おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR「八王子駅」~京王線「多摩境駅」。その3。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第1日目。)

2019-06-20 20:28:23 | 八王子絹の道
                         「絹の道資料館」。

バス停「絹の道入口」。その先、左手を行くと「絹の道資料館」へ。

                                 

(11:44)「大栗川」に架かる「御殿橋」を渡ります。 

欄干にあるレリーフ。
                 「武蔵国南多摩郡由木村鑓水 大塚山道了堂境内之図」。往時の賑わいが偲ばれます。  

「絹の道」という表示。

(11:49)左手のガードレールの崖際に大きな榎。「一里塚」跡といわれています。

眼下に里山風景が広がります。

(11:50)炎天下、ようやく「絹の道資料館」へたどり着きました。

 「休憩室」があり、ここで昼食がてら大休止。やっと着いた! という感じ。
「国道16号線」へ出るまで、→の道を歩いてきたようです(上が南)。

市史跡 絹の道
 「絹の道」は、横浜が開港し、鉄道が発達する明治の中ごろまで輸出用の生糸が多数運ばれたルートの一つです。現在、御殿橋のたもとから「絹の道碑」の前までの約1.5㎞が「絹の道」として市の史跡に指定されています。このうち、特に昔の面影をよく残す未舗装部分約1.0㎞は文化庁選定「歴史の道百選」にも選ばれました。

絹の道資料館
 ・・・市指定史跡「絹の道」の中心的な施設として、かつての鑓水の生糸商、八木下要右衛門家屋敷跡に休憩所を兼ね備えた資料館を建設することになりました。
 この計画にしたがって、昭和62年から、発掘調査による遺構の確認や、石垣の復元などを経て、生糸商人屋敷の景観をイメージした木造の門や、入母屋屋根をもつ絹の道資料館が平成2年3月に開館しました。
         

 展示室には絹の道の歴史、生糸や養蚕の生産技術、鑓水商人の事績や、絹の道に関連したキリスト教布教などパネルや資料が展示されていて、見所多し。

 さて、いよいよ史跡「絹の道」へ向かいます。
 本来なら下って来る予定でしたが、上って鑓水峠・大塚山公園へ。
             

(12:23)しばらく進むと「絹の道」への分岐点。
                                  案内板や「秋葉大権現」など3基の石塔があります。

 
                                     →は「絹の道」の後、たどる尾根道。
市指定史跡 絹の道
 安政6年(1859)の横浜開港から明治の初めの鉄道の開通まで、八王子近郷はもとより長野・山梨・群馬方面からの輸出用の生糸が、この街道(浜街道)を横浜へと運ばれた。
 八王子の市にほど近い鑓水には生糸商人が多く輩出し、財力もあって地域的文化も盛んとなり、鑓水は「江戸鑓水」とも呼ばれた。
 なお、この「絹の道」という名称は、地域の研究者が昭和20年代の末に名づけたものである。

歩き始めは、舗装道路ですが、そのうち山道になります。

                               来た道を振り返る。

 ここからは順序を変えて、①峠(大塚山公園)から下ってくる写真構成にします。

小高い木々に覆われ、眺望は悪い。

                            

下り坂。

④階段脇に「絹の道」と刻まれた大きな石塔と案内板。

                                 
 
⑤雨上がりのため、足下が滑りやすいので要注意。左右に竹林が。

                     

⑥小さな谷を隔てて、住宅が何棟も。「北野台住宅団地」。

⑦木洩れ日の中、山道を下ります。

                              

 

振り返る。

⑧こうして再び舗装道路に出て、「絹の道」分岐点となります。

                     「絹の道資料館」前の道。     

 ほぼ尾根筋なのに、ところどころ、窪地状のところを進むので、大雨の時は、ぬかるみを歩くことになりそうです。かつては大きな荷物を背負っての歩き。通行量の増大で、次第に道にくぼみが出来たのでしょうか。かなり難儀をした、と。

 結局、大塚山公園(鑓水峠)を往復して約35分でした

 ところで、
「鑓水」という地名の由来は?
 鑓水は大栗川の源流部 にあたり湧水が大変豊富であった。そのため、多摩丘陵の斜面に槍のように尖らせた竹筒を打ち込んで飲料水を得ていた。この方法を「ヤリミズ」と言い、地名の由来になったと言われる。

