「掛け替えのない命。」という決まり文句を聞かされたり、読まされたりせぬ日は、先ずないというのが、日本列島における戦後の暮らしというものです。
失われた命は、取り返しようがないという意味では、その文句は、疑いもなく正しいといわざるをえません。
しかし、精神にとって、手段にすぎぬものとしての命は、何らかの精神的な目的のために、犠牲にされることもありうべし、といった代物にとどまります。
「命に替えても、守るべき価値がありうる。」と『前提』しておかなければ、軍隊や警察におけるものをはじめとする、生命の危険や危機にかかわる類の仕事は、すべて無益さらには、有害ということになってしまいます。
不老不死の薬が発明されて、人間が永遠の命が、保証されたと想定してみましょう。 しかし、いつまでも、背徳の世と付き合うのを潔しとしない人も、相当数、いるはずです。
どだい、地球資源が『有限』であることを考えると、人々の不老長寿とは、子孫の誕生や延命を「許さない。」という非道につながります。
もっというと、「生きること、それ自体。」が最高の価値だとすると、人間の食生活は、他の動物の生命を殺戮しつづけているという点で、その最高価値への『冒涜』だということになるのではないでしょうか?
自分の目前に、野蛮・卑劣・愚昧・臆病だらけの長命な人生航路と、節制・正義・聡明・勇気につながれた短命な人生航路とが、開けているとしましょう。
どちらを取るか、判断も決断も難しいではありましょうが、後者の道を進みたいという思いの一片を抱かない者は、バイ・ディフィ二ッション(定義上)、人なのです。
背徳や有徳といった抽象的で、普遍的な概念を具体的にかつ個別的に規定するのは、困難ではあります。
しかし、隣人の男が(自分の退屈や焦燥の気分にかられて)幼い子供を殴っている、というような具体的かつ個別的状況を思い浮かべてみると、その幼児虐待は背徳なり、と簡単に判別できるはずです。
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