<西部邁師の論(43)。「生命第一主義。」に象徴される、ヒューマにズムの弊害(その1)>
ヒューマニズムの弊害が様々な方面にもたらされているが、その最も端的な現れは、生命第一主義の価値観の帰結に見られる。
「生きることそれ自体が、最高の『価値』。」であるとしうるのはなにゆえであろうか?
それは、人間礼讃のヒューマニズムがあるからである。
人間が生きていればそれだけで、あとは自動的に素晴らしき人間性が発揮されるとみなす。 そうであればこそ生命が第一の価値だとされるのである。
世にいわれるところの日本的平和主義もまた、この生命第一主義の思想にもとづいている。
つまり、日本における平和主義は単に戦争がない状態ということなのではない。
もしも、戦争が無い状態としてのみ平和を既定するならば、戦争が無い状態の起こらない状態を齎すにはどうすればよいか、という論理のなかで、軍隊を持つことの必要性やさらには大きな戦争を避けるために小さな戦争(武力衝突)をなさねばならないことなども認められたであろう。
だが、日本で平和主義というのはそれ以上のものなのである。
つまり、人間の生命が安穏な状態に置かれること、それが平和主義とされている。
生命が安穏ならば、後は人間性が花開く、というヒューマニズムを信じていれば、素晴らしき社会や生活を期待することが出来るというのである。
だが、生命第一主義は、「性善説。」をとらないかぎり成り立ちえない。
人間が錯誤すを犯すものであるということ、或いは性悪ぶりを発揮しうるものであるということ、または他者を傷つけうるものであること、おのれを堕落させうるものであるということを認めるならば、人間にとっての最大の価値的課題は、「生きることそれ自体。」ではなく、いかに「よく生きる。」かということになるはずであある。
そしていかによく生きるかということを探究するために、様々な価値の追求が行われなければならない。
さらには、様々な価値観の間の対立やカットを調整するために、価値における平衡感覚を鍛えておかなければならない。
極端に言えば、よく生きるために死ぬことをもあえて辞さずという場合も起こりうるのである。
人間性の礼賛に立たないかぎり、この世は何ほどか危険に満ちたものとなる。
社会とは、他者を気づ付け、他者によって傷つけられる関係そのものなのである。
しかも、傷つけ合いの可能性がある関係のなかで、いかにおのれを持すか、あるいは他者との関係を持すかという危険を引き受けながら、ときには自分の生命をも犠牲にしなければ、よく生きたことにはならないという局面すらあるのである。
こうした局面の最も分かりやすい例が戦争ということであろう。
(続く)
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