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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

大田原宿~鍋掛宿~越堀宿~芦野宿。その1。(「奥州街道」をゆく。第3日目。)

2016-10-12 23:09:34 | 奥州街道

 相変わらず不順な天気が続きます。10月10日体育の日。運動日和(らしい)。久々に予報では曇り時々晴。湿度も高くなさそう。
 そこで、「奥州街道」3日目。前回の地点「大田原」の「神明交差点」までやってきました。JR在来線で「西那須野」駅に9時前に到着。駅前ロータリーから市営バスに乗って、と。料金は200円。「末広二丁目」バス停。
 ところが、このバス。市内をぐるぐる循環するバス。右に行き、左に行き、まっすぐ行きと、まさに大きな通りをぐるぐる回ります。「日赤病院」へ、「工業団地」へ向かい、「市役所」に停まり、・・・、なかなか目的地に着きません。「東武」とかバイパスの大きなテナントが軒を並べる道を通るなど、言ってみれば「市内巡り」。
 ということで、乗っていた数人の方もすっかり途中下車し、一人、やっと目的地に着きました。

 スタートは9時50分を過ぎたところ。これでは、約22㎞先、「芦野宿」の「芦野仲町」のバス《15時58分 「黒田原駅」行き》に乗れるかしら? 少し不安なまま、出発です。間に合わなければ最終の16時58分発でもいいか、と。

 天気は、思ったよりも雲が多く、時折、雨の心配をしそうな雲行き。でも、晴れ間も出て、1日、何とか持ちました。暑くなく、寒くなく、涼風も吹いて、飲み水もペットボトル1個で済んだほど。ただあまり寄り道をせず、ひたすら歩いた感じです。約32.000歩。前回(第2日目)が約40.000歩でしたから、時間にして1時間ほど少ない歩きでした。
 日曜のせいか、車はかなり行き交いますが、ほとんど誰とも会わず、挨拶や会話した人は5,6人という静かな旅です。

街中にはきれいな用水が目につきます。

閑散とした街のようす。

左手に「薬師堂」。この付近で、道は桝形になっています。

「大田原宿下町」道標。

 「裁判所」の向かい側・右手に「本陣・問屋・高札場跡」と記された案内板があると聞いていましたが、気がつかず通り過ぎてしまいました。左手にある「大田原信用金庫」の前には、那須与一の銅像が建っています。ここは、那須与一のゆかりの土地らしいです。

                             

那須 与一
 嘉応元年(1169年)? - 文治5年8月8日(1189年9月19日)?)
 治承・寿永の乱において、源頼朝方に加わり、源義経に従軍。元暦2年(1185年)の屋島の戦いで、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とす逸話が有名。
 この銅像もそれにあやかったもののようです。弓の腕を上げようと修行を積み過ぎた為、左右で腕の長さが変わってしまったと伝えられている、とか。

 矢ごろすこし遠かりければ、海へ一段ばかりうち入れたれども、猶扇のあはひ七段ばかりはあるらむとこそ見えたりけれ。ころは二月十八日の酉刻ばかりの事なるに、をりふし北風はげしくて、磯うつ浪もたかかりけり。舟はゆりあげゆりすゑただよへば、扇もくしに定まらずひらめいたり。おきには平家舟を一面にならべて見物す。陸には源氏くつばみをならべて是を見る。いづれもいづれも晴ならずといふ事ぞなき。
与一目をふさいで、「南無八幡大菩薩、我国の神明、日光権現宇都宮、那須の温泉(ゆぜん)大明神、願くはあの扇のまんなか射させてたばせ給へ。これを射そんずるものならば、弓きり折り自害して、人に二たび面をむかふべからず。いま一度本国へむかへんとおぼしめさば、この矢はづさせ給ふな」と、心のうちに祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹きよはり、扇も射よげにぞなったりける。
 与一鏑をとてつがひ、よっぴいてひやうとはなつ。小兵といふぢやう十二束三ぶせ、弓はつよし、浦ひびく程ながなりして、あやまたず扇のかなめぎは一寸ばかりおいて、ひふっとぞ射きったる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞ上がりける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさっとぞ散ッたりける。夕日のかがやいたるに、みな紅の扇の日いだしたるが、白浪のうへにただよひ、うきぬしづみぬゆられければ、奥には平家ふなばたをたたいて感じたり、陸には源氏、箙をたたいてどよめきけり。
                                                                       (『平家物語』より)

