おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

読書「イメージ 視覚とメディア」(ジョン・バージャー)ちくま学芸文庫

2013-05-22 21:21:22 | 読書無限
 ちょっと関係する仕事上で、ごたごた続き。なかなかPCにも向かえず、更新もままならず。メールと電話とお出かけと、・・・。一件落着までには、まだまだ時間がかかりそうな、・・・。
 世間でもハシモト発言などで盛り上がっていますが、世の中、ご多分に漏れず、ああ言えば、こう言えば「ハシモト」みたいな御仁も多いようで。開き直り、知らんぷり、陥れ・・・。
 こうした世事に紛れながらも、合間に読んでいた本に興味深い表現があったので。「イメージが芸術作品として提示された時、人々がその見方をすでに教えられた先入観によって影響される」ことの恐れというフレーズの中の言葉です。

 
 美、真理、才能、文明、形態、地位、好み、その他。こうした先入観の多くは、そのままではもう世の中にあてはまらなくなった(「現在」は純粋に客観的な事実ではなく、意識的なものである)。こうした先入観は過去を曖昧にし、神秘化してしまう。過去は、それが何であったのかを認識してもらうために見つけられるのを待っていることはない。歴史は常に現在と過去の関係からなるのだ。結局は現在に対する恐れが過去の神秘化につながっていく。過去とはそのなかで生きる場所ではなく、行動するための結論を汲み出す井戸のようなものである。過去の文化を神秘化することは二重の損失を生む。つまり芸術作品は不必要なほど遠くでつくりあげられることになり、過去は行為の遂行についてほとんど結論をくだすことはない。
 我々が風景を見る時、我々はその風景のなかに自分を位置づける。もし我々が過去の芸術を見たならば、我々は自分を歴史の中に位置づけるのである。我々がその位置を見ることを妨げられているのであれば、我々は我々に属する歴史を奪われていることになる。では誰がこの剥奪をおこない、そこから利益を得ているのだろうか。最終的には特権的な少数者が、支配階級の役割を正当化する歴史をつくりあげるために、過去の芸術は神秘化される。そしてもはや現代においては、そのような正当化が意味をなさなくなろうとしているがゆえに、彼らはやっきになって神秘化に励むのである。(P18)
 
 ここでは、芸術作品の受容が、すでにイメージづけられているのだということを述べています。過去の芸術作品を与えられた一定の先入観で見てしまうことへの恐れ。

 
 「手っ取り早い手段が売春婦になることだった」「従軍慰安婦はどこの国の軍隊でもあり必要なものだった、日本だけが強制云々と批判されるいわれはない」「自衛のための戦争で、侵略ではなかった」「敗戦したのだから侵略と見なされてもしかたがない」。「現憲法は廃棄」「改正の手続きを低く」・・・。
 「日本維新の会」のハシモトとイシハラのツートップの政治的発言。いずれも「当時は」(「過去」は)という限定をつけているところが、カギ。
 しかし、現在(意識的なものでしかない「現在」)を行動するための結論を汲み出す井戸のようなものが、「過去」。とすれば、過去を「神秘化」することによって(「神秘」とは、まさに「神」的なものであって、堅く信ずべき対象として位置づけ、それによって現在の行動を促すきっかけとする。)、現在の行動を正当化する。だからこそ、彼ら(二人)は「やっきになって神秘化に励むのである。」
 自らの主張の歴史的な正当性(事実か否か)は、まったく問題ではありません。国内外から、多数、反論されようと、こうして主張し続けていくことが、彼ら自身の現在を意義たらしめるゆえんとなっていくのです。そこを見抜かないと、過去に起こった事柄を巡る「論争」でしかなくなります。また、そこに持ち込むのが彼らの戦法。「日本維新の会」が主導する戦前回帰の道筋を見極めなければならないと思います。
 本書の内容からかなりそれました。次回は、本の内容を紹介。

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