おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

70 日清紡亀戸工場、被服廠跡・亀戸野球場

2009-05-28 18:43:03 | 歴史・痕跡
 JR総武線の錦糸町駅から蔵前橋通り、「オリナス」を右折して東に約500m。横十間川に面した亀戸二丁目団地の奥に「亀戸野球場」があります。周りを高層住宅に囲まれた都心、錦糸町駅と亀戸駅のまん中あたり、二面の立派な野球場があります。
 ここは、もともと日清紡の本社工場があったところです。「日清紡績」は、1907(明治40)年、資本金1,000万円で設立され、この地に本社・亀戸工場を新設しました。2万坪あまりの広大な敷地を有する工場でしたが、1945(昭和20)年3月10日の「東京大空襲」により壊滅的な被害を受けました。昭和22年の航空写真では、すっかり屋根も焼け落ち、中には何もなくなった大きな工場跡地がはっきりと写っています。広大な建物が一瞬のうちに消滅したかのようです。戦後は、運動場として利用されていました。昭和38年の航空写真では、4面もある大きな野球場施設になっていることが分かります。
 1967(昭和42)年、その大部分は、住宅公団と東京都水道局の用地などになって、野球場は小さくなりましたが、それでも都心には珍しい大きな施設になっています。
 その水道局の、通りに面したところに、「日清紡績創業の地」の碑があります。

 日清紡績株式会社は明治40年1月創立後、東京府南葛飾郡亀戸町の当敷地2万余坪に、最新鋭設備を誇る本社工場を建設した。
 最盛期には、紡機107,800錘、織機360台を擁した本工場は、昭和16年軍の要請により陸軍被服本廠が使用するに至るまで、45年に亘り主力工場として綿糸布を生産し、広く内外の需要に応えると共に、幾多の人材を輩出した。
 この間明治43年、大正6年、昭和13年の三たび横十間川の洪水で浸水し、大正12年には関東大震災に逢ったが,従業員の献身的努力によりこの職場を守り得た。
 昭和20年大戦下の空襲により焼土と化したが、運動場として整備し主として勤労青少年の体育に寄与してきた。偶々昭和42年東京都浄水場、日本住宅公団用地として提供するに至り、当社の手を離れた。
 今般、この地に記念碑を建立し、会社創業関係者の遺徳と、生死苦楽を共にした多数従業員各位の功績を偲ぶものである。
                             日清紡績株式会社
                            昭和46年5月建之
 これでも分かるように、昭和16年には、「被服廠」となっています。
 「被服廠」といえば、関東大震災で大量焼死の悲劇が起こった場所として、本所にあった「陸軍被服廠」跡地が有名ですが、都内には、各所に、こうした軍関係の施設がありました。
 写真は、その野球場の外観。中央奥に見えるのが錦糸町にある総合商業施設・「オリナス」に隣接する高層マンションです。
 

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1 コメント

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拙作サイトの参考にさせていただきました (消印所沢)
2009-08-28 22:59:22
 はじめまして.
 消印所沢と申します.
 唐突に書き込みさせていただくご無礼をお許しください.


 さて,このたび拙作サイト
「軍事板常見問題&良レス回収機構」
におきまして以下のQ&Aを作成する際,
貴ページを参考にさせていただきましたので,
報告させていただきます.
http://mltr.ganriki.net/faq08d03t.html#19005

 引用の範囲内かと存じますが,
もし差支えがございますようでしたら,
遠慮なくお申し出いただければ幸いに存じます.


 それでは今後ともよろしくお願い申し上げます.
 草々
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