      (写真は、「Wikipedia」より。)

古いおうちと新しいおうちと。 

 (10:02)「金燈籠」交差点には大きな金属製の燈籠。「金燈籠ポケット公園」となっています。また、公園内には『奥の細道』の序文と那須野のくだりが刻まれた石碑と、『旧奥州道中 大田原宿』の石柱も立っています。

    

金燈籠
 町人文化ノ華ガ咲キ誇ッタ文化文政ノ頃 ココ大田原宿ハ江戸ノ文化ヲ奥州ヘ伝エル旅人ト ミチノクノ産物ヲ江戸ヘ送ル商人ノ行キ交ウ宿場トシテ栄エタ
 タマタマ文政2年(1819)10月ニ「町内安全」ノ祈リヲコメテ建立サレタノガ金燈籠デアリ モノ堅イ人達ニヨッテ欠カサズ点サレ 旅人ヤ町人ノ目安トナリ心ノ安ラギトナッタ常夜燈デモアッタ
 コノ燈籠ハ鹿沼ノ技工ガ鋳タ由デアリ 本体基部ニハ當時ノ町内有志及ビ世話人38氏ガ鋳名サレテイル貴重ナ文化財デアッタガ 太平洋戦争末期ニ供出シ ソノ姿ヲ消シタノハ残念ナコトデアッタ
 ソノ後 昭和30年7月 町内有志ニヨリ三斗小屋宿カラ金燈籠ヲ譲リウケ 百人講ノ盡力ニヨリ復元サレタコトハ 先人の意ヲ継グ自然ノ情トシテ高ク評価サレルトコロデアッタ
 然シナガラ時代ノ推移ニ伴ウ車ノ激増ニヨリ 金燈籠ハソノ安住ノ地ヲ失イ 十字路ノ片隅ニ放置状態ニアッタノヲ昭和53年8月ニ黒磯市ヘ返還ニナッタモノデアル
 折シモ金燈籠建設委員会ガ結成サレ 金燈籠再建ノ計画ヲ発表シタトコロ 上町内有志ヲ中心トスル各位ノ深イ理解ニヨッテ再建デキタノハ何ヨリモ幸イナコトデアル
 ココニ「上町 江戸 白川」ト刻マレタ台石ニ往時ヲ偲ビ 祖先ノ息吹キヲ感ジトリナガラ 建設用地提供者並ビニ別記協力者一同ニ感謝スルト共ニ 上町「金燈籠」ガ末永ク伝エラレルコトヲ望ムモノデアル
                                   昭和54年8月吉日 金燈籠建設委員会

 台座は往時のもので、文政2年(1819年)に造られたもので、西側に「江戸」、そして東側に「白川」と大きく彫られてあり、道標を兼ねたものでした。また、この交差点は塩原道との追分でもありました。


    

奥の細道 元禄2年
 月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ。馬の口とらへて老いを迎ふる者は日日旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの頃よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず。

那須野 芭蕉
 那須の黒羽といふ所に知る人あれば、これより野越にかかりて、直道を行かんとす。遥かに一村を見かけて行くに、雨降り日暮るる。農夫の家に一夜を借りて、明くればまた野中を行く。そこに野飼ひの馬あり。草刈るをのこになげきよれば、野夫といへどもさすがに情しらぬにはあらず。「いかがすべきや。されどもこの野は縦横にわかれて、うひうひしき旅人の道踏みたがへん、あやしう侍れば、この馬のとどまる所にて馬を返し給へ」と、貸し侍りぬ。小さき者ふたり、馬の跡したひて走る。独りは小姫にて、名をかさねといふ。聞きなれぬ名のやさしかりければ、

かさねとは八重撫子の名なるべし 曽良

 やがて人里に至れば、あたひを鞍つぼに結び付けて馬を返しぬ。

                                  昭和53年5月 里ノ僧採文シテ野夫コレヲ建ツ


 左手にある江戸時代創業の「那須屋」はモダンな建物になっています。その先の交差点を左折します。さらに元旅籠屋の「上州屋」で現在「ホテルみつや」の角を右折します。城下町らしく七曲がりのようになっています。

