おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

ヒロシマ・広島2005

2005-08-06 08:22:57 | 平和
 1945年8月6日午前8時15分。運命の瞬間から60年が経ちました。今年の3月、久々に広島を訪れました。原爆資料館の他、はじめて爆心地の島外科病院の上空を見上げました。この上空約600メートルで原爆が炸裂した瞬間を思いました。もうすでに午後3時過ぎの空でしたが、青空を見上げました。
 昨日の6チャンネルの放送では、原爆ドーム上空で爆発したようになっていましたが、事実はもう少し東側の地点です。その再訪の記事は3月25日に書き記しました。
 
 広島。25年ぶりくらい、久々の原爆ドーム。資料館。のどかな春の日差しのもと、平和公園の川辺では何組かの青年たちが歌に興じていました。
 その姿を見ながら、平和公園をはずれて初めて爆心点に行きました。島外科病院です。1945年8月6日午前8時15分、その真上で投下された原子爆弾が爆発しました。見上げると、青空が広がっていました。
 袋町小学校資料館も初めて訪れました。爆心地からほど近いこの小学校(国民学校)は、鉄筋コンクリートだった西校舎だけが残りました。校庭で朝礼をしていた教師・児童は、原爆の高熱と爆風で一瞬のうちに跡形もなく地上から姿を消しました。
 この学校の階段の壁には階段にそって、行方不明者の安否を気遣う伝言がそのまま残されています。また、教室にも白墨で書かれた伝言が残されています。実に切々とした思いに駆られます。助かったのは、わずか数名。それもたまたま地下室の下足箱にいたからだそうです。
 今回の収穫の一つは、原爆投下前の家屋、住民・氏名の復元図でした。前に来たときにその復元作業を行っているところで、その資料を呼びかけていたような記憶があります。ほぼ完成していました。その原爆投下前の市街地の立体模型と原爆投下後のほとんど消え失せた立体模型を比較すると、いかに原爆が市井の人々の生活を一瞬のうちに奪い取ったかを確かめることができました。
 また、投下直後、米軍の撮影した写真は原爆の被害状況をみるためのものに過ぎなかったことも改めて感じました。生々しい写真を通じて、アメリカ(人)の核への恐怖が、「核抑止力」というかたちでいまもなお続いていることの原点はここにあるという感じがしました。新潟・広島・小倉・長崎は、他の各都市が焼夷弾などの爆撃を受けていたにもかかわらず、ほとんどなかった。そこに、原爆の威力の実験材料として温存されていたといいます。そして、日本の広島(長崎)では一瞬のうちに多くの生命が奪われました。
 そうして、不充分さはあるものの、広島は、反核の発信地として世界にメッセージを送り続けています。しかし、アメリカは、その悲惨な現実から、それを核兵器の巨大な破壊力と恐怖心とを結びつけ、いっそう、核開発を進めてきました。人間の持つ良心とそしてそれとは裏腹な心の存在をいやというほど見せつけられました。かつて、25年前、「ヒロシマから広島へ」という短い文章をある機関誌に発表したことがあります。当時を思い返すと、当時の原水爆禁止運動の中で、政治的に「反核都市・ヒロシマ」というイメージばかりが先行し、地に足のついた市民レベルでの反核運動を作り出すこと、それには被爆の原点に返るべきだという思いから書いたような気がします。
 それから25年以上。当時のアメリカ、ロシア、中国・・・。核大国といわれる国々の他、史上最強の暴力装置の力に依存する国が増えている今日、核の恐ろしさ、悲惨さを訴え続け、核に頼る力の政策では何も生み出さないばかりか、地上においてもう一度原水爆が投下されたならば、人類を滅亡に導くことにつながるということ(これはごく当たり前のことだが)を広島・長崎の被爆体験を通じて訴えていかなければならないと思います。(2005年3月25日)
 
 昨日の放送で、アメリカの科学者(開発に携わり当日キノコ雲を撮影した人物)が広島を初めて訪れ、被爆者との対話のシーンがありました。その科学者は「真珠湾を忘れるな」という言葉をしきりに繰り返し、戦争においては罪のない市民は存在しないと発言し、私は謝罪する気はない、と断言しました。さらに、核抑止力によって今の世界の平和は成立している、と。被爆者とのすれ違いこそが、60年前の戦争という、リアルな状況の一端を示したものでした。
 現実に、60年間、広島長崎に原爆が落とされて以来、この地球上で敵を殲滅するために、核兵器が用いられたことはありません。何度も、その危機はありましたが。しかし、地球上には、いまだに何万という核兵器が保持されています。まだまだ核兵器廃絶までの道は、遠い。
 一歩間違えば、地球を全滅させる(敵も味方もなく)核兵器によって、かろうじて平和が維持されている、というリアルな国際政治というものへの捉え方もあります。
 が、本当にそうなのか。戦後60年、各地での紛争・戦争は絶えることはありませんが、戦争解決の方法として核兵器を用いてこなかった、という当事者たちの判断力は、広島・長崎の今も続く原爆の悲劇にあるのではないか。人類のふみとどまるべき理性ではなかったか、少し甘い見方ではあるでしょうが。(テロリストへの核拡散を防ぐということが、焦眉の課題となっています。)
 そこに、唯一の被爆国民(市民)として原爆の悲劇を、後世にまで語り継ぐことが、核兵器使用への抑止力になり、ひいては、国際的紛争の手段としての戦争そのものをなくしていくことにつながるのだ。これは、本当に遠い道です、インポシブル・ドリームに近い!
 しかし、そうではあっても、核兵器を保持することが、けっして真の戦争への抑止力にはならないことを、ねばり強く訴えていくしかないと思います。
コメント (1)
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