おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

東京メトロ「新高円寺」駅~西武多摩湖線「一橋学園」駅。その1。(「五日市街道」第1日目。)

2019-01-28 20:32:11 | 五日市街道
                        →が「青梅街道」より分かれる「五日市街道」旧道。
                         「現五日市街道(都道7号杉並あきる野線)」は100㍍ほど東側で「青梅街道」と分岐している。

              
             
                  1880年代のようす。↓が分岐点。「吉」は「吉祥寺」のこと。

 新春。「五日市街道」歩きから始めます。「五日市街道」とは、「新高円寺駅」付近で「青梅街道」と分岐し、武蔵野市(吉祥寺)、武蔵小金井市などを経由し、あきる野市「五日市」までの街道です。

 (HPより)

1月12日(土)曇り、一時、雨。東京メトロ「新高円寺」駅下車。

(9:15)「五日市街道・旧道」から「青梅街道」方向を振り返る。

「現五日市街道(都道7号線)」と合流し、西へ向かいます。

                          

五日市街道」という標識。

「善福寺川」へ下る道には何カ所か旧道が残っています。

左の道に進みます。

                        

 今度は現五日市街道を横断して進みます。「善福寺川」への下り坂。
「加冨山米店」脇の道。

 「現五日市街道(都道7号線)」は善福寺川までゆるやかに下っていきますが、かつての道は急坂を七曲がりしながら下り、さらに川を越えると屈折した道になっていました。難所だったようです。

「都道7号線」。

旧道。

(9:37)左に折れる角に「民間信仰石塔」。
 石塔の南側の通路は、五日市街道の旧道で通称「白幡の坂」、西側の通路は「馬橋みち」といわれた古い道で、共に急坂な難所の一つでした。・・・

                 

一気に下って行きます。

「都道7号線(五日市街道)」に合流。

五日市街道」解説板。
 この前の道は、五日市街道です。
 五日市街道は、地下鉄新高円寺駅近くで、青梅街道から南に分かれ、成田東・成田西・高井戸東・宮前・松庵を通り、武蔵野市・小金井市を経てあきる野市に達する街道です。
 江戸時代初期は「伊奈道」とよばれ、五日市周辺の木材や織物、秋川谷で焼かれた炭荷等を江戸へ運ぶ道として利用されていたようです。その後、五日市道・青梅街道脇道・江戸道・小金井桜道・砂川道などといろいろ呼ばれ、農産物の運搬や小金井桜の花見など広く生活に結びついてきました。明治以降、五日市街道といわれるようになりました。
 この街道に沿っていた区内の昔の村は、高円寺村・馬橋村・和田村・田端村飛地・成宗村・田端村・大宮前新田・中高井戸村・松庵村で、沿道の神社や寺院・石造物の数々に往時をしのぶことができます。
 『新編武蔵風土記稿』によると、当時の道幅は、馬橋村と成宗村は3間(約5.4メートル)程で狭く、大宮前新田・中高井戸村・松庵村は8間(約14.4メートル)とあります。これは3ヶ村が、新田開発により開村された寛文(1661~1672)初年の頃、道幅を拡げたものと考えられます。
 明治以後さらに整備舗装され、現在は全長約57キロメートル(杉並区内約8キロメートル)が都道(主要地方道杉並あきる野線)に指定されています。
 武蔵野台地を西から東へ相添って走る五日市街道と玉川上水は、多くの新田開発を促し、多摩地域の発展に大きな力を与えてきました。
 沿道にそびえる欅並木は、この長い歴史の足跡を静かに眺めていることでしょう。

(9:39)「善福寺川」を「尾崎橋」で越えます。
 上流に向かって左側の台地が尾崎と呼ばれています。「おざき」とは、突きだした台地の先端(小崎)を指す古い地名で、発掘された石器や土器また住居跡からみて、この台地には約8千年前から人が住んでいたことが知られます。またこの地名に付会して「源頼義が奥州征伐のため当地を通過した際、源氏の白幡のような瑞雲があらわれ、これが因縁で大宮八幡宮を勧請することになったが、その白幡の見えたあたりを白幡(この付近)、尾の辺りを小崎と名付けた」(大宮八幡宮縁起)との伝説があります。
 このあたりの風景は、五日市街道を通って小金井の桜見物に出かけた江戸の文人たちの随筆にも書かれており、辻知篤の享和3年(1803)の文には次のように記されています。
「馬橋村のなかばより左におれて、山畑のかたへのほそき道をゆく。」「つづらおりめいたる坂をくだりて田面の畦をゆく。田の中に小河ありて橋をわたる。これを尾崎橋という。」

 
「善福寺川緑地」案内板。

                 
善福寺川
 杉並区の善福寺公園内にある善福寺池に源を発する。杉並区を北西から南東に貫くように流れ、中野区の地下鉄丸ノ内線中野富士見町駅(中野検車区)付近で神田川に合流する。
 中流の川沿いには都立善福寺川緑地と都立和田堀公園が全長約4.2 kmに渡り整備されている。ただし、これら整備された公園以外の河川敷の歩道は非常に狭い為、通行時のすれ違いには注意が必要である。なお、自転車同士のすれ違いが困難な場所もあることから、このような場所では地元の人以外が立ち入るのはまれとなっている。
 住宅地の低地を流れる河川であり、古くから氾濫する川として知られる。集中豪雨・台風対策として神田川・環七地下調節池(貯留量:54万立方メートル)を設置し水害対策を行っているが、2005年(平成17年)9月4日に発生した集中豪雨では、想定貯留量を超える雨が川へ流れ込み、中野区と杉並区の一部民家が被災する事態が発生した(浸水被害はおよそ3000戸)。現在でも橋梁付近には防災警報・カメラが設置され、土嚢が常備されている。
 なお、都市化とともに善福寺池に流入する水量が激減し、一時期上流部にはほとんど水が流れていなかったが、1989年(平成元年)からは善福寺池からの流出地点にあたる美野山橋のたもとより放水し、渇水を防いでいる。 この水は都の清流復活事業により千川上水へ通されている下水高度処理水を、上水の開渠部終了地点にて回収し、送水しているものである。
 1959年、杉並区内の善福寺川でBOACの客室乗務員が遺体で発見された事件(BOACスチュワーデス殺人事件)があり、後に松本清張の作品「黒い福音」のモデルとなった。
(以上、「Wikipedia」参照)


1880年代のようす。鋭角に折れている。



2010年代のようす。ほぼ直線化している。

橋を渡ってすぐ右側の道を進みます。

(9:44)再び都道に出る手前に「寶昌寺」。門前脇には「石橋供養塔」。

                     「東江戸道」とあります。
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