写真は愛知県豊田市平戸橋にある豊田市民芸館に展示
されている古瀬戸 ( こせと )
陶磁家で古瀬戸のことに誰よりも詳しい加藤唐九郎が本多静雄氏から灰釉のかかった
陶器の破片を見せてもらって、「 かすかに釉薬をかけたと思われるものがある。
自分は瀬戸の釉薬の初源がこんなわれわれの足元に転がっていようとは思わなかった。」
と言っていますが、私のような陶器のことに疎い者には、この発見がどうして大ニュース
に繋がっていくのか、今ひとつピンときません。
そこで、本多静雄氏の著書などを参考にして、私なりに解釈してみました。
まず、唐九郎が 「 瀬戸の釉薬 」 と言っているのは、古瀬戸のことだと思います。
古瀬戸とは、広辞苑によると、「 鎌倉・室町時代に今の瀬戸を中心につくった焼物 」
とあります。
この説明だけでは不十分で、「釉薬 ( ゆうやく ) 」にカギがあると思います。
古瀬戸というは、人工的に釉 ( うわぐすり )を素焼きの陶器にかけたもので、この
「 人工的 」というのが、 この際、重要になってきます。
唐九郎が本多氏から見せてもらった陶器の破片には 、かすかに釉薬がかかっていた
と言いますが、これは、窯の焚き火が偶然、素焼きの陶器にかかって溶け、化学反応
を起こしてガラス質の古瀬戸と同じような陶器ができたもので、これを自然釉という
ことです。
その後、本多静雄氏は次々に古い窯跡を見つけ、陶器の破片を沢山、収集しますが、
その中には、人工的に釉 のかかったものもありました。
日本では、古墳時代から奈良時代にかけて、釉のかかっていない素焼きの陶器 ( 須恵器
や土師器 )があって、鎌倉時代に入ると突然、人工的に釉のかかった古瀬戸があらわれる。
その間に何かあったのでは、と唐九郎が探し求めていたものが、まさに、あの陶器の
破片だったというわけです。
唐九郎が「瀬戸の釉薬の初源 」と言っていたのが、後に猿投窯と呼ばれるように
なります。
これで、やっと猿投窯までたどり着けたと思うのですが、どうでしょうか。
本多静雄氏が持ってきた陶器の破片を見て、「 こりゃ大変なものだ 」と言った
陶芸家の加藤唐九郎は間もなく上京のついでに、日本陶磁器協会の小山富士夫に
この破片を見てもらいました。
陶磁研究の第一人者、小山富士夫はこれを見て、新聞社に 「 猿投山麓の黒笹で
不思議な窯跡が発見された。あるいは、日本の釉薬の初源かもしれない。」と
発表しました。
その夜、豊田市平戸橋の本多宅に地元の新聞記者がやってきて、
「 東京から連絡があって、この辺で古いカマが発表されたという話だが、そのカマを
見せてくれませんか 」と言ったという。
記者はてっきり「 お茶 の釜 」と思っていたようですが、それももっともな話で
誰もこの辺りに古い陶器の窯跡があったことなど知る人はいませんでした。
つづく
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