    
   「大田原宿 寺町」道標。                       (10:10)行く先を望む。 

 その先も枡形になっています。大田原宿もそろそろ外れになります。
    

大田原
 大田原の町は、戦国時代に、那須家の家臣、大田原資清が大田原城を築城し、現在の市街地の基礎がつくられた、といいます。
 江戸時代の天保14年(1843年)には、宿内人口1,420人、戸数245軒で、本陣2、脇本陣1、旅籠42の賑やかな宿場でした。往時を偲ぶ史跡はほとんどなさそうです。

    
                              石蔵造りの倉庫。
  
                        昔の佇まいをのこした建物。
    

左手には「竜泉寺」。

さらに「大田原神社」。 「奥州道中大田原宿大久保木戸跡」碑。

 (10:18)突き当たりの道を左折して「蛇尾(さび)川」を渡ります。正面の高台が「大田原城城址」・龍城公園。
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氏家宿~喜連川宿~佐久山宿~大田原宿。その6。(「奥州街道」をゆく。第2日目。)

2016-10-04 18:58:50 | 奥州街道
 かつては橋の手前を左に曲がって川を渡ったようですが、今はこのまま道を急ぎます。橋の上流には観光用のやな場が見えます。釣り人もチラホラ。「佐久山観光やな」という施設のようです。
(TV TokyoHPより) 
 梁漁(やなりょう)とは、川の中に足場を組み、木や竹ですのこ状の台を作った梁(やな)という構造物を設置し、上流から泳いできた魚がかかるのを待つ漁法である。アイヌ語ではウライと呼ばれる。
 すのこは上流側に傾いて設置され、上流側では水中にあり、川下側では水上にある。川の水はすのこを通って流れるが、上流から泳いできた魚はすのこの上に打ち上げられる(強制陥穽)。観光やなでは、梁場に自由に出入りができ、打ち上げられた魚は自由に捕まえることができるが、真ん中にある生簀に入れ、持ち帰ることはできない。また、有料で捕まえた鮎を持ち帰ったり、料理してもらえる梁もある。秋に産卵のために川を下るアユなどには効果的な漁法である。
 やなとは、梁漁(やなりょう)を売り物にした食事処である。観光やなともいう。
 梁に入って鮎を捕まえて楽しむことが出来たり、食事ができる。料理は主に鮎料理だが、やなに上がったアナゴやウナギを出すやなもある。基本的には河川にやなを設置し行われるが、生簀や人工川を設けて行う施設もある。
 通常は6月下旬〜10月末、場所によっては4月下旬〜11月末までである。開催時期には釣り解禁日や禁漁日が関係する場合があるため、その地域の漁業協同組合によって異なる。

那珂川水系にある「やな」

大瀬観光やな - 栃木県芳賀郡茂木町
矢沢のやな - 栃木県那須烏山市
観光やな・ひのきや - 栃木県那須烏山市
舟戸観光やな - 栃木県那須烏山市
高瀬観光やな - 栃木県那須郡那珂川町
黒羽観光やな - 栃木県大田原市
余一やな - 栃木県大田原市
那須塩原観光やな - 栃木県那須塩原市
一ツ石観光やな(荒川) - 栃木県那須烏山市
森田城やな(荒川) - 栃木県那須烏山市
高瀬観光やな(荒川) - 栃木県那須烏山市
ゆりがねのやな(武茂川) - 栃木県那須郡那珂川町
馬頭観光やな(武茂川) - 栃木県那須郡那珂川町
佐久山観光やな(箒川) - 栃木県大田原市
松原やな(箒川) - 栃木県大田原市
箒川観光やな (箒川)- 栃木県矢板市
                                      (以上「Wikipedia」参照)
 「那珂川」水系には、けっこうあります。

 しばらく釣りの様子を眺めていました。さて出発! 道路際には草花が。


(15:09)左手の路傍に馬頭観音等が建っています。

この地は「那須与一」の地。「与一卵」。 

ほぼ直線の道が続きます。

古い屋敷門のあるおうち。


 (15:19)そのすぐ先で小さな橋を渡りますが、小川を覗くと清流に水草が揺らいでいます。どこかで見た風景。そう、旧中山道・熊谷宿に入る手前に同じような水草がそよぐ清流がありました。
 世界で唯一存在するる「ムサシトミヨ」という「トゲウオ科」に属する淡水魚の生息地でした。、
(熊谷にて)。