「鑓水商人」とは
 江戸時代、鑓水は生糸の取引で「江戸鑓水」と呼ばれるほどにぎわいをみせ、鑓水商人という商人集団が生まれた。日米修好通商条約により横浜港が開港すると、高値で売りたい養蚕農家と生糸の欲しい外国商社との間を取り持ち、各地から生糸を買い集め、鑓水村にある自前の蔵に蓄え、頃合いをみて高値転売を行うという手法で一層発達した。この時代、平本平兵衛・八木下要右衛門・大塚徳左衛門・大塚五郎吉などの商人が活躍し、1851年(嘉永4年)には、まだ鎖国中にもかかわらず、外国人を接待するための「異人館」と呼ばれた螺旋階段つきの洋館まで建てられ、開国後にはイギリスの外交官、アーネスト・サトウも「異人館」を訪れ、宿泊したという。鑓水は最盛期を迎えるが、そのほとんどが明治時代の中ごろまでには没落してしまった。

(以上、「Wikipedia」参照)。どうも後半は身も蓋もない表現ですが。

 そこで、

みなさんは、絹の道と呼ばれる道が、八王子に残っているのを知っていますか?
「絹の道」と刻んだ石の記念碑がたてられている鑓水峠から、南へ下る約1.5kmの短い区間ですが、八王子の史跡として保存され、平成8年(1996)には全国の歴史ある道の中から特に昔の面影を残す道筋を選んだ《歴史の道・百選》に指定されました。

どんな歴史がある道なのか調べてみましょう。

絹の道のはじまり
 絹の道の歴史は、安政6年(1859)の横浜港開港にはじまります。開港と同時にはじまった外国との貿易の中で、輸出品の中心となったのが生糸でした。そして、八王子から横浜港へ大量の生糸を運ぶために使われたのが、絹の道でした。でも、当時はこの道は「浜街道」と呼ばれていました。「絹の道」という名称は、昭和20年代末に地域の研究者・橋本義夫氏らによって名づけられ、今ではすっかり定着しています。当時の生糸の主な生産地 は、上州(群馬県)、甲州(山梨県)、信州(長野県)などでしたが、つくられた生糸の多くは、八王子の市に集められ、多摩丘陵をこえ町田をとおり横浜に運ばれました。
 また、絹の道は、八王子に西洋文明を伝える道でもありました。

なぜ八王子は、運搬の基点になっていたのでしょう
 もともと八王子の周辺では、養蚕や機織りが盛んに行われていましたが、養蚕地帯の中でも横浜港に近く、江戸にも近いといった地理的条件に恵
まれていました。そのうえ、商売がうまく、江戸時代から生糸の取り引きを盛んに行っていた鑓水商人と呼ばれた人たちの活躍も大きかったようです。

生糸はどのように運ばれたのでしょう
 当時は、まだ鉄道も自動車もありませんでしたので、もっぱら人々の肩に背負われたり荷車に積まれたり、牛馬で運ばれたりしていました。現在でも絹の道を歩いてみると、お椀のようにくぼんだ道が続いているところがあります。そのような道の形からも、当時の往来の激しさが想像できます。大栗川沿いには、道しるべもたっています。慶応元年(1865)に 絹の道がにぎわっていた頃のもので、正面には八王子道、左側、はら町田・神奈川・ふじさわ、右側、はし本・津久井 つくい ・大山ときざまれてあります。当時の人はここで道を確認していたのでしょう。
 このように、にぎわっていた絹の道も明治22年(1889)の甲武鉄道(今の中央線)の八王子までの開通や明治41年(1908)の東神奈川と八王子 をむすぶ横浜鉄道(今の横浜線)の開通など新しい交通路が開かれると、その役割を終えていきました。

鑓水商人
 現在は、のどかな風景をみせる鑓水の集落ですが、当時は生糸の取引で栄え、にぎわいをみせていました。鑓水は横浜への生糸の積み出しに活躍した商人たちの根拠地で、彼らは、鑓水商人と呼ばれました。
 鑓水商人は、横浜開港前からすでにはなやかに活躍していた生糸商人で、鑓水の地が「江戸鑓水」と呼ばれるほどに繁栄させ、代々名を継いでいました。横浜港が開港すると、彼らは、それまでの経験をいかし、さらに富を増やしていったのです。鑓水商人として、平本平兵衛・八木下要右衛門・大塚徳左衛門・大塚五郎吉などの名前が知られています。
 しかし、彼らの没落は早く、それぞれの事情のため、明治の中頃までには商人としての活躍を終えてしまいます。活躍の場を失っていった背景には、国の政策によって、機械製糸の大工場で作られた生糸が、大きな問屋の手に渡り輸出されるようになった時代の流れもありました。

