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おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

追悼:橋本治さん。

2019-01-30 21:26:43 | 読書無限
 桃尻語訳の「枕草子」でショックを受けたその時以来、けっこう小説から評論、と手当たり次第読みました。
 ともかくも多芸多才な人物。驚くべき執筆ジャンル、そのおびただしい執筆活動、・・・。
 激動の時代を切れ味鋭く切り取り、咀嚼し、後ろも見ずに走り抜けていった方。
 難病で苦しんでいたとは知っておりましたが、こんなに早く亡くなられるとは、・・・。

 このブログでも何冊か取り上げています。読んだ割には意外と少なかったですが、掲載順ではなく、再掲して追悼に代えます。


 三年前の「東日本大震災」。その傷も未だ癒えずにいる、その中で、生活する家族、そして一人ひとりの生き方。
 阪神淡路を超えてきつつあった多くの日本人が再び未曾有の災害に見舞われ、まして、福島原発事故に遭遇し、それまでの生き方、生活の見直しを余儀なくされた・・・。
 しかし、三年を経過し、原発の再起動路線が政治日程に組み込まれ(「日本復興」という大義名分のもとで)、いつしか風化しつつある(風化させられつつある)今日、改めて、三年前を振り返る。立ち止まって考え直す。そんな連作。最近の橋本さんらしい一代記風の慌ただしさで、家族の、夫婦の、親子の「絆」を、どこかで声高に叫ばれるものとは異なる切実な思いのこもったものとしてではなく、とらえ直していく。
 橋本さん自身、「面倒臭い病気になってぶっ倒れ、その後には大震災によって日本そのものが『立ち止まる』」状況に立ち至った」かなりやっかいな病気に冒された橋本さん。
 ・・・。身辺を巡る時間と空間を自在に操る橋下さんらしい切り口。
「橋本治という立ち止まり方」(橋本治)朝日新聞出版
 副題「on the street where you live」とする筆者の思いをどう受け止めるか? 唐突ですが、民主党政権への失望とその反動からの自公政権への絶望という政治状況から何を見い出しうるのか(将来に向かって)。大きな問いかけを感じ取らなければならないようです。
 
 「初夏の色」淡い蜜柑色に秘めた思いは、絶望か、再生か。そこには、かすかな期待、再生が込められている、と。
 一方で、つい同世代としての悲哀をも感じました。


 よくTVで取り上げられる「ゴミ屋敷」騒動。もう家の中から庭先までゴミの山々、異臭を放ち、近所の苦情が殺到しても当人はどこ吹く風。
 こうした街中の騒動話が、そのうち、TV視聴率かせぎの商品になっていく。実況中継や近所の奥様方のインタビューが中心。そして、役所はどうして放っておくのか、何とかすべきだ、というところに落ち着いて、すてきな商品のCMにつながって・・・。
 我が愛する橋本さん。これを逆手にとって見事な一大・人生話に仕立て上げた。「ゴミの中には、捨てられないものがある。捨てられない人生が埋まっている」
 「ゴミ」屋敷の、年老いた主人公。日本の戦中から戦後、高度成長時代の中、時代に翻弄され転換していかざるを得ない人生、家庭生活・・・。それらを時代時代の風俗を織り交ぜて、足早に追っていく。まさに疾風怒濤の如き、市井の人の人生を描いている。
 そして、すっかり片付けられた屋敷で、かなり年の差がある弟とのしみじみとした会話。兄と同様に、弟も人生の悲哀をしっかり味わってきた。これからの「生きる意味」を探しに、仏様への祈りのため、二人で四国札所巡り・巡礼の旅に出た、その旅先で、主人公は静かに息を引き取る。
 「ただ意味もなく歩き回っていた」人生に、うっすらと笑いを浮かべながら別れを告げていった、と弟は実感する。
 通俗的でありふれた人生ばなしに、すてきな色香を添えた橋本語りであった。


 久々に橋本治。「もの達」と「もの」をひらがな書きしたのがミソ。つまり作品と作家との関連を読み解くという。森鴎外、田山花袋、国木田独歩、島崎藤村「達」とその作品「達」を取り上げ、日本の自然主義文学の「理念・発想」「成立」「文体」「視点」など作品そのもと作家の人となりを探っていく。
 日本の「自然主義文学」は、私小説というかたちに収斂され、そこに独自の世界と限界を持っていた、さらにその文体的な特徴を日本的な文化に置き換え、「恥」の文化、「曖昧」な文化、その代表が「あいまい」文体の島崎藤村であった、という説をたしか読んだことがあったが。また、日本の文壇の特殊性・閉鎖性などへの批判なども・・・。
 久々にその復習を兼ねてのものでした。橋本治らしい執念深さで「自然主義」文学とその表現方法としてあった「言文一致体」に迫る。
 再三引用されるのが二葉亭四迷のことば。
 
 「近頃は自然主義とか云って、何でも作者の経験した愚にも附かぬ事を、聊かも技巧を加えず、有の儘に、だらだらと、牛の涎のように書くのが流行(はや)るそうだ。好い事が流行る。私も矢張り其で行く」(『平凡』)

 とくに、 「牛の涎のように」という比喩がお気に召したようで何度も引用しています。まさに「だらだら」文体。でも、実際はそうでもないのでは、ということを明らかにしていこうとするが、やはりそうであった、と。そこに、「失われた近代」を求めていく? 
 花袋の『蒲団』、独歩の『武蔵野』そして、藤村の『破戒』。「人には言えない『=旧』という素性を抱えて隠し続けるがゆえに重苦しくならざるをえない瀬川丑松の胸の内を書くもの」(P144)がどうして四迷のいうところの「自然主義」の「小説」なのか、と。橋本治の「こだわり」が随所に出てきます。
 『破戒』は、けっして被差別民の葛藤を描いたのではなく、「言いだしえない」もどかしさがテーマだとする、そうとらえると、『蒲団』も同様。実にだらだらと牛の涎の如く書き連ねる、そこがまさに「自然主義」文学だ、と。作品(もの)を書いたもの(作者)が「自然主義」ではないと言っても、作品そのものは、四迷が提起(半分揶揄)した類いのジャンルになるというわけですね。

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