「ムサシトミヨ」。

 この川は同じ「トゲウオ科」に属する「イトヨ」の生息地のようです。
「イトヨ」。

 この魚の種類は、「イトヨ」と「トミヨ」の二種があって、春季河口より川を遡って産卵し、幼魚は海に下って育つ習性をもっています。石川、山形、新潟の各県に生息しており、大きさは約3センチメートル余りで、本市のイトヨは幼魚・成魚ともにこの河川中に常時生息するという封土的特異性があるので珍しいといわれています。4月~5月の産卵期になるとオスは鮮紅色となり、動作が活発になります。このころ、流れのゆるやかな泥土質の場所や水生植物の根茎部にチクワ型の巣をつくり、産卵が終わると巣の片方に蓋をしてオスは外的を監視して目は燐光を放ち、背の三本刺を倒立させて巣のまわりを警戒します。地元では、”とげ魚”と呼ばれ親しまれています

                             (「大田原市観光協会」公式HPより。写真も。)

 次第に西日が強くなってくる中、旧道は延々続きます。
    

右手が開けてきます。

交差点のところに『那須与之墓』という道標が立っています。

 「親園」という集落に入っていきます。
    

 しばらく進むと、右手に国井宅の見事な赤マツ。
    
【与一の里名木選】
 名    称  国井宅の赤マツ(一本)
 目通り周囲  1.7メートル
 樹    高  7.0メートル
 推 定 樹 齢  約200年
 選 定 理 由  古木

     平成3年12月19日 大田原市
 その先、左手に「湯殿神社」。

 その入口付近に「鞘堂」があって、「浦蘆(ほろ)碑」という石碑が納められています。 
    

蒲慮碑 史跡(昭和36年3月22日指定)
 文化9年(1812)10月那須野に一隊の兵士が刀を荷い槍をうち立て行進する蜃気楼が現れた。たまたまここを通った甲州の高津義克という行脚僧が目撃し、この光景を記した。それが蒲慮碑原文である。のちに石に刻んで建立したのがこの碑である。
 土地の者は蜃気楼のことを「ホロ」と呼んでいた。当時親園地区は八木沢村と呼ばれ、代官・山口鉄五郎の支配下にあり、代官の出張陣屋が設けられていた。山口鉄五郎は水路を開消し新田を開発するなど農村の振興につとめ領民から深く親しまれていた。人見伝蔵は著者「那須野蜃気楼・蒲慮碑考」の中で、中国の書「中庸」の中には「政治は蒲や慮のようなもの」という一文があり、碑文はこの山口鉄五郎の善政を蜃気楼の蒲慮に結び付けたものとしている。
 原文は奉書に隷書体で一行13字、13行に書かれている。この碑文には楷書で本文159文字が刻まれている。

斜め向かいには立派な門構えの目のおうち。

 その屋敷門の左の内側に「祠」のようなものが置かれ、「町初(まちはじめ)碑」が納められています。
    

町初碑 史跡(昭和43年2月15日指定)
 碑は、高さ55センチメートル、周囲93センチメートルの自然石で、表面に「此町初寛永四卯(ひのえ)年」、裏面に「国井与左衛門」と刻されている。
 この碑は三代徳川将軍家光の寛永年間(1624~1644)に奥州街道筋に八木沢が開かれ、それを記念しての建立であろう。国井与左衛門はこの地の名主役をつとめ、代々与左衛門を名乗った。
 寛永4年(1627)は「丁(ひのと)卯」であることから本碑は後年の建立と思われる。この寛永4年を奥州道中の開通の年とみる向きもあるが、そうではなく、これはあくまで町初めの年である。いずれにしても町初めの年を石に刻し、その起源を明らかにしている点、歴史的価値は高いものである。

