「却下徹底」 須田剋太 199×124.5 衝立
先日、 井上有一 の書をご紹介したけど、今日は 須田 剋太氏
2001年、日本橋三越本店で開催された須田剋太展に行ったとき、
中川一政 の個展を観たときと同じくらいの鳥肌ものだった。
たまたま、ん!これだ!って感じた三人。
あとで考えると、どこか似た魂の響きを感じる。
展覧会のときに購入した図録の解説には、こうある。(要約)
須田ワールドには、「嬰孩性」(えいがいせい)ということばがある。
嬰孩とは幼児のような性格、心のこと。 彼は童子のような変人で、
ひたすらまっすぐ、エネルギッシュに描き続ける人だった。
具象、抽象、陶器、書とそのフィールドを自由に行き来していた。
そんな須田さんのエピソードでこんなのがある。
その昔、国道がアスファルトで初めて舗装されたのを見て、その黒い色と
肌に感激し、どうしても自分のキャンバスに移植したい衝動を抑えられずに
深夜にツルハシでもって道路を掘ったらしい。
けれど警官に見つかり逮捕、収監されてしまったと。
この「却下徹底」ってことばも、頷ける。
なんともいとおしいお姿!
須田さんのことばで印象に残っているものがある。(図録より要約)
物事には必ず対局し矛盾するものがある。
自分は汚いものは見たくない、美しいものだけを見たいという行動はだめだ。
善もあれば悪もある。生と死、体験と知識、純粋と俗物、具象と抽象・・
それらを結合させるには、「体験行動」しかない。
抽象をやることは、具象を否定することでもあり、そのまた逆もあり。
けれど一つの体験が終われば、引っ込めば、次の体験が顕われる。
具象をやっているとトコトン抽象が出てくる。
絵を描いていると書が、陶器が彫刻が、建築が出てくる。
春が顕われるとすべてが春になり、春が終われば夏にといった具合に、
抽象のときは抽象っきり、具象のときは具象っきり、だけど抽象を通過しての
具象でないといけないし、その逆も然り。
そして初めて二つは融合化結合するのだ。
ふむ。。 人と人との関係も、また然りと思うのは私だけ?
やっぱり表現の世界には、生きるヒントが隠れているって思う。
「遊女の図」 グワッシュと刻んだ折り紙
不器用でも遠回りでも、何かに、誰かにトコトン向き合い、付き合う生き方も
またステキだなって思う
でもわたしは最近年のせいか、そのエネルギーが薄れてきてはいるけれど
先日、 井上有一 の書をご紹介したけど、今日は 須田 剋太氏
2001年、日本橋三越本店で開催された須田剋太展に行ったとき、
中川一政 の個展を観たときと同じくらいの鳥肌ものだった。
たまたま、ん!これだ!って感じた三人。
あとで考えると、どこか似た魂の響きを感じる。
展覧会のときに購入した図録の解説には、こうある。(要約)
須田ワールドには、「嬰孩性」(えいがいせい)ということばがある。
嬰孩とは幼児のような性格、心のこと。 彼は童子のような変人で、
ひたすらまっすぐ、エネルギッシュに描き続ける人だった。
具象、抽象、陶器、書とそのフィールドを自由に行き来していた。
そんな須田さんのエピソードでこんなのがある。
その昔、国道がアスファルトで初めて舗装されたのを見て、その黒い色と
肌に感激し、どうしても自分のキャンバスに移植したい衝動を抑えられずに
深夜にツルハシでもって道路を掘ったらしい。
けれど警官に見つかり逮捕、収監されてしまったと。
この「却下徹底」ってことばも、頷ける。
なんともいとおしいお姿!
須田さんのことばで印象に残っているものがある。(図録より要約)
物事には必ず対局し矛盾するものがある。
自分は汚いものは見たくない、美しいものだけを見たいという行動はだめだ。
善もあれば悪もある。生と死、体験と知識、純粋と俗物、具象と抽象・・
それらを結合させるには、「体験行動」しかない。
抽象をやることは、具象を否定することでもあり、そのまた逆もあり。
けれど一つの体験が終われば、引っ込めば、次の体験が顕われる。
具象をやっているとトコトン抽象が出てくる。
絵を描いていると書が、陶器が彫刻が、建築が出てくる。
春が顕われるとすべてが春になり、春が終われば夏にといった具合に、
抽象のときは抽象っきり、具象のときは具象っきり、だけど抽象を通過しての
具象でないといけないし、その逆も然り。
そして初めて二つは融合化結合するのだ。
ふむ。。 人と人との関係も、また然りと思うのは私だけ?
やっぱり表現の世界には、生きるヒントが隠れているって思う。
「遊女の図」 グワッシュと刻んだ折り紙
不器用でも遠回りでも、何かに、誰かにトコトン向き合い、付き合う生き方も
またステキだなって思う
でもわたしは最近年のせいか、そのエネルギーが薄れてきてはいるけれど