<言葉(28)。進歩(プログレス)>
「進歩史観。」というものがあります。
要するに、歴史は(紆余曲折はあるだろうものの)必ず『進歩』するとみる見方、というよりも「思い込み。」です。
なぜそういう憶測(俗説)が人類の近代精神の背骨にまで浸透したのでしょう。
通説では、キリスト教の(千年王国論・ミレ二アリズム、つまりキリストが再臨後に千年間の「地上支配。」を行う話に典型化される)終末説が、そうした線形(リニア)で進歩するという「歴史観。」をもたらしたとされています。
ここで『進歩』(プログレス)という観念に、「ゴッドの支配。」という絶対的基準が設けられたわけです。
言い換えると、進歩とは「良き事態。」への接近のことだ、と観念されたことにほかなりません。
「神の死。」がおおよそ確認されているのに、どうして『進歩』の観念は衰えをみせないのでしょう。
たとえば「テクノロジカル・プログレス。」(技術進歩)を現代人の大多数が受け入れています。(麻布老人氏は、「素晴らしい!!」としていられます)
そのとき、そのプログレスによって「良き事態。」が到来すると想念されます。 その想念は、人間が「神に『代位』する。」ことによってもたらされたといってよいでしょう。
つまり、人間には「完成可能性。」(パーフェクティビリティ)があり、それゆえ人間のつくりだす新奇さは「良いように思われる。」という次第です。
ドグマ(独断・思い込み)という言葉の原義は「良いことのように思われる。」という意味です。
まこと、言葉の歴史の『皮肉』だと言わざるをえません。
プログレスは「グレード。」(等級)がプロ(前へ)進むことですから、「正価値。」を担います。
それに比べ「グロース。」(成長)は量的拡大のこと、「ディヴェロップメント。」(発展)は潜在的可能性の発現という謂で、「エボリュ―ション。」(進化)は環境に適応という意味にとどまるのです。
ひとり『進歩』という言葉のみが、「人間性。」(ヒューマニズム)への礼賛を引き受けました。
近代における休みなき変化の果てに「千年王国。」めいた「プリス。」(至福)がやってくる、とみる『文明』という名の「多幸症。」、つまり「あらゆる事柄が幸福感の種。」となるという『病気』、それに罹っているのが『進歩』という言葉なのではないでしょうか?
<続く>
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