになぜ…。今まで無事でいられたことによる自信過剰というか、慢心があったのではないかと悔やまれます。」

本当にただの慢心だけなのだろうか。「普段は慎重で綿密」と仲間の評価が高かったのに今回に限ってそれが欠けていたと見られたのはなぜか。今後もしかしてその背景が明かにされるかもしれない。それによって今回の人質事件の真相も…。(噂によるとある報道機関と取材の契約を結んでいてそこの意向でシリアに向かったともいう)

それはともかく、手記は弟健二さんの誕生から突然の死までを回想している。大学時代に米国の大学に留学した経験がジャーナリストの世界に興味を開かせたこと、卒業後てテレビの制作会社に勤務していたが、20代後半に自分で報道会社を立ち上げたこと。しかし、なかなか仕事がなくアルバイトで兄の学習塾の英語教師を手伝っていた。塾では人気教師として慕われ、今回の事件では当時の生徒から多く心配や励ましの声をもらったという。

純一さんの息子も叔父を慕っていたようだ。その後健二さんが仕事で実績を上げ彼の著書が産経児童出版文化賞を受賞した。純一さんの息子の中学で夏休みの推薦図書にしてされて息子は学校の先生に自慢げに自分の叔父の本だと話したという。それだけ、健二さんは報道の視点を世界の子供たちに絶えず向けていて、その思いが相手の子供たちにも伝わるのだろう。

後藤さんの著書には非常にシリアルの内容のものがある。アフリカの紛争地で反政府勢力が次々と村を遅い、両親を虐殺して子供たちを連れ去っていく。子供たちは兵士の育て上げられ流れ作業のように次の村を壊滅させていった…。「そんな惨状を見ていく中で、健二は戦争や貧困に喘ぐ子供たちに救いの手を差し伸べたいと思ったのでしょう」弟を偲ぶ純一さんもその点は兄として十分弟の心情を理解していることがわかる。

手記の最後は純一さんの兄弟としての素朴な弔辞で締めくくられている。「最後に、健二へ。生きて帰ってきたら、もう一度お前と酒を飲みたかった。本当に馬鹿野郎だ。でも、最後はまでよく頑張った。静かに休んでくれ…。」「馬鹿野郎」「頑張った」「休んでくれ」この三つの言葉がすべてを物語っている。それ以上必要ないほど重い言葉である。身内ではない自分には「休んでください」と健二さんにせめて声をかけることしかできない。

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