粗忽な夕べの想い

落語の演目(粗忽長屋)とモーツアルトの歌曲(夕べの想い)を合成しただけで深い意味はありません

金メダル量産国の憂鬱

2012-08-07 13:34:58 | スポーツ
ロンドン五輪で中国は米国と熾烈な金メダル争いをしているが、国民は前回の北京五輪と比べたら興奮度も下がり、いささか冷静のようだ。産経ウェブサイトによれば中国のネットでの書き込むを見ると二つ理由があるという。 
1,金メダルをとったのはマイナースポーツばかりで自慢にならない。
 2,金メダルの数よりも国民生活の改善を優先すべきだという不満と反省が寄せられている。
 まず1の点でいえば「中国勢が活躍するのは、重量挙げ、卓球といったマイナー種目がほとんどで、世界的人気があるサッカー、バスケットボール、陸上などで、あまりメダルを期待できないことへの国民の不満の存在もある」ようだ。 北京五輪では金メダル量産をはかるため中国人が世界で競技人口が少なく有力選手が手薄な競技を狙い撃ちした。いわば「質より量」だ。この傾向は今回のロンドン五輪でも威力を示してるが、世界的な注目の低さのため中国国民もやや覚めた目で見ているということだ。
 それに比べたら日本はサッカーで男女とも目覚ましい活躍をしている。差を付けている。スポーツに「貴賎」をつけるのもどうかとは思うが、中国人からすれば日本選手の世界へのアピールは心中穏やかではないはずだ。 
スポーツクラブやサッカースクールが充実し、国民の日常に定着している日本と未だ国家の威信のために特定の優秀選手だけを強化させる中国との質の差を感じる。中国人にとっても北京五輪の熱狂からさめて今スポーツの本来の意味を問い直そうという時期に来ているのかもしれない。 
今で世界的には過去の遺物となりつつある「国家の発揚」を押し進めている唯一の国が北朝鮮だ。北朝鮮の選手がメダルを取ればとるほどその奇異な国家体制を浮き彫りになる。 
そして2番目の国民生活を優先すべきだという国民の声である。今や国民の貧富の格差は極限にまで達している。国内各地で頻発する暴動はもはや当局の力では押さえきれないほどに激しさを増している。胡錦濤政権がひたすら成長路線を押し進めるだけで、政治改革をないがしろにしたツケが、今表面化している。五輪選手のスポーツ貴族化をみる国民の目は複雑だ。もはや国威の発揚で国民の不満を抑え込むことは難しくなってきている。「国民の生活が第一」なる言葉は中国にこそふさわしい。
 かつてのスポーツ大国ロシアの現在のように、いずれ中国も普通のスポーツ愛好国になっていくのだろうか。