おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

読書「弱さの思想 たそがれを抱きしめる」(高橋源一郎+辻信一)大月書店

2016-09-16 21:44:06 | 読書無限
 平日の毎朝、8時ちょっと過ぎ。障がい児と母親(たぶん)が特別支援学校に向かうバスを待っている。小学生中学年ほどの体格の男の子を見守りながら、時には笑顔で話しかけ、時には疲れた顔をしてたたずんでいる。時々、障がいを持った、低学年らしい女の子とお母さん(おそらく)がそこに並んでいる。母親は、ほとんど一人で歩けない、かといって車いすというほどではない女の子を抱えながら、待っている。
 母親同士で会話をしていることもあるし、互いに無言のこともある(こちらが通り過ぎる間のことだけかもしれないが)。男の子の方は毎日見かけるが、女の子の方はそうでもない。雨の日は休みがちなのかもしれない、このところの雨続き(時には強い雨)でちょっと姿を見せないこともある。
 毎日、その4人(時には2人)の姿を見ながら通り過ぎる。

 このあいだ、神奈川の障がい者施設でおおぜいの障がい者が殺害された。犯人の青年は、障がい者への憎悪と執念で、かつてナチスが正当化した「障がい(かれにとっては、文字通り「害」)者」抹殺を現代の日本に蘇らせた。

 今、ブラジル・リオでは「パラリンピック」が行われ、これまで以上に、マスコミは日本人の活躍ぶり(メダルを取った選手にはことさら)を取り上げている。4年後の東京オリンピックを意識してなのだろう。その多くは、美談仕立てで。
 厳しい障がいを持ちながらも、周囲の献身的な協力のもと、自らの最大限の可能性(身体・運動能力)を必死に追求し、活躍する選手たちの姿は多くの感動を与えている。障がい者への差別意識を克服しつつ、より深い理解、支援も進むことになるのは間違いない。
 一方で、そうした華々しい活躍の蔭で、名も無く生きていく障がい者とそれを支える肉親、家族、教員、スタッフ、さらに支援者たちの努力、悩み、楽しみ、その複雑な思いにどこまで心を馳せることが出来るのか。パラリンピックの報道が、今の(これからの)日本の障がい者の実態(障がい者に関わる人々の現状)につながっていくのだろうか。
 障がい者の多くが警察やマスコミによって(家族からの要望もあったからのようだが)匿名(記号)のままに生命を絶たれたことへの思いもまた、・・・。

 「障がい者」=「弱者」、「老人」=「弱者」、「病人」=「弱者」。それ故、健常者=「強者」は「弱者」に対してあたたかい手をさしのべよう、支援策を充実させよう、地域から、みんなで、と声高に・・・。その内実はいかがであろうか? 

 この書は、明治学院大国際学部で2010年から2013年にかかて行われた、作家・評論家の高橋源一郎さんと文化人類学者でナマケモノ倶楽部世話人の辻信一さんとの共同研究「弱さの研究」がもととなった対談集。2014年発刊。 
 構成は、

 第1章 ぼくたちが「弱さ」に行きつくまで
 第2章 ポスト3・11~「弱さ」のフィールドワーク
 第3章 弱さの思想を育てよう

 の3章からから成り立っている。 

 特に第2章で取り上げられた「フィールドワーク」とそこから得た考察が興味深い。

①反原発の島、祝島(岡山)
②子どもホスピス(イギリス)
③精神病院が真ん中にある町(オランダ)
④アトリエ エレマン・ブレザン(志摩半島)
⑤宅老所「井戸端げんき」(木更津)
⑥生活介護事業所「でら~と」「らぽ~と」(富士)
⑦きのくにこどもの村学園(和歌山)
⑧山伏修行(羽黒山)

 そこでは、死に向かうこと、死を看取ること、年老いていくこと、精神や知的、身体的障がいがあることなどが即、「弱さ」=「敗北」「敗け」ではないということを身体の奥で味わい、実感したことを、深い経験をもとに「考察」する。知的営為も、所詮、身体知に及ばないことをも。
 
 特に、辻さんの『変革は弱いところ、小さいところ、遠いところから』というタイトルの本の中で、北海道浦河にある「ベテルの家」という精神障がい者たちを中心とするコミュニティーとの出会いがきっかけとなったこと、また高橋さんの身体的な衰え(死への思い)、学生運動などを通してのこれまでの人生、子育ての中でつかんだこと(つかまされたこと)などを背景に、二人の共同研究として「弱さの研究」を始めたきっかけから、その後の取り組みをもとにしての真摯な語り合いになっていく。
 その過程を(フィールドワークを)通して、世間的には「弱者」としてひとくくりにされてしまう人々や関わり合っている人々との対話、現実の中から学ぶ(学びほぐす)ことの大事さを伝えている。

 「負ける」の対義語は「負けない」だが、「負けない」と対になるのは「勝つ」ではなく、「勝たない」ということになるのだ、とも。
 小学校から勝った、負けたという競争社会。勝ちが50%で負けが50%ではない、勝者は1人(せいぜい3位まで)残りは、すべて「負け」。こういう経済至上主義、能力・能率至上主義の世の中で、実は、誰もが経済的、肉体的、精神的敗者(弱者)になる可能性がある。では「弱者」=「負け」なのか。そうではなく「負けない」「勝たない」こと。
 そこから、「弱者」に対して「強者」として対応するのではなく、むしろ「弱者」から気づかされる、まなび直すという価値観が生まれ、人間相互の関わり合いがこれからは大事なのではないか、と。そこに新しい人間としての価値、社会的価値が生じてくる、と。そうした生き方をさまざまな体験、事象、活動、見聞の中から試行錯誤しつつ獲得していくことの大切さを訴えている。

 副題の「たそがれを抱きしめる」という一種、情緒的な表現。「たそ」「かれ」どき、夕暮れ。自己と他者、お互いに顔の識別がつかない暗さ。しかし、すぐに、もっととっぷりと暮れ、彼我が闇に包まれ、「たそ」「かれ」ともに真っ暗になってしまう。その瞬間のあわいに、真の人間同士の一瞬のつながりがあること、そこを見つめ、とらえ直す(「抱きしめる」)。そんなきっかけにもなる書。 

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