粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

本来の報道姿勢に戻った週刊文春

2012-08-31 14:23:50 | 煽り週刊誌

最近の文春は、昨年から今年の始めにかけての「煽り」偏重から従来の姿勢に戻ったようだ。編集長が変わったことが大きい。前の編集長の頃は現代やアエラかと見間違うほど、原発、放射能危険情報のオンパレードだった。特に上杉隆氏やおしどりマコ女史といった訳のわからない素人「ジャーナリスト」を執筆者に採用して、世間の不興を買ってしまった。

今週9月6日号「反原発デモ野田官邸にのり込んだ11人の正体」の記事は、かつての文春記事の煽りにいらだっていた者としては久しぶりに溜飲をさげた。

記事によると、デモを仕切っているといわれる、ミサオ・レッドウルフなる女性は、イラストレーターでミュージシャン、西洋占い師、果てはストリッパーで腕には刺青という得体の知れない?人物。まあそれは敢えて目をつぶるとしても、彼女が発する攻撃的ツッターはいただけない。

反対運動で動いたりデモや抗議に参加している仲間がその過労や心労のせいで病気になったり死んだりしたら、ぬくぬくと高給とって原発推進しているあんたらを殺すからね。

野田首相と面会した他のメンバーもパンクロッカーやベ平連礼賛学者と異色な人物が名を連ねる。彼らが決して民意を代表していないのは、その主張が「原発即ゼロ、再稼働反対」で凝り固まっていて、政府が提示する案の一つ「2030年ゼロ」とは相当開きがあるからだ。おまけにこんな過激な物言い、とても国民の民意を代表しているとは思えない。

記事の最後は、今回の首相面会に異議を唱える社会学者の橋爪大三郎東工大大学院教授のコメントで締めくくられる。

「デモが直接に政治的効果を求めることは危険です。なぜならデモに参加する人は多数でも、国民の中では絶対的少数なのです。絶対的少数が、最も効率よく政治的インパクトを持つ手段がテロです。デモも同様の効果をもつとしたら、少数派はみなデモに走り、言論の自由の範囲を逸脱する。議会を飛び越して首相に狙いを定めている点は天皇を直接動かそうとした2・26事件とも似通っている。今回が危険な前例になるとは思いませんが、危険な前例の一歩であるとはいえるでしょう。」

記事の本文とは別に櫻井よしこ氏の寄稿文が掲載されている。内容的には橋爪教授とほぼ趣旨は一緒だが、一つだけ紹介しておこう。

坂本龍一氏の「たかが電気」発言に象徴される、電気が社会の根幹をなすものであることに目をつぶり、お祭り気分で反原発を煽る一部の人たちと会うことが、国民の要求に答えることではありません。野田首相は「サイレントマジョリティ」の声にこそ、もっと公平に耳を傾けるべきです。

櫻井さんや橋爪教授のこうした主張はなかなか今のメディアで見聞きすることはできない。しかしそこは文春、本来の硬派ジャーナリズムの意気を示してくれた。