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湘南文芸TAK

逗子でフツーに暮らし詩を書いています。オリジナルの詩と地域と文学についてほぼ毎日アップ。現代詩を書くメンバー募集中。

旧加賀屋邸

2019-01-09 23:30:33 | 文学
鎌倉長谷の旧加賀屋亥三邸。終戦後貸家になっていた時期に、山口瞳一家が住んでいました。

門をくぐると玄関があります。短歌会のメンバーといっしょのときは玄関からではなく、庭にまわり、門のすぐ脇にある洋館の入口から上がっていました。このときも洋館から上がることにしました。洋館は、天井がとても高く、三十畳以上あったと記憶しています。松方公爵が使われていたときは、ビリヤード台が二台置いてあったそうです。私が遊びに行っていた頃は、まだビリヤード台の脚の跡がはっきりと残っていました。山口の家では、ビリヤードの代わりに応接セットやピアノ、父正雄の仕事机が置いてありました。
 瞳さんとつきあうようになってからの話ですが、この洋館でダンスパーティーが開かれたことがあります。私は短歌会の他、ダンスクラブにも入っていました。瞳さんはダンスがまったくだめでしたが、純兄さんはダンスができたので、みんなで踊ったことがあります。山口の家で開かれたダンスパーティーが縁で結婚したカップルもいます。(山口治子「瞳さんと」より)

鎌倉長谷の家には、多種多様な人間が出入りをした。そのうちの一グループといえるのが、鎌倉アカデミアの教師や生徒だった。昭和二一年、材木座にある光明寺を仮校舎として鎌倉アカデミアが開校し、瞳だけでなく、兄の純や妹の麗子が入学した。
 文学科、産業科、演劇科があったが、文部省の許可は下りず、寺子屋のような学校だった。けれど教授陣は素晴らしかった。校長は哲学者の三枝博音、国文学に片岡良一、風巻景次郎、西郷信綱。文学史に林達夫。仏文学に中村光夫。英文学に高見順、吉田健一――。そして、山口瞳が強く惹かれ、影響を受けた歌人の吉野秀雄も教授の一人だった。(柴田泉「鎌倉の西洋館」より)

かつて同じ敷地内にあった長谷子ども会館(旧諸戸清六別邸)と姿が似ていることから同一人物の設計と伝えられています。
下の写真では見えていないけれど、屋根の上に烏帽子が付いているのが、一緒なのだそうです。

諸戸清六はこのあたりに広大な敷地を持っていました。旧加賀屋邸もその敷地内に建つ十数軒の家のうちの一軒だったのです。

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