<学問(31)―倫理(エシックス)>
◇、援助交際を許すと、自分の子孫に不快な『環境』を残す
エシックス(倫理)は、エートスつまり「集団の『気風』。」といった意味であるから、それを個人の好みの問題として論じることは許され『ない』。
それにも関わらず、モーラル(道徳)がモーレス(集団の習俗)と直結する形でとらえられているのと比べると、倫理は個人的価値観のことだとされることが多い。
しかし、倫理という感じの意味も「人々の間柄に関する道理。」のことなのであってみれば、それを個人主義的に解釈するのは無理がある。
だが、エートスやモーレスが現代の個人主義の隆盛によって弱められている背景により、倫理・道徳に論を及ぼさせると「それはきみのかちはんだんにすぎない。」といったような反応が返ってきがちなのである。
また現代の社会秩序が『法律』を中心にして形づくられている。 それゆえ、法律違反は厳しく咎められるが、倫理・道徳違反についてはそうでもない。
それもそのはず、倫理・道徳の安定した体系は存在しない、という見方が広まっているのである…。
その結果、道徳について語るのはアナクロニズム(時代錯誤)とみなされ、そして倫理観は『個人』によって異なるというのが定説となりつつあるわけだ。
しかしこうした時代間には、3つの『弱点』がある。
第1に、法律の罪刑の軽重を定めるには、社会に共通の「価値観。」(つまり道徳)がなければならない。
そしてその道徳の根本に因果応報の原則、つまり「目には目を、歯には歯を。」の「復讐原理。」がある。
とすれば、『法治』の土台は『徳知』だと認めるほかなく、したがって、倫理・道徳に対する無関心は「法律体系。」を突き崩すことになる…。
第2に、チェンジング・ソサイアティ(変化してゆく社会)にあって「法律体系。」と「社会価値。」(倫理・道徳)が食い違っていくのは確かではあるが、そのとき、「合法ではあるが不徳。」の行為にどう対処すべきかが社会の大問題となりうる。
それに向く付け貴制裁を加えるのはいわゆる「リンチ。」である…。(ISISのテロル)
しかしそれを放置するのでは、『法律』と『価値』との乖離が野放しにされてしまう。
法律の適用いおいて、狭くいえば刑罰の決定において、『価値』が息を吹き返すとしておく必要があるのである。
第3に、「他人に迷惑をかけないかぎり、どんな行為も自由である。」という現代の自由論にあって、その『他人』には「将来世代。」をも『加え』るべきである。
ということは、何らかの倫理・道徳が『未来』においても『延命』していると期待することだ。
例えば、援助交際(少女売春)を許したら、自分の子孫に不快な社会『環境』を残す、と懸念するということである…。
このように考えると、倫理H社会的なものであるにとどまらず、「歴史的。」なものだとみなければならない。
言い換えると、『過去』を解雇し『未来』を見通すというパースペクティブ(展望)を持たぬ人間には『倫理』について語る十分な資格がないということである。
それもそのはず、エートスは「集団の『気風』。」であるんだが、どんな集団も「歴史的。」に『持続』すれば『こそ』の集団なのである…。
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