(この項、「絹の道と鑓水商人 - 八王子市図書館
https://www.library.city.hachioji.tokyo.jp/pdf/004.pdf」より。ただし、小学生向き。フリガナは省いた。)

この付近の今昔。



1880年代のようす。街道は尾根筋を通り、鑓水村から「御殿橋」(○)を渡っていく。




2010年代のようす。北側は住宅開発が進んでいるが、南側はまだ里山の風景を残している。
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JR「八王子駅」~京王線「多摩境駅」。その2。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第1日目。)

2019-06-19 20:38:36 | 八王子絹の道
          汚水用マンホールの蓋。デザインは江戸時代末期より八王子市に伝承されている人形劇「車人形」。カラーのものもあるようです。

八王子車人形

 文政8年(1825)に現在の埼玉県飯能市に生まれた初代西川古柳(にしかわこりゅう)(山岸柳吉)によって、江戸時代末に考案されました。
 文楽系の三人遣いを、「ろくろ車」と呼ばれる車をおさめた箱に腰掛けて操る一人遣いに改良しました。右手で人形の右手、左手で人形の左手と首、さらに指で目・口・眉まで動かします。人形が舞台に直接足をつけて演技が出来るため、独自の躍動感が生まれます。このような構造は世界でも類がないといわれています。
 平成8年には国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選定されました。
(この項、「」HPより)

 マンホールのデザインは「三番叟」と思いますが。

「万町(よろずちょう)」(途中の看板に「まんちょうと読む人手を上げて」とあります)を経て、「黄金橋」を渡ると、左手に短く旧道が残っています。

1880年代のようす。○の部分。

2010年代のようす。右が「八王子医療刑務所」。



                      

左手には「八王子医療刑務所」。

(9:52)「子安町」交差点を過ぎて、京王線のガードをくぐります。

                右手に「京王片倉」駅。


「北野街道」を横断し、その先の「住吉橋」を渡ります。

 この先「鑓水峠」までの道筋は、住宅開発等で不明なところが多くなります。「国道16号線」から左に折れて、JR横浜線「片倉駅」方向に進みます。
 折れる手前、国道沿いにすてきなお店「コーヒーブリックス」。


1880年代のようす。道は二手に分かれている。
                   右の道は「鑓水峠」へ、左の道は「御殿峠」方向(現「国道16号線」)。


2010年代のようす。様変わり。旧道の痕跡?

(10:04)JR横浜線の高架が見えてきます。左手に「片倉駅」。 

「兵衛川」にぶつかります。正面には大きな屋敷。

「釜貫橋」を渡って、向こう側に。

                           

「野菜無人販売所」。いまだ健在。

(10:10)この付近は、昔ながらの道とおうちが。

(10:14)住宅地を歩き、「日本文化大学」前へ。

 この辺りから道を間違えてしまい、大学脇の西側の細い坂道を進んでいきます。本来は、左の道を行かなければならなかったのですが。
 でも、静かな住宅地の中の小道。意外と風情がありました(負け惜しみ)。

「シルクロードハイツ」の表示を見つけ、この道かな、と。

「八王子バイパス」先、「鑓水峠」への階段に行けず。(「」HPより)

その手前をウロチョロ。

 この付近の今昔。

1880年代のようす。谷戸を縫うようにして進む。


2010年代のようす。すっかり住宅団地に。


宅地造成中の「鑓水峠」北付近。1970年代。 
                     

(10:39)西に行きすぎて、「都立片倉高校」のところに出てしまいます。

 ますます日ざしは強くなるし、初めて履いたスニーカーのせいで、両脚のつま先は、次第に痛くなるし、・・・。
 路線バスがあれば乗ろうかと、「国道16号線」へ出て、南下します。
「東京工科大学」のりっぱなキャンパス。

(11:00)上り坂で振り返ると、奥多摩の山並みが遠くに。 

「御殿峠」に着きます。バス停を見ると、次が「鑓水」。気を取り直して。

なかなか外観の凝ったお店「パペルブルグカフェ八王子」。

 こだわりぬかれた中世南ドイツ騎士の館をモチーフにしたお店です。
 パペルブルグはJR横浜線 八王子みなみ野駅から徒歩20分ほど、鑓水の東京環状(国道16号)沿いにある【Pappelburg】と書かれた看板が目印のコーヒー専門店です。
 駐車場(20台)もありますので、お車でもご利用いただけます。
 店内は完全分煙となっており、タバコを吸われる方でも安心です。
 パペルブルグの主なメニューは、マンゴーパフェ、フレンチトースト、パスタランチ、ビーフシチューランチ、B・L・Tランチなどがあります。
 館内外の壁には本格的なフレスコ画が描かれており、訪れる人々に感動を与えます。
 多摩美術大学との連携によって忠実に再現された店内と、お店自慢のメニューの数々から、オーナーのこだわりがひしひしと伝わってくることでしょう。
 

(この項、「」HPより)

(11:11)「鑓水北」交差点。左手奥の森の向こうに「鑓水峠」?  

