<西部邁師の論(25)。専門(スペシャリティ)。専門家とは、大衆(マス)の「エピゴーネン。」(亜流・追随者)>
「総合知。」がないままに専門知の枝葉を広げていくと、知識が事実から遠ざかっていきます。
「専門主義では、この世の現象・事実のほんの一側面をなでることしかできないのだ。」ということが『失念』されているのです。
近代精神をますす広く深く浸透する「専門主義。」…。
人間現象の全体的輪郭を何らかの「総合的。」概念(総合知)によって把握すれば、現象は事実(ファクト)になります。
『事実』が何であるかがおおよそ分かっていれば、そのある側面を詮索する「専門知。」にも意義があるということになりましょう。
しかし、「総合知。」がないままに専門知の枝葉を広げていくと、知識が事実から遠ざかっていきます。
そのうち、統計数値が事実にとって代わり『分析知』が「総合知。」を『僭称』するといった仕儀に立ち至ります。
一例として社会保障問題において、それに『総合』的に接近するためには、文明論、歴史論、国家論、共同体・社会体論、市場論、財政論などのすべてが欠かせないはずなのです…。
それなのに『財政論』だけでその問題を裁断すると、問題そのものが『破砕』されています。
「専門主義では、この世の現象・事実のほんの一側面をなでることしかできないのだ。」ということが失念されているのです…。
「総合知。」がないままに専門知の枝葉を広げていくと、知識が事実から遠ざかっていきます。
「専門主義では、この世の現象・事実のほんの一側面をなでることしかできないのだ。」ということが『失念』されているのです。
近代精神をますす広く深く浸透する「専門主義。」…。
人間現象の全体的輪郭を何らかの「総合的。」概念(総合知)によって把握すれば、現象は事実(ファクト)になります。
『事実』が何であるかがおおよそ分かっていれば、そのある側面を詮索する「専門知。」にも意義があるということになりましょう。
しかし、「総合知。」がないままに専門知の枝葉を広げていくと、知識が事実から遠ざかっていきます。
そのうち、統計数値が事実にとって代わり『分析知』が「総合知。」を『僭称』するといった仕儀に立ち至ります。
一例として社会保障問題において、それに『総合』的に接近するためには、文明論、歴史論、国家論、共同体・社会体論、市場論、財政論などのすべてが欠かせないはずなのです…。
それなのに『財政論』だけでその問題を裁断すると、問題そのものが『破砕』されています。
「専門主義では、この世の現象・事実のほんの一側面をなでることしかできないのだ。」ということが失念されているのです…。