この碑の先で、「百村(もむら)川」に架かる「筋違橋」を渡ると、

 ここから大田原宿入口まで約3㎞に及ぶ直線道路。
    

 この間「百村川」の川べりをひたすら歩きます。「百村川」から離れて、やがて左にカーブすると、街中に入って行きます。

「大田原宿」入口。

「神明町交差点」に。

 ここを右折すると大田原宿に入って行きますが、今回はここまで。

 さて、帰りはどうするか? 「末広2丁目」バス停の時刻表を見ると、早くも終バスが出た後。これからJR「西那須野」駅まで小一時間歩くしかないか。ふと左手にビジネスホテル。タクシーを頼むことにします。
 フロントの方、「目の前がタクシー会社の車庫ですよ」とすぐ呼んでくれました。助かりました! 「西那須野」駅まで1.450円。在来線で帰って来たので、金額的にはまあまあです(路線バスだと「那須塩原」駅に向かい、バス代は200円ですが、新幹線で帰ることになったら? )。 
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氏家宿~喜連川宿~佐久山宿~大田原宿。その5。(「奥州街道」をゆく。第2日目。)

2016-10-03 23:12:41 | 奥州街道

 (14:02)左から来る県道48号に合流し、これから先は県道48号線として進みます。
    
                       道ばたには秋の草花が咲き誇っています。

 しばらく進むと右手に「JA農産物販売所」。県道から分かれて、信号を斜め左に入って行きます(実際はもう少し手前で左に行く道が旧道)。


(14:36)直進して進むと前坂の交差点で、さっき分かれた県道48号線に突き当たります。
                    

 そのまま、県道を横断して細い下り坂を直進するのが旧街道で、 細い坂道を下って行くと左に「観音堂」があり、その先の枡形を左折すると、さきほどの県道と合流して「佐久山宿」の中心部へ向かいます。

佐久山宿(さくやまじゅく)
 奥州街道(奥州道中)の21番目の宿駅(宿場町)。現在の栃木県大田原市佐久山。
 佐久山宿は、江戸時代、かつて佐久山城があった土地が奥州街道(奥州道中)喜連川宿の次の宿駅として整備された宿場町で、下野国那須郡にあった。天保14年(1843年)の『奥州道中宿村大概帳』によれば、佐久山宿は家数121軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒、人口473人であった。佐久山宿本陣は井上家や村上家が勤めた。
 喜連川宿から奥州道中を北に向かうとつるが坂を通り曽根田に至る。曽根田では江川を橋で渡っていた。この川の手前岸には、明治天皇が行幸した際に使用された休憩所の碑が立っている。対岸に着いた後、さらに北上すると福原道(ふくはらのみち)を分岐する追分を経て佐久山宿へと着く。
 佐久山は下野国の名家のひとつである那須氏発祥の地である。那須資隆の子である那須泰隆がこの地に佐久山城を築城して住まい、はじめて佐久山氏を名乗った。永禄年間には福原資孝が佐久山城攻めて落城させ、その後元禄年間は子孫の福原氏子孫の福原資倍が佐久山城を修復して入城、以後、城下町の機能を併せ持つ宿場となる。

 (14:46)左手からの県道に合流して、すぐ左手に屋敷門を持つ立派なおうちがあります。門の右脇に『運用膏』と書かれた古い看板があります。かつては戊辰戦争の時に傷薬として評判になったそうです。
    

「県道」に沿って続く宿場。かつての面影はありません。

 心なしか空き地が目立ちます。そういうところに大きな記念碑が建てられています。
     

「豊道春海翁生誕之地碑」・「豊道春海翁顕彰事業」
 大田原市では、市出身の偉人の顕彰事業を実施しております。
 豊道春海翁は、この地佐久山出身で、明治から昭和にかけての日本を代表する書家であります。大田原名誉市民第1号であり、文化功労者にも選ばれた春海翁の功績を称え、これを後世に伝えるため、没後40年の節目の年に顕彰碑を建立しました。

                    平成22年2月24日 大田原市

 軒の低い商店。「地酒天鷹」。

 碑のすぐ先、右側に「大田原市消防団」の建物があり、 隣には公衆便所。街道筋を意識した建物。その右側に「旧奥州道中 佐久山宿 下町」の石柱が建っています。
                      

安政2年(1855)創業の「小島屋」菓子店。名物は与一力餅最中や勘兵衛饅頭。

 ガソリンスタンド脇を左折した奥の裏山が「佐久山城址」になりますが、省略。

新旧混じった家並み。

郵便局の手前には先ほどと同じような記念碑「村上英俊翁生誕之地碑」。

    