 結局、二手に分かれた旧道の、西側の道の一部を進んできたわけです。
 次が「鑓水」交差点。そこを左に折れて歩くと、目的地に着くようす。せっかくここまで来たのだから、と。

空はますます青く。

(11:33)「多摩美術大学」。

 さて、行き着くのやら。
 
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JR「八王子駅」~京王線「多摩境駅」。その1。(「八王子~横浜・絹の道」を歩く。第1日目。)

2019-06-18 19:52:51 | 八王子絹の道
                                「絹の道」。
 この前、かつての職場の同僚たちと飲み会がありました。
 皆さん、お元気です。ま、だいたいが健康問題とか、今の許せない(やるせない)政治(アベ政権)の状況とか、そんな会話の中で、それぞれの趣味の世界、今関わっていることなどの話のついでに街道歩きの話になります。
 ある方から「いっそ本場のシルクロードでも歩いたら」と、年も費用も考えず、そんな話が。まさか今さら中国の奥地、砂漠地帯を歩くということにはならんでしょう、と。
 そこで話は別の話題に。
 帰宅して、そういえば、日本にも身近なところにあったっけ。「シルクロード」が。・・・
 そう、「シルクロード」八王子から横浜まで。
 しかし、調べてみると、すでに失われてしまった道が多い。街道歩きが国道歩きではちょっと。思ったより、右に左に旧道が残っているようです。
 そこで、今回から2,3回に分けて歩いてみることにします。しかし、これからは梅雨時、晴れれば蒸し暑い炎天下。どうなることやら。・・・ 

(「」HPより)

 日本全国街道歩きの達人のHPをよりどころにして歩きます。 

 まず事前学習。『Wikipedia』を参照して。

神奈川往還(かながわおうかん)   注:「絹の道」は、後年名づけられた呼称。
 現東京都八王子市周辺と同神奈川県横浜市を結んだ道。別称として浜街道、武蔵道、絹の道があるほか、横浜側では八王子街道とも呼ばれる。経路は現在の町田街道および国道16号に相当する。

注:現「国道16号(東京環状)」は、八王子市鑓水付近からは大きく離れ、「町田街道」さらに「旧国道16号」が旧「神奈川往還」の道筋に近い。

 従来より八王子周辺は多摩郡や甲州・武州各地で生産された生糸の集散地として栄え、この生糸を江戸や多摩郡の各地域へと出荷していたが、江戸時代末期の1859年(安政6年)に横浜港が開港すると貿易が活発になった。海外への貿易品の中心は、生糸や絹製品であったため、輸出のため横浜方面へも出荷が行われるようになり、浜街道と呼ばれるようになった。八王子から町田を経て横浜港までの約40km の街道は、鑓水商人(やりみずしょうにん)と呼ばれる多くの絹商人の往来が盛んとなって、のちに絹の道と称されるほど発展するようになる。
 この浜街道は、現在の町田市相原町字坂下付近と町田市鶴間字大ヶ谷戸付近までの間で二通りの経路に分かれており、ひとつは主流であった現在の町田街道の経路である。八王子を出発し鑓水峠を越えたところで武蔵国多摩郡の相原村(現町田市)に入り、境川の東側(武蔵国内)となる同郡原町田村を中継地として抜け、鶴間村(以上、現東京都町田市)、都筑郡今宿村(現神奈川県横浜市旭区)などを経由して横浜港へ向かっていた。
 もうひとつの経路として、相原村(現在の相原坂下交差点付近)で分岐して境川を渡って相模国高座郡橋本村に入り、同郡の淵野辺村、上鶴間村(以上、現神奈川県相模原市)、下鶴間村(現神奈川県大和市)などを経由した後に再び境川を渡って武蔵国多摩郡の鶴間村に入ったところで上記の経路と合流する現在の国道16号に相当する経路がある。
 但し、上記の原町田を抜ける経路のほうが発展していたことや距離が近かったことなどから、もっぱら裏街道のような存在であった。こちらは後に国道16号(東京環状)として発展することになる。
 かつての浜街道の名残は八王子市鑓水、町田市小山町、町田市原町田(町田駅周辺)のほか、町田市鶴間(横浜町田IC付近)から横浜市旭区川井宿・今宿・鶴ヶ峰周辺までにかけての国道16号線旧道区間に見られる。
 一方相模国を経由するルートでは、第二次世界大戦時に相模原都市建設計画(いわゆる「軍都計画」)が持ち上がり、都市整備によって全く違う道へと姿を変えてしまったため、相模原市内では淵野辺付近から上鶴間付近までの旧16号線と呼ばれる道路や、村富神社付近、西門(相模原)から氷川町までの道路、そして橋本駅北口周辺に見られる程度である。
 明治時代に入り1908年(明治41年)に街道と並行して横浜鉄道(現JR横浜線)が開通すると、絹の運搬は鉄道に取って代わられることとなり、「日本のシルクロード」とまで呼ばれた街道は、次第に廃れていった。

