現代詩って、社会や自分を解剖していく言葉の冒険。さらさらとありきたりのことを書いてはいけない密度の高い緊張感。
松浦寿輝さんは、内部の詩と矛盾しつつ共存する外部の詩と定義しています。

内部の詩が円環的な求心力に統べられているのに対して、外部の詩は逃走線に沿ってどこまでも拡散してゆく。前者が共同体の起源をいつまでも記憶しつづけようとするのに対して、後者はむしろ起源を忘れ、血も習俗も忘れ、内から外への閾を越えようとする一瞬の不安定な「今」と「ここ」だけを更新しつづけようとする。前者が暗闇を照らし出す中心の火を淵源に持ち、そこへと絶えず求心的に還ってゆく言葉であり、いわば「火の詩」とでもいったものであるとすれば、それに対して後者はいわば、どこから来るとも知れずどこへ行き去るとも知れず吹きすさぶ「風の詩」と呼びうるものであるかもしれない。それは、唇から出るやいなやただちに風に吹きちぎられてゆく言葉、しかし、と同時にみずから風と化し、人々の魂と身体のうちにまで沁みいってゆく野ざらしの言葉である。「風狂」の倫理と存在美学が指し示しているのも、こうした「風の詩」の領域なのではないか。
大まかな括りで言えば、「古典の空間」とは内部の詩が咲き馥る場所のことであり、「現代詩の冒険」が繰り広げられるのは外部の詩が吹きすさぶ荒野のことだととりあえず定義できるかもしれない。が、しかし事態はそれほど単純ではない。実のところ、こうした内部/外部の対立自体、観念的な二分法にすぎず、内部と外部、火と風は、一人の詩人の中で矛盾しつつ共存しているのだろう。内部へ引き絞られてゆく力と外部へと逃れ出てゆく力と、その両者に絶えず引き裂かれながら産み落とされてゆくものが真正の詩なのだろう。
内部のただなかにいきなり外部の孔が穿たれる場合にせよ、外部のただなかに不意に内部が囲いこまれる場合にせよ、そのときわれわれが立ち会うのは、言葉とその意味との間に結ばれている因習的な関係に何らかの地滑りが生じるという出来事である。意味作用を統御する出来合いのコードに亀裂が走り、ふつう意味される以上のもの、ふつう意味される以下のものを背負い込んでしまった言葉が、その過剰な負荷に軋むとき、そこに走り抜ける出来事が詩なのである。
「詩の波 詩の岸辺」より
松浦寿輝さんは、内部の詩と矛盾しつつ共存する外部の詩と定義しています。

内部の詩が円環的な求心力に統べられているのに対して、外部の詩は逃走線に沿ってどこまでも拡散してゆく。前者が共同体の起源をいつまでも記憶しつづけようとするのに対して、後者はむしろ起源を忘れ、血も習俗も忘れ、内から外への閾を越えようとする一瞬の不安定な「今」と「ここ」だけを更新しつづけようとする。前者が暗闇を照らし出す中心の火を淵源に持ち、そこへと絶えず求心的に還ってゆく言葉であり、いわば「火の詩」とでもいったものであるとすれば、それに対して後者はいわば、どこから来るとも知れずどこへ行き去るとも知れず吹きすさぶ「風の詩」と呼びうるものであるかもしれない。それは、唇から出るやいなやただちに風に吹きちぎられてゆく言葉、しかし、と同時にみずから風と化し、人々の魂と身体のうちにまで沁みいってゆく野ざらしの言葉である。「風狂」の倫理と存在美学が指し示しているのも、こうした「風の詩」の領域なのではないか。
大まかな括りで言えば、「古典の空間」とは内部の詩が咲き馥る場所のことであり、「現代詩の冒険」が繰り広げられるのは外部の詩が吹きすさぶ荒野のことだととりあえず定義できるかもしれない。が、しかし事態はそれほど単純ではない。実のところ、こうした内部/外部の対立自体、観念的な二分法にすぎず、内部と外部、火と風は、一人の詩人の中で矛盾しつつ共存しているのだろう。内部へ引き絞られてゆく力と外部へと逃れ出てゆく力と、その両者に絶えず引き裂かれながら産み落とされてゆくものが真正の詩なのだろう。
内部のただなかにいきなり外部の孔が穿たれる場合にせよ、外部のただなかに不意に内部が囲いこまれる場合にせよ、そのときわれわれが立ち会うのは、言葉とその意味との間に結ばれている因習的な関係に何らかの地滑りが生じるという出来事である。意味作用を統御する出来合いのコードに亀裂が走り、ふつう意味される以上のもの、ふつう意味される以下のものを背負い込んでしまった言葉が、その過剰な負荷に軋むとき、そこに走り抜ける出来事が詩なのである。
「詩の波 詩の岸辺」より
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