「村上英俊翁顕彰事業」
 村上英俊翁は、この地佐久山出身で、日本で初めてフランス語を修め何冊もの辞典を刊行するなど、幕末期から明治期にかけて活躍した学者です。1885(明治18)年には、日本にフランス学を創始した功績により、フランス大統領からジョン・ヌール・シュヴァリエ勲章が授与されました。これらを後世に伝えるため、日仏交流150周年に合わせて顕彰碑を建立しました。

 また、この地が本陣跡だと言われていますが、現在は広い空き地になっていて、特に説明板等もありません。

 (14:58)じきに「佐久山宿」は終わりになり、鈎の手になって右にカーブしながら坂を下ります。
    
                                                宿内を振り返って望む。


 坂の途中の正浄寺には芭蕉の『花の陰 謡に似たる 旅寝哉  芭蕉翁』という句碑があるようです。
 この句は、『笈の小文』の旅の途中、吉野にて詠んだもの。花はもちろん、桜。この句碑のように、芭蕉の句碑は詠まれた所などとは関係なく、後生になってその地域の俳人たちの発願によって建てられたものが多い。

 (15:02)しばらく進み、「箒川」に架かる「岩井橋」を渡ります。
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氏家宿~喜連川宿~佐久山宿~大田原宿。その4。(「奥州街道」をゆく。第2日目。)

2016-10-01 21:28:41 | 奥州街道

 (11:46)「内川」を渡ると、ゆるい上り坂になります。右手にはいつ頃出来たのか、新しく大きな石像の「双体道祖神」が建っています。そばでは作業員が黙々と草刈り。


 ここから長い「つるが坂」(漢字だとどう表記するのでしょうか? )を上って行きます。右手には、「フィオーレ喜連川」入口の案内板がちらほら。そばには馬頭観音? のようなもの。
       

 かなり日差しが強く蒸し暑くなってきて、木陰や涼風を求めて道路を右に行ったり、左に行ったり。車はほとんど通りません。足元には栗が散乱しています。見上げると、栗の木が続いています。孫たちに見せようと、少し拾ってみます。
                                                   

やがて歩道が無くなり、車に気をつけながらの上り坂。

(12:21)左手が開けてきて、遠くに集落も見えはじめます。

やっと坂の頂上に。振り返って望む。

その後は下り坂になり、下り終えた所で県道25号線と合流します。

周囲の田園風景の中、広々とした道を進みます。

               秋空。時々澄み渡って。

足元の収穫後の畑には種用なのか大きな? 

 (12:42)左手に大きな長屋門が見えてきます。
    

 ここまででけっこうくたびれました。途中には寄るところ、なし! コンビニも自販機もなし! 向かい側にある「上江川郵便局」の階段に座っておにぎりを食べながら休憩します。

 (12:59)この先の「下河戸」交差点を右折していきます。ここまで歩いている人にはまったく会わず、信号のところで初めて親子に出会いました。


 (13:03)信号を右折するとすぐ右側に、「天皇御小休之際御膳水」の碑と「双体道祖神」(建立時期はさっきのものと同じ? )が建っています。


   この先も東京近郊では失われつつある「里山」らしい田園風景の中、旧道歩きが続きます。
    

 (13:12)右手に「源氏ボタルの里」の案内。

 道が丘の脇を通るゆるい上り坂になり(ここにも栗が道ばたに)、次第に集落に近づきます。


「きつれ川きらきら幼稚園」。

 (13:20)その先、右側の公園奥に「明治天皇御休輦之處」の碑が建っています。
    

 ほとんど利用者がいないのか、荒れ果てた印象。かつてはGateボール場でもあったのか、大きな白線が引かれてあった。ちょっと足を踏み入れるのも躊躇。

 すぐ隣は老人ホーム「にこんきつれ荘」。

 周囲には家が建ち並ぶようになります。
    
                                   「きをつけて ←佐久山 喜連川→」。

 (13:41)「大田原市」に入る手前、民家の庭に一里塚があるとのことでしたが、注意していても見つからず、「さくら市」と「大田原市」の市境に来てしまいました。
    

その途中にあった小さな野仏。「ほほえみの仏」。

「与一の里名木選 つつじ」。

 (14:02)「大田原」市内にはゴルフ場施設がたくさん。そういえば、「宇都宮線」行き帰りの電車でもゴルファーをよく見かけます。案内表示がびっしり。



 向かいのコンビニで小休止。蒸し暑さがだんだんとこたえてきます。
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