絹の道
江戸時代の幕末から明治時代にかけて、八王子から横浜まで生糸をや絹織物が運んだ裏街道として繁栄し、八王子市の鑓水峠の近くには「絹の道」と刻まれた石碑も建てられている。御殿橋から「絹の道」碑までの約1.5 kmの区間は八王子市の史跡に指定されており、現在も往時のたたずまいを残していて「歴史の道百選」にも選ばれている。
 八王子は「桑の都」とよばれるほど養蚕が盛んで、江戸時代後期以降は生糸や織物の生産が活発になり、「八王子織物」として知られていた。鑓水商人とよばれる八王子の商人たちは、鎖国の時代にオランダの東インド会社と密貿易をおこなうために、絹織物を隠密に運搬していた。「絹の道」とよばれたそのルートは、八王子の鑓水村から小山(現・町田市)を経て市が開かれていた原町田(現・町田市)に至り、神奈川街道を通って横浜の保土谷から東海道の芝生村を経て、関内に達する約40 kmの道のりであった。
 広義の「絹の道」は、この八王子から町田を経て横浜に至る経路全体を指していうこともあるが、町田 - 横浜間は「神奈川街道」「横浜街道」「浜街道」「町田街道」などの別称があるため、狭義の「絹の道」は、鑓水 - 町田間の経路を一般に指す。

鑓水商人
 中央高地、北関東および多摩地域で生産された生糸が八王子や原町田周辺に集められるようになると、特に多摩郡由木村鑓水(現:八王子市鑓水)の商人が仲買として活躍し「鑓水商人」の名で知られるようになる。絹取引で富を築いた鑓水商人たちの屋敷が、街道に沿って軒を連ねた。
 江戸幕府は、鑓水の商人たちが生糸を横浜に運んで密貿易をすることを取り締まるために「五品江戸廻令(ごひんえどまわしれい)」を出して、生糸、呉服、水油などの五品目はすべて江戸経由で運ばなければならないように義務付けられたが、これを無視して「絹の道」を通って横浜に運搬する者が後を絶たなかった。

(以下は、「自由民権運動 - BIGLOBE www7a.biglobe.ne.jp/~sagamihara/fuukei/03)harataima/silk.htm」HPより)
自由民権へ道
 一方「絹の道」は、文明開化の道、伝道の道でもあった。生糸の生産者、養蚕家、絹商人たちが外国商人との交渉により、キリスト教や、文明開化の新しい思想に接触してカルチャーショックを受け、それを媒介にして政治的民権的自由を求めて、民権運動が発展してきた。そして「絹の道」が日本での重要な伝播の道となったのである。秩父事件(秩父大宮)、武相困民党事件(相模原・八王子)、群馬事件(妙義山)というような三大暴動および自由民権の政治結社とが「絹の道」に集中している。

注:多摩地域は「五日市憲法」で有名なとおり、明治時代に自由民権運動が盛んだった土地。それが、三多摩が元々の神奈川県から東京都に移管された一つの原因ともいわれている。(相模国→武蔵国)

 前日は、大雨。一転して雨上がりの快晴。6月16日(日)。「甲州街道」歩き以来、久々にJR「八王子駅」下車。

 (9:27)スタート。「甲州街道」の「八日町」交差点から「国道16号線」を南下します。

                     (9:31)「横浜まで41㎞」。

しばらく進むと、(9:40)道路標示では「横浜まで39㎞」ポスト。
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